第29話『初恋の簪』

 小川に沿って歩く。ハナサキよりも北東にある故郷シンバマハリの空気は、キリリと冷えている。二、三度ほどしか気温は変わらないはずなのだが、体感としては身を切るような寒さだ。だが風のない今日はなんとか外に出ていられる。

 タルラは可愛かったが、父と顔を合わせているのがやはり気まずくて、思わず外に飛び出してしまった。

 トールは煙草を吹かしながら、懐かしい景色の中を散歩していた。橋を渡り、木を眺め、かつての名残を確かめた。街の様子も見てきて、昔とは違う真新しい建物や店が立ち並んでいることが窺えた。

 記憶を頼りにぶらぶらと歩いていると、声をかけられることもあった。かつての学友の親たちや、父や兄の同僚などが多かったが、故郷を出て外で暮らしていることが、少しだけ後ろめたくなって、言葉少なに生返事を繰り返して、次第に街中から足が遠ざかっていった。

 何となく居心地の悪さを感じながら、賑わっている街を離れ、通い慣れた学校までの通学路に出ると、あの頃のまま変化のない風景にホッと安堵が漏れた。時が経っても、自然に寄り添った田舎道の風景は、なかなか変わらないものかと思った。

 土手に降りて小川を眺める。水はキラキラと光を跳ね返し、ゆっくりと流れるのどかなせせらぎが、心を溶かしていくようだった。

 川底に小さいが動くものがある。メダカだ。幼い頃、魚くらいなら家でも飼えるのではないのかと思ったが、父の機嫌を損ねてしまうのではないかと思って、相談もせず諦めたことがあった。

 小さいながらも、スイスイと水を泳ぐ姿が可愛らしい。

 ハナサキにいるクナシャとシャッコーのことを思い出した。二羽のチャコはたまの休みに、街の南に広がる平原で、好きなだけ走らせている。仕事に必要だからと言うだけでなく、生き物を飼うということは、命を預かる責任と尊さを考え、共に暮らしていく温かみを感じる、大切な機会だと思っている。人は一人では生きていけないということと同時に、人が一人で生きていくには、どうしたらいいのかということも分かってくる。繋がりや関わりが大切なんだと思う。それを保ちつつ、より良いものに発展させていくことは難しいことだが。

 ぼーっとメダカを眺めながら煙草を吹かしていると、煙草の煙の匂いに混じって、季節外れの甘いユリの匂いがした。

「トールちゃん」

 振り返ってみると、そこには幼馴染のシノがいた。

「シノ……久し振り」

 驚いたトールは、そんなことしか言えなかった。まだ幼さの残る古い記憶の中の彼女の姿が霞んでしまうほどに、シノは一人の女性となって、そこに立っていた。

「その真っ白な髪で、寂しそうな背中。何となくそうなんやないかなって思って。いつ帰ってきたん?」

 シノは艶やかな髪のほつれ毛を、指で掻き上げ言った。

「昨日着いたばかりさ。兄貴のとこで子供が生まれたから見に来た」

 母の二十回忌とは言わなかった。なんとなく見栄かもしれない。

「孝行やね。元気やった?」

「なんとかやってるよ。そっちも変わりないね」

 赤い着物と髪を結い上げた姿から、シノが家業の芸者を継いでいることが分かった。化粧は薄い。仕事にいく前、というわけではないようだ。

 彼女の生まれはシンバマハリだが、両親が東方の出身で、この辺りの人間とは容姿が驚くほどに異なる。だからこそ、芸者のような美しく品のある仕事が務まるのだろう。

 トールは土埃を払って立った。

 シノは綺麗だった。シノはトールの初恋の相手だった。それだけでも気まずいのに、歳を重ねたことで滲み出る、色気のようなものも感じられて、とにかく気持ちを落ち着かせたかった。少しでも間をあけようと、煙草をシガレットケース兼灰皿でもみ消す。

「煙草吸ってるんやね」

 咎めるような口調ではなく、興味の色のある声音だった。

「あぁ、師匠の真似で始めたら今はもうどっぷりさ」

「美味しいん?」

「最初は煙たくて、何が良いんだろうって思ったけど、いい葉っぱに出会うと香りを嗅ぎたくなるんだ」

「お酒みたいなもんかな」

「似てるかも、嗜好品だからね。やめられないってのも似てると思う」

「トールちゃんも大人になってしもたんやね」

 感慨深そうに伏せられた長い睫毛に、ドキッとさせられる。とは言え視線を落としてみると、シノの左手の薬指には銀色の指輪があった。

「結婚したんだね」

「うん。ええ人に出会って。でも結婚したんは最近なんよ。これでも新妻です」

「そっか。良かった」

 シノは大事そうに指輪を撫でた。

「トールちゃんよりは不真面目やけど、うちを大事にしてくれる」

「おめでとう」

 心の底からするりと出るような言葉ではなかったが、一先ずその言葉で言えた。

「トールちゃんも早よええ人見つけなね。……でもあの時なんでこれだけ置いて、来てくれんかったん?」

 シノの腰帯に一本の簪が差してあった。それはトールが、シノの為に買い求めたものだった。直接は渡せなかったものだが。

 シノとトールは、三つ歳が離れている。姉のように慕っていたと、シノは思っていたのだろうが、当時からトールは、シノを異性の対象としてみていた。憧れも少しあったのかもしれない。お互い家業を継ぐ身として、たまった鬱積を吐き出しては、夢に思いを馳せ、お互いを励まし合った。帰り道の神社の境内に座り、尻が冷たくなるまで語らい合ったその時間は、青春の一ページと済ませてしまうことの出来ない程、二人にとって何物にも代えがたい大切なものだった。

 ある祭りの日、トールはシノと祭りを回る約束をしていたが、その日はシスイの元へ、修行に行く日でもあった。

 夢と恋。二つに板挟みになっていたが、トールは結局、夢を選んだ。

 星の降る美しい夜のことだった。トールは、小遣い全部を使って買った美しい金の簪を、待ち合わせの神社の境内に残して、別れも告げずに行ってしまった。

 そのことはいつまでも、トールのしこりになっていたが、忙しさにまみれて考えないようにしていた。

「昔のことさ。忘れてくれていいよ」

「あの時、何も言わんと行ってしもて、いつまでも帰ってこんとそんなことを言うん?」

 トールは後ろめたさに目を伏せている。

「一人で見る花火ってめっちゃ寂しいんよ」

「ごめん」

 今は二人とも、自分の生きる場所を作っている。あの頃好きだったということに今、何の意味があるのか。自分は夢を選んだ。今更、過去を暴いてどうなるというのだ。だがそれは、自分のズルさから、目を逸らしているだけだとも言えた。

「好きだった。でもそれだけだった。その先が見えなかったんだ」

「……そう」

 シノは短くそう言うと、背中を向けた。

 しかし、不意に踵を返し、トールの頬を両手で包んだ。

「大魚を逃したね」

 フフっと笑うシノは、今までに見せたことのない、柔らかく包み込むような優しさと、少しの意地悪さを湛えていた。あの頃には知り得なかった彼女のそんな一面に、心の片隅にあり続けたシコリがフッと、柔らかの風と共に消えていった。

「今度大きい魚影が見えたら、迷わず飛び込んで手掴みする。そのくらいの気持ちでちゃんと恋をするよ」

 シノが手を放し、花のように笑う。あの頃と重なるその面影が、ふとトールの初恋を僅かに燻らせた。思い出の中で、いつも泣いてばかりだった少女の顔が、笑顔に変わった。

 持ち主がなく、宙に浮いていた淡く切ない恋が一つ着地した。心が少しだけ軽くなった気がした。

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