第39話『葡萄で造った神秘の酒』

「旨い酒が呑めるってんでついてきたが、かしこまったのはあまり得意じゃないぜ?」

「だからお前を呼んだんだ。俺だって作法なんてわからん」

 トールとケイルゥ、二人は身なりを正装にして、重厚な扉の前で及び腰になっている。

 大の男二人が委縮するそこは、ベテランのソムリエ、ヴィルギット=ロージェンバウムの構える社交界一といわれるワイナリーのレストラン『ラナウェイ・ヒッシュ』だ。

 入り口から既に醸し出されるオーラは、伝説のカクテルを呑んだアラベスクと同等かそれ以上だ。広大な敷地の隅にあるゲストハウスは、ワインに合う料理も出せるバースタイルになっていて、ヴィルギットのソムリエとしての知識を聞きながら、最良の状態に貯蔵された、数あるワインを味わえる。酒飲みとして、世界で一番飲まれている酒の、何たるかを知らないのはいけないと思い、一念発起してトールはここを訪れた。

 しかし、訪れる前に、本でワインの入門編を勉強してきたが、その敷居の高さに思わず本を閉じた。そこで悪友のケイルゥを誘っての今だった。入り口で固まる二人を見越してか、中から一人の熟年が現れた。

「お初にお目にかかります。本日の案内を任される、当ワイナリーのソムリエ、ヴィルギット=ロージェンバウムです。トール様、ケイルゥ様。ご来場ありがとうございます。お二人とも初めての御来場ですが、どうかかしこまらずに、リラックスしてワインをお楽しみ下さい。今日は初春らしいいい日和で、ワインを飲むにはいい季節になりました。さ、中へお入りください」

 コシのある白髪の長髪を後ろで束ね、これまた真っ白な髭をきっちりと切りそろえて、ヴィルギットは清潔感の溢れる老紳士だった。背中に定規が入っているかの如くシャンと伸びた背筋に、張り出た胸筋を、黒のタキシードで包んでいる。身長は、長身のケイルゥよりも、わずかに高い気がする。溢れ出る男気が、にこやかな笑顔でやっと抑えられている感じだ。普通に街で出会ったら、トールは即座に道を譲るだろう。促されて二人は、ぎこちない笑顔を浮かべた。

「たしかに固まっていても仕方ないな、よし入るぞ。トール」

 ケイルゥが先頭で中へと入ると、その豪奢なインテリアたちが二人を迎えた。光明石ではなく、櫨の実の木蝋の乗ったシャンデリア。重厚感漂うネイビーやヴァイオレットの、落ち着いた色彩のヴィンテージレザーソファ。年輪の深いモスキートポルトの一枚木のバーカウンター。その奥には、逆さに吊られたワイングラスが粋に並んでいる。整然と並ぶ壁一面のワインボトルが、蝋燭の光を反射して、ここがワインを楽しむ場所だということを煌々と告げている。トールは、雰囲気に押しつぶされないように、襟を正した。

「好きなところにお掛けになって、お寛ぎください」

 扉を後ろ手に閉めてヴィルギットは礼をした。トールたちは、チョコレート色のアームチェアに腰掛けた。ずっしりとした心地よい沈み加減。いい塩梅だ。歪みのないしっかりとしたフレーム。光沢のある滑らかな牛本革が、吸い付くようなしっとりとした手触りなのは、行き届いた手入れがされているからだ。

「良い椅子だな」

「確かに。これは俺じゃ作れないな」

 唸るほどの出来。これはワインも期待できそうだ。

「それではまず料理を決めていただきます。まずは口を温める温かいピッツァ、次にお口直しの魚料理、次いで新鮮な血の味とのマリアージュを楽しむ肉料理。最後は締めのパスタ。甘いものは用意しておりません。甘みはワインで。ではごゆっくりを選びください。その間に食前酒をお持ちします」

 一礼をしてヴィルギットは奥へと消えていった。ラナウェイ・ヒッシュでは、客の好みの料理に合ったワインを、ヴィルギットが見繕ってくれる。料理のメニューが、その日によって変わる楽しさから、多くの食通が訪れることでも有名だ。グルメを名乗る者たちは、ヴィルギットとのやり取りを楽しみに、ここを訪れる。二人とも、テーブルにあったメニュー表を流し見た。すると、ケイルゥがしたり顔で言った。

