第30話『兄と弟の食べ道楽』
「夕方までとは言わず、ゆっくりしてきていいのよ」
「タルラの風呂があるだろ。陽のあるうちには帰るよ。夕飯は用意しなくて大丈夫だぞ」
「カーラさん、お弁当ありがとうございます。いってきます」
「うん、二人ともいってらっしゃい」
トールとオーマは、弁当を携えて家を出た。今日はオーマの仕事が休みなので、せっかくだからと、一緒に街を見て回る予定だ。
「お前はいつまでカーラさん、なんて他人行儀なんだ?」
玄関の戸をトールが閉めると、オーマが口をへの字に曲げて言った。
「年下だからって義姉には変わりないだろう? いいんだよ、これで」
「全く変な気遣いしやがって。今日は俺が街を案内するからな。たらふく旨いものを喰わせてやるから覚悟しとけ」
オーマがトールの肩を小突く。
「弁当は昼?」
「いや、これはアテだ。鯖の昆布じめに、レンコンのはさみ揚げ、筑前煮、タタキキュウリ、鶏レバーの甘露煮、そしてタラの白子とちょっぴりのからすみ。全部俺の好物だ」
「愛されてるね。いいの? そんな贅沢」
「たまにはいいだろ。お前が次いつ帰って来るかもわからない」
若草色の包みに入った二つの弁当は、今日の為にカーラが準備してくれた。オーマに先導され、その後について行く。食べ道楽のために朝食は食べず、朝は早かったが天気は晴れ。冷たい海風が吹き、冬の空気は刺さるほどに冷え切っているが、日差しはあたたかく、幾分マシと言えた。日なたならば麗らかな日和と言える。
昨夜、かつての自分の部屋で休んでいると、オーマが襖の前で声をかけた。
「トール。ちょっといいか?」
「大丈夫だよ。なに?」
オーマはそっと襖を開けると、屈みこんでトールの元にすり寄り、小声で耳打ちした。
「明日は朝から飲み明かすぞ」
「どうしたの? 悪い顔してるよ」
歯を見せてオーマが笑うと、
「たまの休みに兄弟水入らずといこうじゃないか。なぁ付き合えよ。お前に紹介したい店もあるんだ」
「いいけど、父さんには内緒なの?」
「そう言うことだ。よし、決まりだな。楽しみにしておけよ」
オーマは得意げそう言うと、楽しそうに肩を揺らしながら出ていった。
母が死んで、トールがシスイの元に修行に行ってから、残された父と兄の悩みの種は料理だったそうだ。
母が料理上手だったために、舌が肥えていた二人ではあったが、自分たちがするとなれば話は違う。二人とも厨房に立つような性格ではないし、しばらくは食べられるものをただ作って食べている、という日々が続いたらしい。
オーマが満足に働くようになり、稼いだ給金でまず充実させたのが、食だった。街を食べ歩き、自分の好みを知り、街のこともよく知るようになったと言う。
それから街の良いところを探し、自分の見識を深めていった。内に秘めているものに向き合うだけでも、そこには限りがない。自分がどんなものが好きなのか、どれほどのものを許容できるのか。身も心も大人になったなり、敏感だった自意識が、言いようによっては鈍くなることで、それまでに持てなかった余裕が出来る。 交易の盛んなシンバマハリの街を知ることは、日々生まれてくる新書が並ぶ、一生かけても読み切らない図書館にいるようなものだった。新しきこと、古きことを知る時間は、本来人間が持つべき余暇だ。余暇を楽しませることが出来るのは、大人になった者の特権だ。
「さぁ、まずは一軒目だ」
そう言って案内されたのは、酒造組合が運営する寄合所だった。
「ここは各地の名酒が手頃な値段で試飲できる酒場だ。持ち込みも出来るから気兼ねしなくていいぞ」
