第38話『ハニースイートタイム』

「どうだい? 自分で作った巣箱で取った蜂蜜の味は?」

「これは……言葉になりませんね」

 トールは、ハナサキペトラオウスミカの北部にある養蜂園『シークパナッシュ』に来ていた。今日は初めて自分で作った巣箱で、今年採れた初物の蜂蜜の出来を見るため、収穫のお手伝いだ。初挑戦で試みたカサササカサの花蜜で出来た、赤みがかった黄金色の蜂蜜は、ねっとりとクリーミーな上、力強い甘さと豊かな香りで、一口舐めただけでも、十分に満足感を得られる濃厚なものだった。舌に残る甘さは、砂糖で感じるような単純なものでない、複雑で層の厚さを感じる。文句なしの出来だ。

カサササカサの花は、冬から春にかけて咲く花だ。養蜂園の忙しい春と夏ではなく、比較的手空きの時期に出来るとのことで、巣箱をお手製して、シークパナッシュの女主人ハンナの元で、トールは養蜂を体験した。材木は松の木を使用し、釘と針金だけで組み立てる。蜂のための餌、砂糖水を入れる給餌器や燻煙器など、養蜂に使う道具も多い。道具屋としての腕が試せるいい機会だった。

蜂蜜は、午前中の早い時間に収穫をする。午後になると蜂が集めた新しい花蜜と、蓄えていた蜜が混ざり合って、水っぽくなってしまうからだ。

今朝から防護服に着替えて、燻煙器の煙で蜂たちを、少しだけ遠ざけて巣を拝借する。お湯で温めた蜜刀で蜜蓋を切ると、黄金色の蜂蜜が滴った。それを遠心分離器にかけて布で濾過する。そうすると、すぐにでも食べられる蜂蜜の出来上がりだ。

ハンナの飼っているクリレヲミツバチは、ハンナが、直接山に行って採取した蜂だ。養蜂に適した、集蜜力がある・あまり刺さない・逃げ出さない、の三拍子が揃い、腹部がオレンジ色の可愛い友人だ。若い頃に趣味で始めたハンナの養蜂だったが、今では巣箱を300も連ねる大所帯になっている。

ハンナの作る蜂蜜は、花一つの味が楽しめる単花蜂蜜の養蜂を可能にして、それがシークパナッシュの売りだった。トールは商品展開の知恵を貸すことで、ハンナと知り合った。そんな中で、トールの店でもハンナの蜂製品を扱っており、特にハンナの作る蜜蝋石鹸は、ご婦人方にも人気がある。トールの作った木型のデザインも、定期的に変わって見た目も楽しませている。贈り物としても最適だ。

シークパナッシュでは蜂蜜を売る他に、今ではハンナの娘夫婦が切り盛りする、小さなカフェで、ハンナの蜂蜜を料理でも楽しめるように提供している。

蜂蜜は、甘く芳醇な味や香りだけでなく、栄養価も高く、ミネラルを多く含んでいて滋養強壮にも良い。お茶に混ぜてハニーティーにしたり、肉に塗って肉質を柔らかくさせたりも出来る。更に、蜂蜜はスムーズに消化されることから、胃腸への負担も軽くすみ、効率の良いエネルギー源となる。トールも、もう無茶を控える歳になって、なるべく健康志向なものを選ぶようになった。純度の高い糖質なので、強い酒を呑んだ時は、舐めて二日酔い予防にしたりと、随分と助けられている。

午前中に搾蜜を行い、今は娘夫婦の経営するカフェの裏手で、ハンナと歓談をしていた。ハンナが、去年取った蜂蜜を味わわせてくれるとのことで、焼き立てのパンと共に、既に娘のアンが置いていった、二つのアイスコーヒーと共に、それを待っている。蜂蜜の詰まった瓶の並ぶトレーを抱えて、ハンナがやって来た。瓶をテーブルに並べる。レンゲ、アザミ、クローバー、アカシアたくさんの蜂蜜の味比べ。仕事とはいえこんなに楽しんでいるのは、大した役得だ。

「さぁ、お上がり」

 と、ハンナに勧められ、トールは、

「いただきます」

と、涎を飲み込みながら、ハニーディッパーでパンに蜂蜜を垂らす。温かいパンの麦の香りと相まって、食欲をそそるいい香気が立ち昇った。まずはバランスの取れた甘みで、比較的多く集蜜することが出来るクローバーから。口に放り込むと、パンから染み出る蜂蜜は、カサササカサに比べ、あっさりとしていて、さらさらとした舌触り。クセの無くマイルドな口当たりで、紅茶やハーブティーに入れてもいいかもしれない。次にナノハナの蜂蜜を取る。パンに滴らせて頬張る。クリーミーな甘さと、少し気温が低いせいで結晶化している、独特の舌触りが面白かった。香り立つ甘みというのは、笑みが浮かぶ程に美味い。

