第32話『母との思い出とただいま』
母ミーアの命日の日、母が好きだった白色のクードシャクヤクの花を仏壇に飾り、手を合わせる息子トールの姿があった。
「母さん、ただいま」
遺影の中の母の写真は、少し色褪せていて、それでも片時も忘れることのなかったあの頃と変わらぬままだった。着慣れない小紋柄の着物を着て、温かな笑みを浮かべ、恥ずかしそうに頬に手を添えている。写真はセピア色だが、着物は春を思わせる柔らかな桜色をしていたのを覚えている。
シスイの元に、職人としての修行に旅出たあの日から、ずっとこうして母の前に帰って来ることを望んでいた。
トールが幼い頃に死別した母は、体が弱くてもいつも背筋をシャンと伸ばし、凛として気丈に家族を支えてくれた。感情を上手く表へ出せない父の不器用さを、持ち前の明るさで包み、ささくれていた兄の話にも優しく相槌をして、まだ世渡りの下手だった幼いトールに、人の温かみを教えてくれた。
母と別れてからトールは、既に母といた時間以上の歳月を、遠く故郷を離れ過ごしてきた。それでもトールが人や物事に対して真摯に向き合い、人の気持ちを一番に汲んでいく真面目さは、母から培った大切な誇りだった。いつだって子供のことを第一に考え、何不自由なく、健やかに育ててくれたことを深く感謝している。
毎日、目まぐるしく過ごした幼き頃の日々に、子供が当たり前のように、元気いっぱいで学んでは遊び、お腹を空かせて家に帰っては、母親は愛情たっぷりの料理を作っておかえりを言ってくれる。母の作る料理の味は、他には代えが効かない唯一無二の味がした。あの味を自分でも再現したくて、母の料理をする姿を思い浮かべ鍋を振るうが、ついぞそれは出来ずにいる。
「こんなに遅くなっちゃってごめん。帰る理由なんてなんだって良かったのに、俺がここに来ることは許されないんだって、俺自身が思い続けていた。あの日、母さんが背中を押してくれた俺の夢に、やっと自信が持てるようになったよ。中途半端ばかりだった俺が、今は遠く離れた街に店を持っている。職人としてはまだまだだけど、なんとか独り立ちは出来てる。弟子だって出来たんだぜ。こんな俺を慕って良くしてくれる人もたくさんいる。母さんが言った、自分自身が本当の幸せを感じる場所を大切にしなさい。自分の中に一番大切なものが出来た時に、人は本当の意味で生きることを実感できるって言葉が、今確かにわかるよ」
その言葉は、夢を後押ししてくれた、母の励ましの言葉だった。
当時、世界中を旅している腕利きの技工士たちのキャラバンが、シンバマハリに立ち寄っていた。そのキャラバンでトールは、後の師匠と仰ぐシスイと出会った。その出会いはまさに、父親と同じく街の生き方に沿って、流されるまま船大工になるという未来に疑問を持ち、自分の意志を尊重してくれない家族に対して反発していたトールに、闇の海で見つけた願ってもない助け舟だった。
トールは家族には内緒で、毎日キャラバンに通いつめ、その中でキャラバンのリーダーをしていたシスイと心を通わせた。シスイ達が、世界中で腕を振るってきた逸話や訓示は、狭い世界でしか生きてこなかったトールにとって、価値観を大きく揺さぶられ、外の世界に憧れるには十分な理由になった。
もっと広い世界を見たいと決意し、キャラバンについて行きたいと、トールは家族に話した。話を聞いた家族は、当然反対した。見知らぬ人たちの中で、要領の悪いトールがやっていけるとは到底思えず、馬鹿なことは考えるんじゃないと戒められた。裸足のまま、泣きながら家を飛び出し、橋の上で蹲って泣いた。自分のことを誰も理解してくれない。家族と言うものは背中を押してくれ、応援してくれるものじゃないのか。やっと見つけた本当にやりたいことを否定されることは、存在を否定されるようで、強く打ち拉がれた。眼が真っ赤になるまで泣いて泣いて、酷く憤りがこみ上げて頬を伝った。
一頻り泣いていると、蛙の鳴く声に混ざって、トールを呼ぶ母の声がした。顔は上げられなかった。自分の幼さと弱さが悔しかったから。母は傍に来て、同じくしゃがみ込んで、泣いているトールの頭を撫でた。
「こんなに真剣になったトールは初めて見たわ。本気でやりたいなら、母さん、父さんたちを説得する。だから帰ろ。いっぱい虫に食われちゃうよ」
母は、そう言ってトールの望みを汲んでくれた。
その時、既に母の体は病魔に侵されていた。今思えば、あまりにも早い子供との抗いようのない、死と言う残酷な別れを前にし、それまでに自分に出来ることは何かと、考えての言葉だったのかも知れない。