「トルフ茄子とキールトマトのマルゲリータ。春真玉ねぎとガガオマグロのカルパッチョをバジルソースで、か。良い趣味してるな。なぁこうしよう、ちょうど4品選べる。俺とお前で交代交代でメニューを決めよう」

「いいな。お前のセンスも見れる」

 トールは、ケイルゥの提案に乗っかることにした。そうした方がこの場所をもっと楽しめることだろう。

「ピッツァと肉料理は俺が決める。お前は魚料理とパスタを選べ」

「わかった」

 ケイルゥから始まる順番で、メニューを決める。料理の種類はそう多くない。それでもこの掛け合わせが、今宵の自分たちを、どういうものに運ぶかが決まる。心地よい緊張で、却って体の力が抜ける。客は、トールとケイルゥの二人だけだが、オープンバックドレスを着た、淑やかなピアニストが、緩やかなピアノの独奏曲で空気を彩っていた。

「よし、決まった」

「俺もだ」

 と、二人のメニューが決まった時、タイミングよく、ヴィルギットが食前酒を運んできて、少し離れたカウンターテーブルにそれを置いた。

「頃合いがよさそうですね。ではまず食前酒のシャンパンです。銘柄はシャングリラ・ロマンチカ。自家栽培の葡萄を中心に醸造している小規模なメーカーの作るレコルタン・マニピュランで、味の具合を決めるドザージュはドゥミ・セックで中甘口。絹織物のようなきめ細やかな泡と、焼き菓子のような膨らみのある甘い香り、僅かな苦みのあと生姜のような辛味残るのが特徴のシャンパンです」

 そう言ってヴィルギットは、氷が入ったクーラーに刺していたシャンパンを手に取り、水気を布巾で拭った後、ボトルの方を回しながら柔らかく栓を抜いた。ポフっという小気味よい発砲音が耳を刺激する。ヴィルギットはブジョネを確認して、確と頷いた。フルートグラスに注がれた、シュワシュワと泡の弾ける音が、食事の始まりを告げた。

「どうぞ」

 トールとケイルゥは、シャンパンの揺蕩うグラスを手に取って、まず香りを楽しんだ。華やかな葡萄の香りの中に、焼き立ての小麦粉菓子や、花やスパイスの香りが織り重なった香気が、鼻孔をくすぐる。香りを受けて味わいを想像するスイッチが入った。グラスを傾け、まずは口に含んで少しだけ転がす。舌を刺激するクリーミーでミルキーな泡と、酸味の効いたコクのある液体が、口いっぱいに広がる。それらが喉奥に吸い込まれ、鼻だけでは感じられなかった香りの波が、口腔に押し寄せる。どこかで聞いたことがある。味は舌で味わうものではなく、大半は香りによって認識できると。

「良い味をしている」

「美味しいです。とっても」

「それは良かったです。ではメニューを伺いましょう」

「では、まずはミトオリーブとムムツアンチョビのピッツァを」

「塩気の強いならエルムグーフの白が良いですね。心地よい酸味が食欲を増進させます」

「魚料理は、光桜鯛の刺身が良いです」

「へぇ刺身か。いいな」

 ケイルゥが言った。

「鯛は硬さを取るためにクツリヅリコモリランという菌を使って熟成魚にしています」

「お、ラッキーだな。どんな味になるのか食べてみたかったんだ」

「いいな。なかなか食べられるもんじゃないしな」

「この時期、脂ののった光桜鯛は非常に甘く、ねっとりとした食感で、それをワインで洗い流すと、適度の油が口に残り、さらに双方の香りを高めます。こちらも白ワインが良いでしょう。では肉料理はいかがいたしましょう?」

「無垢ラムのテンダーロインを、フライドガーリックとバルサミコで、で」

「活発な男子らしいご注文ですね。でしたら重めの200(トゥーハンドレット)という赤にいたしましょう。私が初めてワインというものに感動した酒です。まろやかな舌触りと、松の木のようなバルサム質の香りが蒸留酒にも負けない、深く濃い味わいを奏でます」

