第35話『勇者と使徒の印』
白い息も凍り付く早朝、トールはいつも通り、工房に籠って仕事をしていた。
煙草は既に切れてしまい、灰皿に残ったシケモクを拾い上げて火を点ける。すると裏口からノックをする音が聞こえた。トールは、身なりを軽く整えて戸口を開ける。と、目を見張るトールの口から煙草がこぼれた。そこにあった姿は、何でもない街の風景に紛れるその姿は、あろうことか、かつて過酷な冒険を一緒にした勇者、その人だった。
「やぁ」
「勇者様……勇者様じゃないですか!」
トールは思わず、勇者の肩を抱いた。
「久し振りですね、お会い出来て……」
「トール君、火」
「わたたた」
トールは、慌てて転がった煙草の火を揉み消した。
「久し振りです、トール君。元気にしていましたか?」
勇者エルトキアスは、トールが旅した時と一分も変わらぬ姿で、そこにいた。瑞々しい艶やかなブロンドも、空の青を溶かしたような蒼い瞳も、時間が止まったように変わりがない。
五大聖霊の加護の元、天使に恩恵を受けたエルトキアスは、悠久の時を過ごす神人となった。元々神の化身として、聖母マリアンヌの腹から、処女懐胎で生まれたエルトキアスは、常人とは違う時を過ごしていた。産まれたその時から人語を話し、僅か一週間で立ち上がり、一歳の頃には、既に馬車の扱いを覚えた。三歳の頃には、世界の憂いである魔王に、強い敵愾心を持ち、剣の修練を始めたとされている。
その活躍は、語るまでもなく、人々を救う行いは既に伝説となっている。その見た目から、うら若い青年のようにも見える。だが、かのマエストロに及ばぬものの、その歩んできた人生は意外なほどに長い。聖人君主のように丁寧で、謙虚な姿勢を崩すことはないが、トールよりも歳はずっと上だ。
「こんなこところまでどうしたんですか、よくうちが分かりましたね」
「上から見ればすぐにわかりましたよ。君の煌きはあの頃と変わりがない」
微笑む顔も悠然としていて、見る者の心に爽やかな風が吹く。紡がれる言葉の一つ一つの音でさえ、狐雨の降った昼に出る、虹の音階が奏でる美しい調べのようだ。
「いつ下界に戻ってきたんですか?」
「降りてきたのはついこないだですけど、せっかくだし少し羽を伸ばそうと思いまして。マエストロのところにも、顔を出そうと思っています。ひと月くらいはいるつもりですが、とは言え、私も忙しい身ですからね。仲間との挨拶が済んだら早々に帰るつもりですよ」
「そうですか、みんな喜ぶと思いますよ。俺なんかのところに来てくださってありがとうございます。今、お茶でも淹れます」
腰を上げたトールを、エルトキアスは手で制した。
「トール君。トール君のところに来たのは少し訳ありなんです。これを見てください」
エルトキアスは、白衣のマントの中から、一つの金属の塊を出した。飴色の鉱物。勇者と旅をしたトールには、それが何かわかった。
「これは……オリファルコンですか?」
「ご明察。とある神から譲り受けましてね。これで一振り剣を作ってほしいんです」
「剣を、ですか? また戦いでもあるんですか?」
まさか魔王が復活したのか。旅を途中で離脱したトールには、勇者エルトキアスが最後どういう形で、魔王にとどめを刺して、結末を迎えたのかは見ていない。
勇者一行が皇都に帰還した後、全世界に向けて皇令が出され、世界が生まれ変わった節目に、『光暦』が始まった。勇者の偉業の一部始終は、皇室専属の吟遊詩人と、聖典執筆人によって、聖歌と伝記が作られた。勇者が魔王を倒したとされる終戦記念日には、毎年平世祭が催され祝砲が上がり、人々が聖歌を歌って勇者の偉業を讃え、平和を慈しむ。伝記は全世界に無償配布され、子供達の教材としても普及している。
高位の魔力を有する魔王はこの世界を支配しようと、その版図を勢力的に伸ばしていた。魔族は人間を虐げ、対抗するも敗北し侵略された国は植民地にされ、語るにも堕ち、憎しみが未だに根深く残っている地域もある。恐怖と暴力によって、人々を搾取した魔族は、今は散り散りになって、ココのように生き残り、悪さをしている者もいる。
不安から出たトールの緊迫感を、エルトキアスはにこやかに払拭した。
「いや、怒れる神々の喧嘩を止めるのも私の役目でして。神といっても日常があり、感情がありますからね。怒りの規模が人間と比べ物にならないというだけで、彼らも日々執務をしてる身です。ストレスもあるんでしょう。天界の空を裂き、地を砕き、海を割るなんて日常茶飯事です。魔王の方が性質がいいと思うこともしばしばです」
「それは……難儀ですね」
およそ、トールの想像を軽く超えた世界の話だ。かつての魔王討伐の旅よりも、苛烈な役割を勇者が担っていることに、驚きはあるものの、どこか納得はしていた。
旅の間も、人間の常識とはズレたところに彼はいた。伝説のカクテルの時の話じゃないが、空を駆ける翼も、海を泳ぐヒレも、彼には自在に生み出せる。あの高飛車なサラもその力には舌を巻いていた。旅で知ったこと。世の中には、自分よりも遥かに優れ、文字通り天恵を得た人間がいた。世界の広さを思い知ったのも、この人と出会ってからだ。自分の知っている世界の小ささに、卑屈になったのもそうなのだが。