中は酒場と言う割に、簡素な内装だった。ただ胸の丈の長机が何脚かあり、壁に沿って瓶が立ち並んでいる。中には酒が。客は前金を払って、グラスとチケットを受け取ると、好みの酒をチケットと引き換えで、グラスに注いでいく。酒の味を楽しんでいく客が多いのか、比較的中は静かだった。微かに酒の感想を話す声や、銘柄によってどうやって醸造されたのかなどの説明を聞いているだけだ。だが個室もあった。トールたちはそこに席を設け、呑み始めることにした。
早速、チケットを買い、一枚千切って店員に引き換えを頼むと、『惣流』という純米吟醸を柄杓で掬って注いだ。店員とやり取りをしている最中、西から来た異国人だろうか、肌の白い翠眼の若者が、品書きを手に、仕切りに質問しているのが見えた。ただでさえ酒の味を言語化するのは難しい。細かなニュアンスの違いを、その土地の言葉に直して説明するのは、難儀するだろうと思った。しかし、万国共通。旨いものは旨い。そのことが伝わり、理解出来たなら、人と人はもっと分かり合えることだろう。
いち早く準備を整えたオーマの元へ行く。席に着くと、オーマも自分の酒を手に取って、グラスを掲げた。静かに音を立てて乾杯をすると、香りを嗅いでから口に運ぶ。
口当たりは柔らかで、ほんの少しとろみを感じる。口いっぱいに米の華やかな香りが広がった。甘みの中に力強い米の旨味を濃縮したこれは、ジュースにも近いかも知れない。喉奥を通り過ぎていく時に感じる、アルコールの激しさはない。ただ優しく苦みと乳酸っぽい酸味を余韻に残す。ウイスキーやワインとは違う、内側がポーっと熱くなってくるような心地よい酔いに、思わず頬が緩む。
「これ、旨いね。かなり好みだ」
「今呑んでいるのはひやおろしの製法の酒だな。火入れを一度しかしていないからフルーティな仕上がりになっているんだ。熟成もしていないからフレッシュだし、呑みやすいだろ?」
「そうだね。これならいくらでも呑めちゃいそうだ」
「まぁ水も飲め。二日酔いになりたくなかったら倍以上の水も呑むんだ。さぁ呑むぞぉ~」
そう言ってオーマは弁当の蓋を開けた。仕切りで分けられたアテは、確かに美味しそうに盛り付けされている。言っていた通り、如何にも酒をそそるオーマ好みの濃い目の味付けそうな、品々があった。お手製のアテを少しずつつまみながら、酒を次々と呑み交わす。こういう呑み方をするのは初めてだった。料理上手の嫁がいるとこういうことも出来るのか。トールは恨みがましくオーマの肩を小突いた。オーマは不思議そうにしていたが、酒を含んで満足そうにしている。
「あの親父と二人きりで飯を食うなんて全く、拷問の方がよほどマシだぞ」
「ふふっ。想像に易いよ」
「カーラにはどれほど助けられているか。家業とは言え、なんで俺はあの家で暮らしているんだろうなぁ」
「家を守るってのも大事なことだと思うよ」
酒は進み、もうチケットの枚数も少ない。今呑んでいるのは『紫閃』という辛口の大吟醸だった。オーマに言わせれば辛口も甘口も、ある基準を越えれば好き好みの違いだと言う。自分の好みに合った酒を探し、別の店でその酒を呑み直すか、気に入ったものを購入するのが、ここの呑み方だった。利益度外しで酒を楽しませてくれる、酒造組合の粋な計らいに、トールは記念に四合瓶を一つ買って帰ることを決めていた。
「兄さんはこの街を出ようと思ったことはなかったの?」
酒が進んできて、兄の口が軽くなっただろうと思ったところで、トールが切り出した。この街で生きていくと決めている兄に、聞いておきたかったことだった。オーマは平然と、
「あったさ。実際に出たこともある。まぁ小旅行みたいなもんだったがな」
と、言っていた。割り切ったような、いっそ飄々としているような風な答えに、トールはオーマに後ろ暗さがないことを感じ取った。
「そうだったんだ。何か目的があったの?」
「彫刻を見に行ったんだ」