「ワインでも飲みごたえのあるものがあるんですね。締めのパスタはペスカトーレを辛めでお願いします」

「エクセレント。甲乙つけがたい、パーフェクトなオーダーですな。銘柄はロイヤルナイツ。騎士の血の如く、洗練された力強さと、気高い気品を感じる赤を用意します。今宵を締めくくる最良のワインを堪能いただきます。ミネラルウォーターで口直しをしてもよろしいですし、この品目なら味のコントラストを楽しむのもよろしいかも知れません。バケットも用意していますので頃合いを見てお持ちします」

「わかりました」

「では少々お待ちを」

 ヴィルギットの笑顔は、愛嬌とは違うが、惹きつけるものがある。その嫌味じゃない模った表情は、身を引き締めもするが、気持ちをフッと軽くする。礼節を重んじる紳士の笑みだ。ヴィルギットは料理長にメニューを伝えるべく、再び奥へと消えていった。

「刺身に辛めのパスタ。良いチョイスだと思うぜ」

「お前は味の濃いめのものを選ぶと思ったからな」

「味がたくさんする方が楽しいだろ? にしても旨いシャンパンだな」

 光に翳して、ケイルゥはシャンパンを堪能している。

「確かに。しかし、100年に一人の役者とうたわれたお前が、ここを知らないとはな。ワインはあまり嗜まないのか?」

「いや、飲むよ。しかし役者なんてやっていると、質より量を楽しむ。飲む時は樽で取り寄せているしな」

 ケイルゥは、白い歯を見せて笑った。

「お前もいい歳なんだしそろそろ飲み方を考えた方が良いんじゃないのか?」

「健康の話はよせ。酒がまずくなる。まぁ旨いものはみんなでワイワイやるより、少しの量を時間と共に楽しむ方が良いのかも知れんが」

「たまにはいいことを言うじゃないか」

「いつも言ってる」

 談笑していると、ヴィルギットがバケットを持ってやってきた。

「ご歓談中に失礼します。バケットをお持ちしました」

「ヴィルギットさんは、ワインはやはり本場のレクレールシャンブルで修業を?」

 ケイルゥが、ヴィルギットに尋ねた。

「そうですね。初めはアマンムクレリアで5年、料理をしながらワインについての勉強をしました。それからソムリエになってからはアリストセリアで7年、ドートで4年、スリングイットで6年と旅をしてきました。レクレールシャンブルに行ったのはその後。それからここハナサキペトラオウスミカに来て、レクレールに次いで長く滞在しています。私ももう齢ですし、このままここに留まってもいいと考えています。ここは住み易い。たくさんの人と文化といい葡萄があります」

「それは良かった。私もこの街が好きです。役者として花が咲いたのもここに来たお陰だと思います」

「ケイルゥ様の芝居は心を打ちます。どの役も役の人生が滲み出て来るかのようで見ていて、味わい深い酒に触れた気持ちになります。新春公演も素晴らしかった」

「あれは脚本が出来すぎていたんですよ。アーガレット先生の本は血が通っている。だから役にも入りやすかった」

「確かにあれは良かったな。芝居の分からない俺でも伝わってくるものがあった」

「トール様は、街はずれで道具屋を営んでいるとか。ワインにもたくさんの道具と付き合っています。何かご縁がありそうですね」

「ここに相応しい道具が果たして私に作れるかどうか。勉強させてもらっています」

 トールはそう言って、何気なく胸のあたりを探った。

「タバコを吸いになるなら葉巻のご用意がありますよ」

 察しの良さは流石もてなしのプロか。

「本当ですか」

「せっかくだから俺も貰おうかな」

「ではお二人分。お好みがあれば伺いますが?」

「いえ、ヴィルギットさんのおすすめがあれば」

「俺もそうします」

「甘い香りのバハナーナ、辛味の効いたパトスロソト、濃厚な味わいのジュリエッタ等と揃えてありますが、そうですね。今宵は洋ナシの香りのするカタラーナにいたしましょう。ワインを邪魔しない良い香りが楽しめます。少々お待ちを」