「いやぁ旨いなぁ。これは」

「そうかい。そりゃぁ良かった。養蜂をやりたい、なんて物好きな奴かと思ったが、トール。あんたもまぁ面白い商売の仕方をしているね」

「そうですか? 一人者なんて大体こんなものだと思いますが」

 トールは、ディップしたパンを頬張りながら言った。実に甘美な味だ。

「あんたは、土地に縛られていない。人は暮らしていれば知らず知らずのうちに、土地に根付いていくものさ。あたしのようにね」

 それを眺めながら、ハンナが頬杖をついた。

「店を構えた時から、この街で暮らしていく覚悟はしてきましたが」

 トールは、おしぼりで口と手を拭った。

「そうじゃない。生活の木軸になる仕事ってのは、引力みたいなもんさ。いや、あんたの場合、仕事じゃないのかも知れないね。生き方は、その人の魂の形を表すもんさ」

 そう言って、ハンナはトールの胸の辺りを指差した。

「魂の形?」

「そうさ。丸、三角、四角。大きかったり小さかったり、柔らかかったり硬かったりする。人の粗を探す職場にいれば尖っていくし、根無し草で方々に散っていく奴等はどうしたって結びつきが弱くなるから、千切れやすい」

 そう言ってハンナは、自分のアイスコーヒーを口に含んだ。

「僕の魂の形はどんなですか?」

 少しだけ姿勢を正して、トールは言った。

「そうさねぇ。コシのある麺のタネってとこかな」

「それは、美味しいと良いんですが。食べてみたら意外な食感であることを望みます。ハンナさんは、形はともかく、蜂蜜ってより、テキーラって感じですね」

「言うね。言えて妙なり。でも、女ってのは、そう易々と形容されないのさ」

 ハンナはトールに再度、食を促す。改まった雰囲気もなく、トールは次の瓶に手を伸ばした。食べ進めていると、ハンナが唐突に、

「蜂蜜ってのは、甘く芳醇なだけでない。人生を豊かにさせる役割がある」

「役割?」

「そう。役割だ。蜂たちが大切に集めた蜂蜜を分けてもらう。全部じゃない。蜂たちが生きていけるだけの量を残して、あたしら人間がそれを頂くんだ。何もかもを味わおうとする傲慢で欲深の人間の知恵っていうズルいところで、これは成り立っている」

 ハンナは瓶に入った蜂蜜を手に取って言った。蜂たちがせっせと集めた結晶。人の成果を奪う、なんてことは、人同士ではあってはならないものだ。人と動物の隔てがあるから、これは成り立っている。

「人間の特権と言ったら確かにズルい気がしますね。初めは栄養源を手に入れる手段だったかもしれないが、人間の欲ってのは本当に深い」

 ありとあらゆるものを食べ尽くし、それでも尚、人は新しい味を求めようとする。発展していくことが、この世の常で、人間以外のことはどうでもいい。そういう業は生きるうえでの矛盾も、自然と触れていると、良く感じる。

「人間の在るべき生き方、なんて説くつもりはないが、本来人間が壊して良い自然なんかないんだ。森を切り開き、田畑を作り、木を切って家を建てる。開拓精神も良いが、それは人間の都合さ。それで住処を追われちまう動物たちがいるって言うのに。人間はもっとわきまえるべきなんだ」

 昔本で読んだことがある、『田畑を耕すことが嫌な怠け者がこの世界を作った』という、言葉が浮かんだ。

「耳が痛いですね。僕なんかは、如何に人間が暮らしやすくするかしか考えていない。その土地を最後には返すつもりで、間借りしている。そういう気持ちを持っていた方が良いのかも知れません。自然に触れていると、人間が営んでいくということを、親身に考えさせられます」

 独り身のトールとして、今後自分が家庭を持つかはわからないが、もし一人で死んでいく時、そうできる自分で在りたい。これは、願いだ。

「ふっ。一人前の養蜂が出来たってことで、こいつを飲ませてやろう」

 そう言ってハンナは、棚から黄金色の液体が入った透明な酒瓶と、グラス二つを取り出した。

「ハンナさん、それは?」

 トールは波打つそれを、期待を込めて見た。

「ミードっていう蜂蜜で作った酒だよ。蜂蜜に水を入れるだけ作る代物さ。手間がかからなく簡単に発酵する酒だから、歴史はワインよりも深い」

 ハンナがそれを机の上に置くと、瓶の中で踊った金の液体は、トプっと密度の濃い水音を立てた。

「ワインよりも。それは是非味わいたいですね」

 トールはその甘みを十分に楽しむべく、アイスコーヒーを口に含んだ。

「自然も大事だが、これは人間にしか楽しめない」

コルクの擦れる音と共に栓が抜け、酒瓶を傾けると、トクトクトクと耳触りの良い音が、瓶の口から漏れる。

手渡されたグラスを、軽く回して鼻に近づけると、確かに蜂蜜独特の芳醇な香りに混ざって、鼻を柔らかく突く、酒っぽいツンとしたアルコールの香りがする。それでも香りは丸い。一度透かして掲げ、金色を愛でる。グラスを近づけ、傾ける。口に染み渡らせるようにして含むと、鼻を抜ける濃い蜂蜜の香りと、深い甘みのわりに、呑み下すと舌に残る後味は、思いのほかスッキリとしていて存外、飲みやすい。そのままでも十二分に美味しいが、濃い味で口腔を纏わりつく感じが、喉を痛めた時に飲む酒なら、最高の酒かもと思わせた。酒好きならではの発想だな。飲み終わった後に、唇を舐めると、まだ蜂蜜の甘味が残っていて名残を楽しめる。これが蜂蜜に水を入れただけで出来るなんて。梅酒より好みだ。