「そんな趣味があったんだ。で、どこに見に行ったんだよ」
「シーデントオハヤ」
「嘘だろ! あの芸術の都に行ったのか!?」
シーデントオハヤとは、シンバマハリから遥か西にある『芸術のかえる場所』とも呼ばれる、芸術の都だ。かえるとは孵るであり、還るでもある。実際にもアールエコー調を生み出したカミュ=スケーフや、他国の芸術家たちの多くが、終末をシーデントオハヤで迎えようと、別宅を購入している。そこで最も有名なのが、ある時生まれた一人の天才が、その生涯をかけて描き出した、一つの街を描いた大規模な設計図だった。それは一つの国を動かすほどの芸術を湛えていた。天才の名はファティマ=アトム=ガニュパ。その名は現在、世界を救った勇者の名に次ぐほどの名声がある。寝る以外の時間を全て芸術に注いだとも言われるほど、彼の描いた作品は膨大であり壮大だった。生前ファティマは、
――人が芸術を豊かにしたんじゃない。芸術こそが人を本当に豊かにする。
と言った。芸術を慈しむ心は、人の根源的欲求であり、人が人たらしめる一番の理由だと。使いこなせるなら、どんな道具であっても良いわけではない。そこには美があり、美は細部に宿る。トールも神経の行き届いた仕事をした時、それは一種の作品を生み出したとも言える。美を感じるデザインは、その道具の真価を発揮してくれるものだ。そうやって良い物が切磋琢磨されて残っていく。新しいものが日々生まれる中で、その中には、先人たちの生み出した美も、少なからず混在しているのだ。
ファティマの残した設計図に沿って作られる街並みは、今でも建設中で完成には、この先数百年の時間がかかると言われている。家賃は人並みの稼ぎならまず、人生が三度ないと足りないだろう。それでも住み続けている土着民は多く、空き部屋が出るのを、数十年先まで待っている者もいる。
「一度この目で見たかったんだ。人の作る到達点ともいえる最高峰を。恐らく一生分の感動を得ちまったがな」
「兄さんはいつもどっか遠くに行きたそうにしていると俺は思っていたけど」
実際にオーマは、トールがまだシンバマハリにいた頃、突然列車に乗って遠くに一人旅をしたことがあった。家族は心配したが、オーマにはそんな気まぐれがあった。酒で口を湿らせてオーマが言った。
「行って見て気が付いたんだ。俺はこの街が好きなんだって。自分の居場所はどこか遠くにあるんじゃなくて、自分の今いる場所が自分の居場所なんだって。根ざせってわけじゃない。そこで作れないようなら他を探すしかないけど、俺にはやるべきこともあるし、外に居場所を作る勇気もない。俺の運命がここより外にあるなら別だがな。そういう奴が大半だと思う。何者にもなれなくてもいい。自分の居場所で幸せが掴めたなら、人生ってやつはそんなに悪いもんじゃないと思う。結局は何処かってより誰といるかってのが一番重要だしな」
窓の外で肉饅頭を分け合っている家族連れが目に入った。視線をやっていると、オーマが言った。
「昔はよく皆で食べに行ってたな」
「父さんと母さんは出掛ける度によく喧嘩してた」
大抵はつまらない理由で父が不機嫌になり、母の苦言に耐えかねて、店を飛び出して先に帰ってしまい、それには残された三人で、ほとほと困り果てたものだ。
父の激情も最近は治まっているようだ。それには偏にカーラの気立ての良さが起因しているらしい。カーラの実家は弁当屋で、オーマとはそこで知り合ったとのこと。
オーマのグルメを求める日々が続き、仕事仲間との雑談の中で、問屋街に新しく出来た、評判の弁当屋があることを小耳に挟んだ。朝は有るもので軽く済ませるとして、夜は街に出ればいいが、問題は昼飯だった。仕事の進み具合によっては、手早く済ませなければならないこともある。持ち運びがきく弁当ならそれが可能だ。
