第33話『お食い初めと古い痼』

 ――シュリシュリササ、シュリシュリササ。

 足踏みろくろと鑿を使って、木を削る音が工場に響いている。

 トールが今手掛けているのは、兄夫婦に贈るための、タルラのお食い初めに使う食器の製作だ。

 お食い初めは、その子が一生食べるのに困らないようにと願いを込めて、産後百日を祝って、赤子に食事の真似をさせる儀式だ。一汁三菜の祝い膳、鯛の尾頭付きと赤飯、紅白の餅、お吸い物などを用意する。

 膳一式は、大人になっても使うことが出来るように、上質のものが相応しいとされる。伝統色の漆塗りの椀を用い、箸は銀製のものを使う。銀は神聖な意味を持ち、食の安全を守るものとされた。また銀は酸化しやすく、すぐに黒ずんでしまう事から、まめな手入れが必要で、道具に対して愛情をもって、長く使うようにとの意味合いもある。

 布団の上で、懸命に足をばたつかせるタルラの姿を見ると、思わず相好を崩してしまう。初めてできた姪が、トールの胸を、ほのかな温もりで満たしていた。喋りもしない、手足を拙く動かし、ただ生きているというだけで、こんなにも愛おしく幸せな気持ちにさせることを、トールは初めて知った。泣き声さえも愛くるしい。兄とカーラの子供なのに、まるで自分の一部を切り与えたかのような、何とも言えない親近感を覚える。目に入れてもいたくないというのは、あながち誇張なんかではなく、そんなところから生まれ出る感情なのかもしれないなと、叔父となった今、実感できた。

「悪いな、帰省中に仕事をさせて」

「これは俺がしたいからやっているだけだよ」

 土間を上がった上がり框に、兄が座って弟を労う。傍には緑茶が二つ置いてあった。食器を作るための工具は、オーマが用意してくれた。

 年齢を重ねたオーマにとって、遅くに出来たタルラは、さぞかし可愛い存在のなのだろう。オーマの表情も、以前より柔らかいものになっている気がする。声色も角が取れて、包み込むような感じになっている。

「新婚生活はどう? 上手くやってるの?」

「まぁ、それなりにやっているさ。カーラが、親父と上手くやって行けるか心配だったがそこは俺の杞憂だった。あいつは機転も利くし度胸も人一倍ある。あの親父が若いのに大したものだと言っているくらいだ。お産の時もそりゃもうしっかりしていた」

「それはすごいね。兄さんの相手がいい人そうで良かったよ。俺もホッとした」

 目線は椀から離さず、ろくろを回し続ける。大鋸屑が次々生まれ、ゆっくりと床に重なっていく。工場は冷えていたが、心地よい時間が流れている。

「タルラを見ていたら、俺も早くいい人を見つけて子供が欲しいと思ったよ」

「今のお前なら子供が出来たら、きっと愛情をかけて可愛がって育てられると思うよ。タルラのお陰でうちの家系も一先ず繋いだ。お前は焦らず相手を見つければいいさ」

 その辺りの心配がなくなったことも、オーマの余裕に繋がっているのだろう。

「うちは家族が少ないから、親族が増えるのは本当に喜ばしいことだよ。タルラが大きくになっても、俺の作った食器を使ってくれるように、丹念に、丁寧に仕上げるよ。お膳は兄さんに因んで、船にするつもりさ」

「そいつはいい。楽しみにしているよ。そういう仕事ぶりを見るとお前もしっかりやっているんだなと思うよ」

 オーマは、嬉しそうに腕組みをした。

「伊達に十年以上、故郷を離れて暮らしてないよ。でも帰るのは、ハナサキだって心が決めてる。大切な人たちも待っている。何よりあの街で生きていく事が俺は好きなんだ。やっと見つけた自分の居場所だって、離れてみてつくづく思うよ。使い慣れた道具を手放せないように、あの街を離れて暮らすことは考えられない。ここにくるのにだって随分悩んだんだぜ?」

 トールは、ハナサキを出るまでの自分を思い出して、力なく笑った。

「その気持ちはよく分かるよ。だが久し振りにお前の顔が見られて良かった。元気でやっているみたいだし、やりがいを持って仕事をしている事は何より安心する。お前も人生を大事にしているんだって、分かって良かったよ」

 夢のようだった。こんなに穏やかに、お互いのことを話せる日が来るなんて。

「兄貴……あのな……」

 急にトールが口籠る。手も止まり、トールはじっとオーマを見つめた。トールの様子が変わったことに、オーマは気づいた。

「なんだ? 改まって」

「昔、まだガキの頃、一緒に学校から帰る時に、仲の良かった上級生に兄貴が意地悪をされた時があったろ。あの時、俺は助けに行くことが出来ずにただ見ているしか出来なかった。それが弟として恥ずかしくて、本当に済まないと思っていた」

 それは長年、喉の奥に刺さった魚の骨のように、トールの心にずっと引っ掛かっていた痼だった。時々よみがえる古い傷。ずっと怖くて話し出せなかった。兄がそのことを深く考えていて、同じように古い傷だと思っているのではないかと、怯えていたのかもしれない。

 言い出せずにいたことを言葉にすると、さっきまでの和やかな雰囲気が、嘘だったようにトールは緊張した。

 オーマは、笑った。

 それはまるでトールの心配を、随分無駄に時間と徒労を割いたな、と笑うようだった。

 お茶を一口啜って、オーマは応えた。

「お前はそんなことを、こんなに大人になっても考えていたのか? 全く馬鹿なやつだ。多かれ少なかれ、誰だってそういうことの一つや二つ乗り越えて今があるんだ。そんなもん鷹がトンビになることを心配しているようなもんだ。心配しないでも俺は何とも思っていないよ」

 温かな言葉に、トールは泣きたいくらいホッとした。

「ケジメはつけておきたかったんだ。俺も叔父として恥ずかしくないように」

「そうだな、お前はもう立派な叔父さんだ。タルラが大きくなった時に胸を張れるような叔父でいてくれることは、確かに大事なことだ。タルラにもこれから先、たくさん思い悩むことが出てくるだろう。その時に、お前は遠くからでもいい。味方になって、為になるようなことを言ってやってくれ」

「ありがとう。兄貴」

 それから二人は、昔のことも今のことも、数珠を繋げるように語り合い、居心地の良いのどかな時間を過ごした。

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