「でも俺なんかが打った剣でも大丈夫なんですか? 俺は『使徒』じゃない」
トールにも鍛冶の経験はある。しかし、勇者一行の正式なメンバーには、首筋の後ろに浮かぶ『印』と呼ばれる紋章があった。それは勇者を支える使命を、天から預かった者の証だった。印の浮かんだ者は、天から特別な力を授かる。その力で勇者を助け、支える者たちを総じて使徒と言った。サラにもその印があり、常人とは一線を画す力が宿っている。トールにはそれがなかった。
「グスタフからこれを預かりました」
エルトキアスが脱いだ白手袋の下の手の甲に、鍛冶の印が浮かんでいた。グスタフとは勇者一行の武具を一手に任されていた鍛冶職人の名だった。グスタフの作る武具には、不思議な力が宿った。打ち出した剣は岩をも易々と切り裂き、仕立てた鎧は灼熱の炎も通さない。そうした特別な力があってこそ、勇者たちは強大なる力を持つ魔王と戦うことが出来た。
「グスタフが先日、没しました。その折、この印を私に預け、私は彼の後継を探すことを始めました。それは天の意志がまだ世界に真の平和が訪れていない、と言うことの現しかもしれない」
エルトキアスは、物憂げに目を伏せている。
「暴力と言うものが世界からなくなって、誰もが心優しく相手を思いやれるようになったのなら武力と言うものは必要なくなるのでしょう。しかし、世界はまだその地点には至らない。その役目が終わるのならば、印はそもそも消えてしまうものだと私は考えます。あの時、煌きを持っていた一人の君には、その試験を受けてほしいと私は思うのですよ」
「俺が使徒になる……かもしれないということですね」
トールは、果たされなかった自分の責任を考えた。勇者との旅に強制力はない。そうであったからこそ、旅の途中でパーティを離脱することも認められた。印のなかったトールなら尚のことだ。そのことがトールの中で、平凡な人間として魔王討伐などと言う気高き使命に、卑屈になってしまった一番の理由だが。しかし、手に入れてしまったこの緩やかな日常に、またあの時のような、張り詰めた日々を送る覚悟は、既になくなっていた。
「すみません。勇者様のお言葉でも、今それを受け取るわけにはいきません」
キッパリと意思を込めて、トールは言った。
「俺は今の日常を守るならなんだってやるつもりです」
「君は君として身の回りの世界を大事にしようと言うのですね。それも大切なことです。人が誰しもそう思えたのなら、世界は本当の意味で平和になるのだと思います」
エルトキアスは笑みを返した。一言だけで全てを理解したのか、エルトキアスは納得するように頷いた。トールの中にあった悩みや劣等感も分かりつつも、サラやマエストロのような『持てる者』として、手を差し伸べられなかったあの時の後悔を、果たそうとしてくれているのだ。それでも、首は縦に触れない。今、この街で生きるトールには何物にも代えがたい日常がある。
「後悔がないと言うのなら私は去りましょう。君の頑なさは私が知っています」
「すみません」
見透かされても、全然嫌味に感じない。この人が心の底から優しく、相手を思いやることが出来る人間だと、よく知っているからだ。
「私も一日も長く、この平和が続くように願っていますよ。君がこの街に落ち着いたこところを見ると、やるべきことを見つけられたようですね」
「はい……」
自分だけが故郷に帰って、中途半端を家族にも許され、報われた思いでいることを話すのは、あまりに満ち足りた、無神経なことだとトールは思った。それでも今の自分の生き方に、胸を張って言えることがある。
「サラにはまだ認めてもらってはいませんが、自分なりに居場所を見つけたと思っています。半端ものは半端ものなりに、自分の決めた道でしっかりと生きて、責任を果たそうと思っています」
それがトールの贖罪だった。そして温かく迎えてくれたこの街は、トールの生きるべき場所だった。
「そんな言葉が聞けて私も嬉しいですよ。一つしかない命、一度きりしかない人生で、悔いがあってはいけません。君との旅は楽しく、本当に勉強になりました。人間が一人一人違っていて、幾ら長い月日を一緒にいようと、その内面には、見通すことのできない宇宙が内包されていることを、私は知りました。それがこの世界の可能性です。みんながよりよく生きて、幸せに満ちることを、切に願います」
文字通り聖人のようなセリフがよく似合っていた。エルトキアスは手を差し出し、トールは別れの握手を交わした。エルトキアスは、今までの労いと別れの意味を込めて。トールは深い謝罪の念と、これから責任と信じて。生き方を見つけた一人の男は、そうしてようやく過去の自分との決別を果たした。
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