第31話『友の心』
トールは、子供の頃に行きつけだった飯屋を訪れていた。
カーラの料理は美味しかったが、いつまでも実家にいては、手を煩わせてしまうことになる。僅か半月の滞在ではあるが、あの家に居過ぎると、今度はハナサキに帰るのに躊躇ってしまう気がした。ここの冬の寒さに、ふとした瞬間に、子供の頃を思い出す。湯に浸かっている時、一息入れるのに淹れたお茶の味、ここの水はスルリと体に馴染んでいく。自分が生まれ育ってきた地に、自分の基盤がしっかり根付いているのだと言うことが分かる。そんな感傷に浸る時、ハナサキの心明と明明の顔がまず浮かぶ。クシャナとシャッコーも。そして、あの街で関わった沢山の人達。根が張ってしまう前に、ここは立ち去らなければならない。
そんなことを考えて、飯屋の扉を開けた。
「らっしゃい」
厨房の奥から呟くような老爺の声がした。幼い頃に聞いていた店主の馴染みの声。もう二十年経つのに、マキナ家の行きつけだったこの店は、変わることなく営業をしていた。擦れたメニューの文字も、脂のしみ込んだてらてらのテーブルも、やけにうるさい店主の鍋を振る音も、あの頃のまま。お互いに歳を重ねて古臭くはなってはいるが、ここも安心できるトールの居場所だった。小さい丸椅子に腰かけると、店主が少しだけ目配せをした気がした。
トールは炒飯と拉麺を頼んだ。水差しからコップに水を入れる。大人になってからと言うものの、この料理を無言で待っている時間が心地いい。別段話すこともなく、ただ出来た料理を喰って、ごちそうさまを言い、金を払う。それ以上のものは必要なかった。
小気味よく鍋を振る音が響き、脂の揮発する香ばしい匂いが店内に広がった。高いカウンターに遮られてそれを見ることは出来ないが、何度となく繰り返された無駄を省いた御業だろう。鍋の振る回数。力加減。タイミング。炒飯だけを取っても、同じものを作ることは至極難儀することだろう。
厨房の裏口を開けて、店主の息子が出前に出掛けた。もう幾年もしないうちに、息子が厨房に入るのだろうか。ろくに帰って来もしなかったくせに、自分の見ていた景色は変わってしまうのは寂しい。勝手な我儘だ。だが、自分の好きな味がもう味わえないと分かった時、人はとても悲しい気持ちになる。その場所で、その人にしか出せないものがあるということは、人一人の人間が、どれだけ尊いものだと言うことを感じさせられる。
そうこうしていると、炒飯と拉麺が出来上がり、店主が、
「お待ち」
と、カウンターに皿とどんぶりを置いた。その時だった。入り口の引き戸がガラリと開いた。
「らっしゃ……ちっ」
来客の顔を見るや否や、店主は舌打ちをついた。店主のそんな顔を見るのは初めてだったので、どんな人が来たのかと、トールは振り返った。そこにいたのは、片目に切り傷の跡があるヤクザ者の男だった。
「……ギンジ?」
トールはその男を見て声をこぼした。ギンジとはトールの親友の名だった。風貌は見る影もなく変わってしまった。しかし、男の左のこめかみのところにある、天に登る龍のような痣。それは間違いなくギンジのものだった。男も視線に気が付き、じっとトールを見た。
「……お前、トールか」
幼い頃とは違う低く太い声だが、男は確かにそう言った。ギンジは驚いたように目を大きくしていたが、反応らしい反応はそれだけで、素っ気なくすぐに席に着いた。トールは飛びつきたいような思いだったが、ギンジのその雰囲気に口をつぐんだ。
「あんかけと餃子。あとビール」
ギンジは声少なにそれだけ頼むと、脇にあった古新聞を手に取った。
ギンジとは幼い頃から、家族ぐるみでの付き合いがあった。トールとギンジは揃って、年長のオーマに面倒を見て貰った。この店にもよくお互いの家族同士で寄ったものだ。トーガに連れられることもあれば、ギンジの父親に連れて行って貰うこともあった。あんかけ焼きそばと餃子は、その時ギンジがいつも注文していた組み合わせだった。懐かしさがこみ上げた。
だが、トールはギンジが話しかけるなと、肩で気を発しているのが分かった。それでも久し振りの再会に、このまま見て見ぬふりをするのは、あまりにも寂しいと思った。