こうして母のいる仏壇を前にすると、自分が今まで一人きりで味わってきた、様々な困難や、人々が作るたくさんの煌きの話を、うんうんと相槌を打って聞いてくれる母はもういないんだと言うことが、しみじみと実感でき、つい感傷に浸ってしまう。
二十年も蔑ろにしてきた、積年の思いがこみ上がってくる。それからトールは、母が亡くなり、初めて感じる死という永遠の別れを後に、心の整理がつかぬままシスイの元へ行き、故郷を離れてからのことを話した。自分の学んできた言葉を使って、一つ所に留まっていては得られなかっただろう、たくさんの人々の見識と、それによって育まれた豊かな心と、その一方でずっと心の中にあり続けていた孤独を。
話は尽きることなく、トールの中に湧き上がっては言葉にし、その度に心の一番深くにしまっていた感情が、ゆっくりと解けていく気がした。
夕刻を回って、陽が落ちてきた頃、オーマが静かに襖を開けて入ってきた。
「やっと、ただいまが言えたようだな」
「ようやく帰って来たって気がするよ」
「泣きべそかいていたあのちっちゃな弟が、今や名実ともに三十路を超えたおじさんだからな。俺も老けるわけだ」
「これからが働き時だぜ。新米パパ」
オーマは、トールの傍に腰を下ろした。トールは、しばらく正座をしていたので、すっかり足が痺れてしまい、座布団から降りて足を延ばした。そんな様をオーマは微笑ましく見ている。痺れが取れてきた頃、
「お前に渡したいものがある」
と、オーマが懐に手を伸ばした。出てきたのは一つの懐中時計だった。
「これはお前に渡しそびれた母さんの形見だ。これからはお前が持ってやってくれ」
そう言って手渡された母の懐中時計を、トールはまじまじと見た。母がいつも手に持っていた懐中時計は、使い込まれているのに全然古びていなく、物持ちの良かった母と、そんな母を大切にしてきた兄がいたからこそ、今もこうして時を刻んでいるんだと思った。
縁の部分に傷があった。それはトールが、母が懐中時計を大事にするあまりに、焼きもちを焼いて、傷つけてしまった時の傷だ。時計は父からの贈り物だったことを後から聞かされた。傷をなぞると、そのときの母の悲しそうな顔が浮かんで、後悔の念がこみ上げた。
オーマが、蓋を開けるように促し、トールはリップに爪をかけて蓋を開けた。そこにはこの前、トーガとオーマが作っている船の前で撮った家族写真と、小さく切り取られた母の顔が映った写真が入れてあった。
「これ、親父が思いついたんだぜ? 大事にしろよ」
「……あぁ。大事に、大事にするよ。ありがとう、兄さん。父さんにもお礼を言わなきゃ」
「そんなに良い子になるな。俺が比べられる」
オーマは笑って冗談を言うと、仏壇の前に擦って行き、手を合わせた。
「トールが帰ってきて、母さんも安心しただろ? 母さんがいなくなって、トールまで旅に出ちまって、親父の相手するのは俺一人だったんだ。全くなんであんなのと母さんが結婚したんだかわかんなかったよ。でもな、親父は親父なりに家族のこと考えてたんだな。トールが旅立ってから、日も登らないうちに起きて新聞が来るのを待って、トールのことが書いてないか隅から隅まで記事を見て、トールの誕生日の日には一日中ソワソワしてたりな。良い父親って思ったことは一度もなかったけど、二人がいたから俺たちは生まれたんだよな。孫の顔を見せられなかったけど、母さんの分まで俺たちは長生きするよ。俺たちはここで、トールは遠くでも、家族であることには変わりない。トール。うちの家訓は覚えているな?」
オーマが手を合わせたまま、トールに振返って言う。
「一日一回誰かを笑わせること。その家訓、母さん以外守ってなかった気がするけど」
「これからは俺たちがそれを守るんだ。笑うとこには福が来る。みんな笑顔ならみんなが幸せになるはずだ」
「兄さんがそんなこと言う日が来るとは思わなかったよ」
「反面教師があんなに近くにいたんだからな。俺は俺なりに父親をするよ」
すると、
「そういうことはちゃんと爪切りを元の場所に戻すようになってから言え」
話を聞いていたのか、トーガが襖の外で言っていた。オーマはムッとなったが、トールは可笑しくて笑いが止まらなかった。
温かな家がある。そのことが、トールの内に占めていた孤独を、どこかへ優しく追い出してしまった。逃げ回る孤独の尻を、勢いよく叩く母の姿が浮かんで、それがまた笑えた。積年の思いを果たしたトールは、肩から力がフッと抜けるような気がした。その軽さが、母の優しい労いのような気がして嬉しくなり、仏壇の写真を眺めた。母の顔は前よりも幸せそうに笑んでいる気がした。
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