 ヴィルギットは、そう言ってピアノの奥にある戸棚の方へ歩み寄った。

「洋ナシの葉巻か。食事にフルーツがないからちょうど良さそうだな」

「馬鹿を言うな、今呑んでるのはなんだ?」

「そうだな。極上の葡萄酒だ」

 二人がにやりと笑うと、ヴィルギットが、レトロな紋章の入ったシガーケースを持参して戻ってきた。きっちり踵から踏み出される足音が、精悍な音を奏でている。

「お待たせしました」

 恭しくケースの蓋を開けると、そこには太く重厚感のある葉巻が、礼儀よく並んでいた。ケースの隅には、湿気るようにきちんと濡らした綿があった。

「どうぞ」

 二人は手を伸ばし、中から葉巻を取って、腹の部分の匂いを嗅いでみる。甘酸っぱい洋ナシの香りと思いきや、年齢を重ねた女性の濃い花を煮詰めたような、ツンと鼻を突く香りがした。シガーカッターで吸い口を綺麗に作ると、ヴィルギットが小指ほどのサイズの金属の箱を取り出し、蓋になっているであろう、やや上部にあった切込みに指を滑らし、シャンッと小気味いい金属の弾ける音共に、中から太い火が躍り出た。火は僅かに揺れながら形を整え、先細りの三角形を形成し、あたたかく灯った。

 トールはその金属の箱の正体を知りたかったが、ヴィルギットが構えている手前、顔を近づけプカプカと葉巻を吸い、火を点ける。焦れる思いが現れたか、火はなかなか点かなかった。

「ヴィルギットさん、それは?」

 トールが聞くよりも先に、ケイルゥがそれを尋ねた。トールの葉巻に火が点いたのを確認すると、ヴィルギットはケイルゥに火を勧めた。

「もしかしてそれはライターというものですか?」

 口腔に燻る煙を味わいつつも、トールはその正体を確かめたかった。

「ご明察です。流石は道具屋のご主人。この存在はお耳に入っていましたか」

 ライター。マッチのような使い捨ての燃料とは違い、力学と機械産業が生み出したテクノロジーの一端。金属のカバーの内部にある綿に、可燃性のオイルを染み込ませ、火種となる芯を作り、火打石と摩擦熱の原理を利用して作った火花で、手軽に着火することの出来る携帯着火器である。トールも商人の間で噂は聞いたことがあったが、実物を見るのはこれが初めてだった。せっかくの葉巻の豊かな香りも忘れるほど、未知なる道具への興味に痺れた。

「これは科学の街、メガロオプティフで生まれたジッポライターと言います。火を点けるにはマッチが主流ではありますが、この新しさと手軽さからお客様との話題作りの一環のためにオーナーが取り寄せたものです。私はせっかくのワインや料理の話がそっちの気になってしまうので少々手を焼いていますが、この便利さは新しい時代を予感させます」

「よく見せてもらっても構いませんか?」

「えぇ、もちろん。芯を含む内部構造の部分とケース兼消火装置を担うケースの部分とで分解も出来ます」

 トールは葉巻を灰皿に置くと、手渡されたジッポライターを食い入るように見つめた。

「顔つきが変わったな」

 ケイルゥは口いっぱいに溜めた煙を、嬉しそうに吐き出しながら言った。

「だって、これは凄いぞ。人間てのは道具をここまで便利にするんだなぁ」

 感嘆としたため息を漏らしながら、トールは子供のようにジッポライターを眺めた。

「ありがとうございます」

 トールはヴィルギットにジッポライターを返すと、しばしの間目を瞑り、自分の中の夢の世界に浸った。

「道具のことになるとすぐにこれだ。嫌だね、職人って奴は」

「そう言うなよ。俺にとっては大事件なんだ。メガロオプティフではこれが当たり前のように使われているんですか?」

「いえ、まだまだ生産体制が取れていないのが現状だそうです。愛煙家でも有名な発明家オドック=ニューロンが生み出しました。私は若いうちからこんな楽を覚えてしまったらいけないと考えますが、後戻りできない、というのが文明の進化なのでしょうね」

「そうですね。人の歩みは止まらない。こういうものがだんだんと誰でも手に取って使えるようになって、人は不便さを忘れていく。いや、忘れるまでもなく始めから知らないで育っていく子供たちが、その時に感じている不便さを失くそうと、どんどん文明をバトンタッチしていく」

「それは好いことなのかな? 知恵がつくことは必ずしも幸せになるとは限らない」

「それでも人がより良く生きるために努力することは尊いことです。ワインもそうです。その年取れた葡萄の品質。それは変化の目まぐるしいこの世界で、均一に保つのには努力が必要です。努力とは勤勉であること。人間が良くも悪くも勤勉であるからこそ、進歩するものです」