トールの中に、様々な思いが駆け巡った。幼い頃、二人で遊びまわった日のこと。腹を空かせた学校の帰り道で、畑になっているトマトを一緒に盗んだこと。次の日、朝礼でそのことを教師が話した時、悪事がバレやしないか二人して青い顔を見合わせた。休み時間に、学友との遊戯で鬼役になった時の息の合った連携プレー。トールが追い詰め、ギンジが回り込む。二人が合わされば、向かうところ敵なしだった。テストの答案を教師にばれないように交換したこともあった。二人共、同じ箇所が分からなく結果が振るわず、次は別々のところを勉強しておこうと反省した。そして初恋の相手が出来て、真っ先に相談された時のこと。初心であり、強がったりもした。そのどれもが、苦楽を共にした大切な思い出だった。
堅気ではないギンジのその姿が、ギンジの今の人生を物語っていた。
トールがシスイの元に修行に行くより前、ギンジは父親の作った借金で街を夜逃げした。父親が事業に失敗し、その日から日に日にギンジの俯き加減が増していき、トールは父や母に何とか助けることが出来ないかと縋ったが、諦めろと首を横に振られた。トールは幼く何も持たない自分と、子供にはどうにも出来ない大人の事情に、やり場のない憤りと、酷い無力感を感じた。
料理に手を着けずにいると、
「冷めるぞ」
と、ギンジが呟いた。トールはその声を聞いて、胸の中で懐かしさが染み渡った。箸を取って拉麺をすする。あの頃と変わらない味は、泣きたいくらいに旨かった。店主もそんなやり取りに、瓶ビールを置く仕草に、先ほどの険悪さが抜けていた。
炒飯をしみじみと食べていると、ギンジはコップに注いだビールを、舐めるように飲みながら、
「今月分」
と言った。すると、店主はまた険悪な表情に戻り、店内に響くように舌打ちを打った。先ほどの緩んだ空気は、ギンジの一言で一瞬にして凍てついた。店主は調理の手を止め、後ろの棚の奥から一つの膨らんだ封筒を、ギンジに投げて寄越した。ギンジはそれを静かに手に取った。封筒の中身は金だった。ギンジは指を舐めて湿らせて、ゆっくりと数えた。
「確かに。来月も頼むぜ。この店も手放す羽目になりたくなかったらな」
そのやり取りで、トールはギンジが金貸しになったことを知った。それもかなりの高利貸しに。トールはギンジに訴えかける視線を送ったが、ギンジはただ無感を貫いていた。部外者は立ち入るなと言っているのだろう。トールは勢いよく麺を啜り、炒飯の残りをかき込んで、カウンターに代金を置いた。
「ご馳走様。相変わらず美味しかったです」
そう一言言って、店を出た。トールは、店の外でギンジが出て来るのを待った。余計なことだが、一言言ってやらなきゃ気が済まなかった。煙草は持ってきてはいたが吹かさずに、じっと戸が開くのを待った。冬の空っ風が吹きすさび、先ほど料理で暖まったばかりの体が、芯まで冷えてしまう。身を縮めて寒さに耐えていると、店の戸が開いた。ギンジが暖簾を潜って出て来る。出て来るなりトールはギンジに声をかけた。
「ギンジ」
「ちっ、まだいやがったのか」
鬱陶しそうなしかめっ面をして、ギンジは嘆息をついた。
「お前、この店をどうするつもりだ」
「久々に会って一言目がそれか? 相変わらずの甘ちゃんだな。つまんねぇこと聞くんじゃねぇ。俺がこの店に金を貸している。馬鹿な息子の尻拭いでこの店はもう火の車だ」
「お前、この店がどんな店なのか分かってやっているのか」
「それがどうした。えぇ? どうしたって言ってんだよ。俺にとってここは上りをせしめる太い客だ。ただそれだけだ」
こんなことを話したかったんじゃない。兄や父のように、笑って今のことを話せたら。
「お前だってこの街を捨てて旅に出ていたんだろ。むざむざ変わっちまったことにお前がとやかく言える義理はねぇ」
「俺は……」
言葉が詰まり、トールは拳を強く握った。
「思い出をてめぇの中だけで美化するな。綺麗事だけでやっていけねぇ奴もいるんだ」
そうギンジは、吐き捨てるように言って去っていった。その哀愁漂う後姿を見て、トールは思った。どんなに人が変わったとしても、一番根っこにある温かな感情は変わらないものだと言うことを。トールはこの街に帰ってきてから、そのことを信じていた。