問屋街へは少し足を延ばせば、仕事前に道すがら寄ることが出来る。オーマは弁当屋に行ってみることにした。
問屋街の中ほどに、カーラの店はあった。通りからも良い匂いが漂ってきたが、オーマはそれよりもなによりも、店先で弁当を忙しそうに売って回るカーラに惹きつけられた。愛想よく元気よく客の相手をする姿。一目惚れだった。弁当を買う列に並んで、焼き魚弁当を頼み、弁当とお釣りと共に向けられたカーラの笑顔に、オーマは射貫かれた。
仕事にも手がつかずぼーっとしていると、トーガに頭を叩かれ、檄を入れられた。待ち遠しかった昼休憩になって、弁当の蓋を開けた時に、素朴だが彩り豊かな料理の品々に、思わず腹の虫が鳴った。
ネギの入った黄色いだし巻き卵と、醤油のついた大根おろし。切れ目の入ったぷっくりとした赤ウインナー。ゴマ油香る野菜炒めと、照りの効いたきんぴら。甘辛く味付けされたであろう里芋の煮っころがしは、砂糖醤油を煮詰めたのか色濃く、おかずになりそうだった。ふんわりと肉厚なサバと、白米にかかった黒ゴマと朱色の梅干し。
グルメを求めて街を歩いていたオーマが、本当は一番感じたかったものがそこにはあった。箸を割り、一口頬張ってみると、優しい家庭の味が口に広がった。母のような温かさがそこにはあった。
弁当を食べている最中には、すでに次の弁当は何を買ったらいいだろうかと考えていた。
そして、看板娘のカーラのことを思い浮かべていた。それからオーマはカーラを射止めるために、色々苦心したらしい。
オーマが弁当屋に通って、顔を覚えてもらうために「これに料理を詰めてくれ」と、自前の弁当箱をカーラに渡したそうだ。そこには、弁当の感想を書いた手紙を忍ばせてだ。話をするとっかかりを作ったわけだ。カーラも数あるお得意様の一人と言うくくりから、オーマ個人も知るようになった。
何度か手紙を添えたやり取りがあると、今度はカーラの方からも、手紙を添えて弁当を手渡すようになった。それから一気に二人の距離は近づいていったと言う。オーマは、雨の日だろうが、風邪をひいていようが、毎日に欠かすことなく弁当屋に通いつめた。
兄の馴れ初めを聞くのも新鮮だった。兄の青春時代を知らないトールではあったが、胸襟を開いて自分のことを話してくれる砕けた関係に、嬉しさと安心を覚える。
「カーラとも喧嘩はする?」
「そんなのしょっちゅうさ。家族とは言っても所詮は他人だからな。女ってのも未だにわからん。女ってのは気分で生きてるからな。機嫌のいい時を見計らわないと痛い目を見る。それでも結婚は良いものだよ。共に連れ添って生きるってことがどれほど大変で、どれほど尊いものなのか分かる。それに独りじゃないんだって思えるしな。これはでかい。お前も良い人はいないのか?」
「ん~どうかな。でもそろそろちゃんとしないとは思ってる」
「のらりくらりやってるとあっという間にオッサンになっちまうぞ」
「はは、気を付ける」
二人とも一軒目ですでに赤ら顔になってしまい、出来上がってしまっていた。各地の醸造所の名酒たちは、心地よい酔いに浸らせてくれた。酒には詳しくなった方だと思っていたが、兄の話を聞いて、自分もまだまだだなと思わされた。
「よし、二軒目行くぞ」
オーマは弟が旅に出たことで、家は自分が守らなければならないと思っていた。街から離れるような生き方は出来ないと、この街に骨をうずめて生きていくんだと。そのことをトールは、自分には出来なかったことと思い知り、そんな兄を尊敬していた。生き方はそれぞれ違っていても、それでも兄弟は肩を組んで、ご機嫌に街道を歩いた。
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