 人が神に憧れ歩みを止めないのは、自分自身を完璧に理解してほしいからだ。新しいものを生み出すことで、その人の見ている景色を現実のものにする。それは道具にはとどまらない。人と人との関係性も、常に新しいものを取り入れていくことで進化していく。勇気をもって一歩踏み出すことで、知らなかった知識や情報を得られる。人間得をした、と思うことが人生で何よりも重要なのである。

「料理が出来るまでに小話を一つ致しましょう。私がまだ恐れを知らぬ若造の頃、親友と一緒にピクニックに行って、そこで初めて葉巻を喫いました。丁度今くらいの時期に、まだ春風の強い麗らかなブランチのことでした。風が吹きすさぶ中、マッチを何本も擦ってやっとのことで点けた葉巻でしたが、手荒くちぎった吸い口がボロボロとこぼれ、口に着くや唾を吐いて、やっと点けたと思った火を消えないように、せわしなく吹かしながら、口に拡がる流れ着いた流木を暖炉の火が絶えないように静かに焼いて出るような手に余る煙を味わったものです。その時、持ってきたワインでマリアージュを堪能しました。口腔に燻る煙に新鮮なワインが合わさった時、互いの香りの主張が寄せては返し混ざり合いました。ワインは最高の時間を過ごすために存在するのだと思います。美味しいワインはついつい人を詩人にもさせてくれる。そういった意味も込めて、ワインには大変に教養にあふれています。味の違いを楽しむのもよし、ワインを起点に旅を始めるのもよし、小難しい巧拙を並べ自分自身にも酔うもよし。ごゆるりと至福の時間をお楽しみください」

 にこやかに笑うヴィルギットの、積み重ねた年月が、熟成されたワインにも似た嫋やかさを湛えていた。

 バケットを挟みつつ、シャンパンを楽しむ。焼き立てのバケットは、表面はカリカリ、中はフワフワだが、甘みと香りは抑えめで、主張しすぎず口の中をリセットしてくれる。

 料理が運ばれてくるまでの間、二人はお互いの仕事のことや、先々のこと、軽く人生観の話などをして、他愛ない時間を過ごした。人が何に感動するかはその人それぞれだが、そのどの部分に感動したかを伝えることは、確かに大切なことの気がする。自分がどういう人間かを伝えることによって、お互いを深く知ることが出来るし、自分一人では気が付かなかった視点を持つことが出来たり、価値観を磨くことが出来る。しかし、独身貴族と言っては、良く聞こえるが、そうやって培っていった価値観は、時に恋愛の邪魔にもなるし、婚期を遅らせることにも繋がる。まぁ人気役者のケイルゥに至っては、この人という女性に会うまで、自分の目利きを信じて選り好むのだろうが。

 そうこうしているうちに料理がワゴンに乗せられて運ばれてきた。バケットとはまた違った、チーズとオリーブとアンチョビの、脂っぽくもクリーミーな香り。そして、ワゴンの下には、緑味のボトルの白ワインが籠の中に寝かされていた。

「早速いただくことにしよう」

「ワインも楽しみだ」

 ケイルゥとトールは手を擦り合わせて、ピザが皿に運ばれるのを待った。ヴィルギットは手際よくピザを給仕すると、白ワインの栓にコルクスクリューをねじ込んだ。幾多のワインの栓を抜いてきたのであろう、その所作は洗練されていて見惚れる。小気味よく栓を抜き、ヴィルギットはブジョネを確かめる。流れるような所作だ。グラスに白ワインが注がれた。

「お待たせいたしました。ピッツァと白ワイン、エルムグーフでございます」

 芳しいピッツァと共に、やや黄緑がかった白ワイン。そそられて二人はクゥと腹を鳴らした。まずは、ワインを。膨らみのあるワイングラスの底にある白ワインを、ステムを持って、光を空かして色を見てから、回してみる。ここまでは教科書で見た通りだ。慣れないトールの手つきでは、あまり上手く回すことが出来ずに、ワインは波打った。ケイルゥは笑ったが、そんなもん気にするな、という大らかなものだった。グラスの縁に鼻を近づけると、密度のある尖った香気が鼻を通った。