しかし、時の移ろいと言うものは残酷なもので、トールの知らないギンジのこれまでの人生が、今のギンジの生き方を形成している。信じることは出来る。声をかけ続ければ、何かが変わるかもしれない。それでも、どこまで行っても自分とは違う他人と言うことが、誰もが変わることが出来るわけではない、どうしようもない隔たりだと言うことを、酷く痛感させた。二度と関わるなというギンジの後ろ姿に、トールはやり切れない物悲しさを感じながら帰路へ着いた。
「どうした? 考え事か?」
工場で船大工道具の手入れを手伝っている時、オーマが聞いた。トールはギンジと別れてから、胸の奥に引っ掛かった蟠りが、次第に大きくなるのを感じた。ここにいられる時間ももう少ない。ハナサキに帰る日は迫っている。このまま見過ごしてしまうことも出来る。でもそれは、また拭いきれない後悔を残すことになるのではないか。後悔に押しつぶされる前に。トールは思い切って、オーマにギンジのことを打ち明けた。
「ギンジか。お前も会っちまったか。四、五年前だったかな。この辺の闇界隈の元締めをやっている『シリュウ』っていう組があってな。初めは若いゴロツキ程度の集まりだったんだが、荒事にも積極的で勢力を伸ばしてな。そこで杯を交わしたって噂を聞いたことがあるな。俺も久し振りに会った時に何も言ってやれなかった」
「シリュウ……。ごめん、ちょっと出て来る」
トールは上着を引っ提げ、出ていこうとすると、
「トール。揉め事に自分から関わっていくことは感心しないぞ」
オーマがトールの肩を掴んだ。
「ただでさえお前は……」
「わかってる。巻き込まれないようにはするよ。でもあいつに一言言ってやらなきゃいけない気がするんだ。誰かが見ているんだってことを伝えないといけない。俺がここにいるのはそう長くない。今を逃したら俺はまた一生後悔を引きずることになる」
トールは、オーマの眼を真っすぐに見てそう言い放った。
「……自分のすることに責任が持てないお前じゃないよな。行ってこい。全部が全部上手くいくわけではないだろうが、自分の信じることをやってこい」
背中を押してくれる兄の優しさに頷き、トールはギンジの元へと駆けだした。
ギンジがたむろしているらしい妓楼に、トールは向かった。呼び込みをするボーイに、ギンジのことを聞くも、しかめっ面をされるばかりで、目ぼしい情報は得られなかった。三味線の清掻が響く格子窓の中で、張り見世の遊女たちは「遊んでかないの~?」と、色めき立った声を出している。突っ込んだ話をするには、やはり多少なり金を積まなければならなかったが、その先で情報が得られるという確証はない。中にも入らずにいると、数人の若い衆がトールを取り囲んだ。
「おめぇか? 兄貴のことを嗅ぎまわっているのは」
「客でもねぇ奴がうろついてちゃ迷惑なんですよ。ちょっとこちらへ」
トールは肩に腕を回され、引きずられるようにして、人目が付かない建物の裏手へ連れていかれた。肩はがっちりと組まれたが、振りほどこうとすれば出来ないわけでもなかった。トールにだって心得はある。だが、ここで喧嘩沙汰になった時、迷惑がかかるのは、この街で暮らす家族やギンジだった。
口を押えられ、拳で腹を深々と抉られる。息が詰まり、思わず咳き込む。くの字に折れようとする身体を引き起こされ、二度三度と繰り返し、膝の裏を折って地面に転がしては蹴りを見舞われた。それでもトールが臆していないことが分かると、若い衆は面倒が無いようにと、念入りにトールを痛めつけた。
しばらくリンチは続いたが、若い衆は、ただ抵抗もなくぶちのめされるトールを見かねて、しまいにはゴミ捨て場に投げ飛ばし、「二度と来るんじゃねぇぞ」と捨て台詞と、唾を吐き捨て去っていった。
生ごみの張り付いた顔で寒空を見上げると、自分は何をやっているんだと、自嘲がこみ上げてくる。誰かの為に体を張ること。青春時代ならいざ知らず、中年に差し掛かっていく歳になってまである、自分の青さに笑った。若い衆は、小遣い代わりだと言って、トールの財布を取り上げていったが、胸ポケットにはまだ、クシャクシャになった煙草と紙マッチがあった。ゴミ捨て場から抜け出し、一服吹かしてみると、吸い込んだ煙が切れた口の中の傷に染みた。強がりも込めて煙草を吹かしていると、上の方から女性の艶やかな声が聞こえた。