「旨いです。また一つ飲む酒の種類が増えました」

「こいつは私の趣味でやってるものだからあまり量は作ってない。このミードはね、あたしの作った蜂蜜で造るんじゃないんだ。山にいる蜂たちがどこの花とも知れず作った蜂蜜で出来ている。あたしはこれを味わう時、彼女たちがせっせと集めた身を粉にする働きを感じながら、複雑な花の甘味と香りと時間を楽しむ。一朝一夕では作れない、そんな積み重ねて積み重ねて作った、努力の結晶が不味いわけないよ。自分で呑みたかったら酒屋のもの好きが蜂蜜を仕入れに来ているから、行ってみるといい」

「それは是非、贔屓にしたい店ですね」

 トールはグラスを掲げ、もう一度、ミードを透かすにして見ながら言った。ミードは嫋やかに金色を返していた。相当に気に入っている様子と分かり、ハンナはミードについて語った。

「地方では、新婚が新婚の甘い期間を楽しんで、蜂蜜酒を一カ月呑むんだ。それをハネムーンと呼ぶ。作り方は水を三対一の割合で混ぜ、ワイン酵母を入れて四~八週間発酵させる。一日数回かき混ぜてやって空気を含ませてやる。不純物をベントナイトで濾しとり酸化防止剤等をくわえて、ステンレス容器で三カ月~二年半落ち着かせると飲み頃だ。エイジングミードと呼ばれる深いコクのあるミードは三~五年寝かせて作る。冷やして飲むのがいい。今はグラスに注ぐが、本音は瓶から飲むのが良い。少しだけ味が変わる。毎晩これをやるのが私の楽しみだ」

 そう言ってハンナも、自分のグラスにミードを注いだ。

「蜂の針は医術にも使えるんだ。あたしはもともと関節痛が酷いんだが、蜂の針を刺すと痛みが和らぐんだ。針を刺した蜂は死んじまうから、あたしのために命を使わせちまって気が咎めるがね。病気になった時も、巣を丸ごと焼いちまう時がある。そんな時は本当に辛くなるね」

 ハンナはそこまで語ると、グラスを傾け、ミードを呑んだ。

 ハンナの養蜂を手伝うにあたって、トールも蜂に対しての感度低下プログラムが敷かれた。氷で冷やした腕に蜂の蜂を刺して蜂の毒を少しずつ体の中に入れる。体はだんだんと免疫を持ち、次第に十回刺しても反応がなくなる。そうすると蜂に刺されることに対しての恐怖心や痛みも少なくなり、蜂の前でもリラックスし、蜂にストレスを与えなくなる。そうしている時も、一回刺す度に一匹の蜂が犠牲になる。ハンナの手つきは慣れたものだったが、決して気持ちの良いものではないはずだ。

「養蜂はね。犬や猫を飼うくらい、もっと生活に浸透してもいいと思うんだ。まぁどちらかというと、豚や牛みたいな家畜を育てるのに近いのかもしれないが。寒い冬を乗り越えたり春に盛んに蜜を集める蜂たちは、一年を通して手間と時間を費やすことが出来る。そういうところは植物に似ているな。おかげでこの土地からは離れられないけど、人が人として生きていくのに、必要なことを教えてくれる気がする。私は彼女たちが愛おしい。せっせと花粉と花蜜を集めて蜂蜜が出来ていく様を見ていると、私もまだまだ頑張らなくちゃって思うんだよ」

「共に生きていく者がいる生活は励みになりますね」

「『養蜂は些細な事柄に大きな注意を向ける必要のある職業だ。良い養蜂家は一般に多かれ少なかれ偏屈である』って言葉がある。少しの変化も大ごとのように感じちまうあたしなんかが築いた人脈よりも、娘のおかげで広く人と関わることが出来た。料理もあたしよりも上手いしね。人と関わり虫と関わり、満ち足りた良い暮らしが出来ているよ。亭主は早くに失くしちまったけど、もうすぐ孫の顔も見れる」

「甘いものを作っているうちに生まれるなんて幸せなお孫さんですね」

「一緒に甘い酒が呑めるくらいになるまでは、あたしも頑張らないとね」

 ウインクするハンナの顔は、血色もよく年の割には皺も目立たない。それが蜂蜜の効果なのか、それとも日々に生きがいを持っているからなのか。どっちであっても幸せな暮らしをするために生きる彼女の生き方は、素晴らしいと思った。トールは杯を傾け、甘く芳醇な時間を楽しんだ。

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