「これは……」

 香りは薬品臭さもあるし、ガソリン臭さもある。不快ではないが、意外だった。

「ワインの奥深さ、それは香りに在ります。SL機関車の煙、コークスストーブ、焚き火、焼きたてのパン、炊きたてのご飯、メロン、バニラ、チョコレート、ココナッツ、ナッツ、石油、鉄、チーズ、ヨーグルト、バラ、紅茶、スパイス、野性味、燻製。様々な香りが、呑み手をはるかな旅へ誘ってくれます。一見、警戒してしまう香りでも、踏み込んでみると、意外な顔を見せることがある。そういうことも、ワインは見せてくれるのですよ。実はこのワインは、ドートで安価で楽しめるテーブルワインの一つで、実に多くの人に楽しまれています。ワイナリー未体験のお二人に、失礼かとも思いましたが、私の誇るコレクションの一つです。しかし、少し勇み足になっているかもしれません。一口頂いて、もし好みでなければ、別の物を用意します。まずはご賞味下さい」

 ヴィルギットは丁寧にそう言い、そこには、不安や揺らぎは見受けられなかった。トールは、やや恐る恐る、ワインを口に運んだ。

 グラスを伝ってワインが口に流れ落ちると、微炭酸のようなきめ細かい泡のような口当たりが、広がった。絹ではなく、コットンのようでもある。それが舌に優しく纏わりつき、次に酸味が襲った。柔らかい酸味が、三層は感じられる。酸味の中に苦味と、香りにも層があり、甘味が隠れている。渋み、癖も薄めでちょうど良い。

「……ヴィルギットさん、好みの味ですよ。ケイルゥ、お前はどうだ」

「ちょっと待て、今、堪能しているんだ」

 ケイルゥはそう言うと、恍惚の表情で二口目を呑んだ。トールも続けて呑む。一口ごとに味を探求するのが楽しいが、一杯で見極められるとは、到底思えない。口の中に含み、舌を転がすとまた違った表情が見えてくる。喉奥と腹にたまる酔いは、ことの他、熱い。乾きを癒すというより、味を楽しむ酒だが、味わいたくて、口の中で転がしていても、唾液で汚すより、喉奥で楽しみたい欲求が勝る。それと同じ程、飲まなくては、と急かされる。口壁にぶつけると刺すような刺激が襲う。体に残る酔いは、爽やかさと軽やかさと、少しだけ眠気を誘う。心地良い。

「いやぁ、驚かされました。旨い酒ですね」

「確かにこれは旨い。これがテーブルワインとは驚きだな」

「お替りを貰えますか?」

「俺もお願いします」

 ヴィルギットは二人にエルムグーフを注いだ。今度は味わえるように、たっぷりと。

「お二人の好みに合ったようで、胸を撫で下ろしました。可能であれば、是非、語らってやってください。エルムグーフは、地下にあるワインセラーから出したばかりの物を用意しました。そのくらいの冷えが丁度いいのですよ。一番適切な香りと、喉を潤すのに心地よい清涼感。ワインの価値は、値段に在りません。その土地でどのように作られたか、歴史のある賢人ばかりが、世の中を作っているわけではありません。血気盛んな若者や、色を知った少女。私のような筋肉質な熟年。実に様々。その中で、自分に縁ある人々と人生を営んでいく。そう言ったものを更に、知り得なかった土地にまで思いを馳せることが、酒というものは教えてくれます」

「私は、ウイスキーを好んで呑みますが、同じことを感じますね。敬遠していたのが勿体ない。ワインは自分には縁のないものだと思っていましたが、踏み込んでみて良かった」

「酔うだけじゃない酒、いや、酔いに酔うっていうのかな。酒に浸るってのも良いものですね」

「お二人とも自意識がまだまだ若い証拠ですな。三十代ともなれば、きっかけさえあれば、何でも吸収することが出来るようになる頃です。楽しいですよ。体力任せでなくなり、用心差も身に着き、人生で一番盛んな時期かもしれない。私も一番ワインにのめり込んだのは三十代でした。ささ、ピッツァも冷めないうちに」

 トールとケイルゥは、フォークと手を使って、ピッツァを口に運んだ。アンチョビの塩気をオリーブの脂が包み、ねっとりとしたチーズのコクと相まって絶品だ。この塩気をあの清涼感で洗い流せるとなると、最早期待しかない。

 トールは最高の時間を予感しつつ、自分たちで選んだ幸福の軌跡を思い描いた。

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