「お兄さん、どうしたの? そんなにボロボロじゃせっかくの男前が勿体ないよ」
そう高らかに笑う遊女が、二階の部屋の窓枠に凭れて煙管を吹かしている。トールは懲りずに、その遊女にもギンジのことを尋ねた。
「ギンジさん? 知ってるよ。あたしらのことを買ってくれたのはギンジさんだ」
「少し話がしたい。あいつの居場所なんかが分かると良いんだけど」
「お兄さん、ギンジさんとはどんな関係?」
遊女は興味ありげに身を乗り出した。
「幼い頃の親友だ。あいつが鼻を垂らしていた頃からの付き合いだ」
「へぇ、そう。でもギンジさんはそうとは思っていない。違う?」
遊女は、窘めるように煙管でトールを差した。
「あいつが違うと言っても、俺がアイツの親友であることに変わりはない。あいつがどんな道を歩もうと、あいつがどんな人間になろうともそれだけは変わらないんだ」
それだけは胸を張って言える。トールは遊女にそう言い放った。言ってみるとその言葉は、確信となってトールの胸に宿った。
「お熱いね。妬けるよ。どうしようかな~。教えてやってもいいけど、そんな姿じゃね。上がっておいでよ。手当してあげる。表でお菊が通したって言いな。入れるようにしてあげるから」
そう言ってお菊と名乗った遊女は、手をひらひらさせて中へと消えてしまった。何か仕込みがあるのかもしれないと思ったが、生憎財布は先ほど取って行かれてしまった。痛めつけるにしろ、これ以上何があると割り切って、トールは半信半疑ではあったが、表に回ってボーイに尋ねた。ボーイは、トールの姿を上から下まで胡散臭そうに眺めたが、口利き通り中に入ることを許した。身なりを整えて中へ入る。
「二階の西側、その一番奥だ」
と、ボーイがトールの背中に投げかけた。暖簾を潜り、三和土で下足を脱いで上がると、中は赤と黒、金を基調にした淫靡な雰囲気のする日輪調の豪奢な造りで、眩むほどに甘ったるいお香の匂いと、いたる所から色めく男女のもつれる音と声が響いていた。トールは耳に入れないようにして、階段を上って奥の部屋へと進む。廊下の奥、日輪画の描かれた豪華な襖の前に立つ。足音を聞いてか、中からお菊の声がした。
「入っておいでよ」
襖を開けると、町の道具屋風情では入ることさえ許されない、絢爛豪華な座敷が広がっていた。金粉が散りばめられた満開の桜が描かれた屏風、とんと広く高く映えるカルクレノの銀細工で縁取られた鏡台、白い煙が静かに立ち登る、闇のように墨よりももっと真っ黒の火鉢、漆塗りの煙草盆。行燈に照らされて、白い肩を剥き出しにした着物姿のお菊が、奥で煙管を吹かしている。
「そんなとこ立ってないでこっちに来なよ」
と、艶めかしい声をさせて、お菊はおいでおいでをした。しなやかで優雅さが付き纏っている。急に場違いな場所に来てしまった気がして、トールが狼狽えていると、
「取って食いやしないよ」
首をかしげてお菊が顔をしかめた。後ろ手に襖を閉めると、お菊は言っていた通り薬箱を引き寄せて蓋を開けた。話通りの展開に拍子抜けしていたまったトールは、その前に座ると、まず口元の傷を消毒された。アルコールが染みて顔をしかめると、
「残念そうだね」
と、見透かされ、お菊はからかう笑みを浮かべた。トールは何か言い返そうと口を開きかけたが、何を言っても揚げ足を取られそうだったので、口をつぐんだ。
「こんな優男痛めつけて、あいつらにも言ってやらないとね。あんた、名前は何でいうんだい?」
「トールだ」
「トール……。友達のために体を張るなんてなかなか出来ることじゃないよ。それでも馬鹿には変わりないがね」
そう言いながらも、お菊は消毒した傷に血止めの軟膏を塗った。ギンジの個人的な繋がりがあるのかもしれないと予感し、
「どうして口利きをしてくれる気になったんだ?」
トールが聞くと、お菊は長い睫毛を伏せていった。
「ギンジさんには恩があるんだ。返しきれない恩がね。ギンジさんはね。身売りにあったあたしらを皆買い取って居場所をくれたんだ。あの人のお陰であたしらは初めて人間として扱われることを知ったんだよ。男共を慰めることをしているが、ここの女たちはちゃんと愛されている。そう感じることが人間には何より大事なんだ。たとえ一夜限りの瞬くような関係であってもね。それにあの人を真正面から親友だ、なんて言う奴初めてだしね。さ、服を脱いで」
「俺は客じゃ……」
戸惑うトールに、お菊は吹き出しそうにした。
「何期待してんだい。しこたま殴られたんだろ? 湿布薬もつけてやるって言ってんだよ」
「……あぁ」
トールは上を脱ぐのに体を縮めると、節々の傷が痛んだ。顔をしかめていると、
「まずは背中の傷からだ」
と、お菊は言って、トールを後ろ向きに、痣のある箇所に湿布薬を貼った。
「ギンジさんのおっとさんは借金を重ね、自尊心に耐えかねて首をくくって、おっかさんは娼婦になった。そのおっかさんも梅毒で死んじまった。それからギンジさんは後ろ指を指される日々を送った。恨まれることはあっても人に褒められるようなことは微塵もなかっただろうね。陽の当たる世界にはもう戻れないとこまで来てる。酔った時に枕もとでこぼしてくれたよ」
お菊は、湿布薬を貼った上から包帯を巻いてくれた。
「いっつも寂しい背中してさ。眉間の皺なんかほぐしてやっても取れやしない。刻み込んじゃったんだね。体にも心にも。それでも女を大切にしてくれる優しいとこがある。本当は優しい人なのを感じるんだ」
「硬派な奴だからな。初めて女に惚れた時もなかなか口を割らなかった」
「ふふふ、いいことを聞いた。さ、出来たよ」
お菊は、そう言ってトールの背中を気前よく叩いた。トールは衝撃に節々の痛みがぶり返したが、口元を吊り上げてお菊に向き直った。
「ギンジさんの行きつけの飲み屋を教えてやる。あんたがギンジさんの良心になるかはわからないけどあの人にも人の温もりを忘れさせないでやって」
「ありがとう。何か返せるものがあると良いんだが、生憎財布をスられてしまって」
「野暮なこと言うんじゃないよ。あの人を独りにさせないでやってくれればそれでいい。今度はお客出来な。色々教えてあげるよ」
「ああ、世話になったな」
トールは服を着替えると、背筋が伸びる思いで座敷を出た。
七番街の路地裏を縫って行ったところに、焼き鳥屋『達磨』はあった。赤提灯が下がるひっそりとした佇まいで、店の外に張り出した煙突から、灰色の煙を吐き出している。時間はもう深夜を回っていた。店の中に入ると、カウンターの奥でギンジが一人、酒を呑んでいた。トールは黙ってその横に座る。店主が付きだしを置いて、トールは純米酒を頼んだ。用意された升に酒が注がれ、それを見ながらトールは口を開いた。
「これ、覚えているか?」
そう言って、トールは首から提げていたネックレスを、ギンジに見えるように引っ張った。ペンダントの先には狼の牙が着いていた。それはトールとギンジが幼い頃に、森で見つけた、ニホロオオカミの死骸から抜き取って作ったものだった。
釣りをしに入った森の帰り道、一匹の狼の死骸を見つけた。骸はまだ温かく、崖から足を滑らせたのだと言うことが分かった。番なのか子供なのか、崖の上で仲間の狼がこっちを見ていた。トールは臆して早く帰ろうと言ったが、ギンジは何を思ったのか、狼の牙を二本抜いて見せた。
「俺たちの親友の証だ」
そう言ってギンジは、トールにそれを差し出した。急いて追手が来ていないか何度も振返って、怯えながら森を出たが、街に着いて狼の牙をじっくりと見ていると、偉大な冒険をしてきたみたいに、心に沸々と英気が沸き立った。トールはそれを持ち帰ると、ペンダントネックレスにして、今でも大事そうに首から提げている。
「そんなものまだ持っていやがったのか」
「俺の失くすことは出来ない大事な思い出だ」
「馬鹿な奴だよ、お前は。ほら」
ギンジは、懐からトールの財布を出した。
「弱っちいくせに出しゃばるから痛い目に遭う。ちょっとは慎重になれ」
「熱くなるのなんてここへ帰って来た時くらいだ。いや、まだ俺は相変わらず馬鹿なままだ」
ギンジは盃を上げてトールに向き直った。トールも升酒を持ち上げてそれに倣う。
「お前とこうして酒を呑める時が来るなんて思ってなかった」
ギンジの本音がやっと聞けた。
「俺もだよ」
トールが、生き別れになってから、長きに渡った再会に微笑すると、旧知の友との杯を交わした。
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