第24話『美しい獣』
「おはようございます、ハクハさん。注文の装具です」
「おう、トール。冷えるな」
オーミサクラガルド競馬場の厩舎。
――シャッカシャッカ。シャッカシャッカ。
蹄刀で蹄を削る音が響いている。薪ストーブの熱も虚しく、冬の冷気が馬房を抜けている。削蹄する音の他には、馬の息遣いだけがこだまし、厩舎は静謐な空気に満ちていた。
装蹄師のハクハが、自分で施した仕事の具合を見てから、作業の手を一旦止めてトールに首を向ける。トールは、木箱に入った先日仕立てたばかりの装鉄道具を、ハクハに開けて見せた。鎌型蹄刀、装鉄鎚、削蹄せんかん、蹄鉗子、ナイフシャープナー。どれもピカピカに仕立てられた新品の道具たち。
ハクハは、膝で跨いでいた馬の後ろ足を離し、馬から離れるとそれを手に取って、じっくりと鑑定するように隈なく見る。一つずつ丹念に一分の隙も無く見る。診ているのか満てるのかとも言えそうな眼差しだ。
「うん、いい仕事だ」
ハクハは満足そうに頷く。トールは、ほっと胸を撫で下ろした。
シープコプコフには小規模だが炉があり、金属加工も行っている。独り身の小さな工房でとなると当然規模は小さい。ならばその分、割の良い依頼を見繕うことになるが、そうなればもちろん高水準の質を問う仕事が要求される。神経の行き届いた良い仕事を。
専門職の扱う道具を一から仕立てることは、トールにとってその度、職人としての信用をかけた真価を試される大仕事だ。
道具を本当にモノにすること。それは使い勝手と自分のクセとを取り合わせ、最も適した形を見出すことだ。扱う人が違うならば、そこに一つとして同じものは生まれない。日々使い潰す消耗品といっても、そこに求められる要求はいつも厳しい。その要望に応えられる職人だけが、一つ一つ丁寧に道具を仕立てる。息の合った信頼できる仲でしか成しえない高度なやり取りだ。
馬と蹄にだけ向き合っているハクハの一途さに負けないように、トールも仕事の質には一層に気を配る。
「エアアルソルの具合はどうですか?」
「順調に回復してるよ。こいつも怪我の休養が明けて全力で走るのを今か今かと待っている。早く競走の中に戻してやりたい。こいつの足は他の馬とはかけ離れた一騎当千の足だ。復帰すればまたすぐに人気を取り戻すさ」
エアアルソルは、ハクハに応じるようにブルルと低く嘶いた。ハクハは、それを見て笑う。様々な感情や時間、愛情の滲む笑いだ。
エアアルソルは、引き締まった筋肉から繰り出される力強い足取りと、佳人薄命といえる全盛期の極端に短い短命馬だった。消える前の蝋燭のように、一時でも激しく燃えるエアアルソルの競馬は人々の心を熱狂させた。
チャコと同様に、人を乗せる家畜動物がいる中で、馬はその走る速さ、美しさを十分に咲き誇る花の如く人々を魅せつける。鮮麗と伸ばす美しい肢体に人々は夢を賭け、思いを馳せるのに、十分な本質を兼ね備えていた。艶やかな毛並みと壮観な面構え。
人が跨って駆けるためにある背中に、惹かれて人生を賭ける者も少なくない。
「トールはギャンブルはする方だったか?」
「自分自身、臆病なところがあると自覚しているんでその気質はないとは自覚しているんですが、独り身ですし何かとそういう機会は割かし多いですよ」
「そうか。馬に金をかける意味を俺はいつも考えている。人生において金を稼ぐことは最も重き生き甲斐になる。金がなければ食べていくことも出来ないし、人と比べ合った時、自分の不甲斐なさに打ちひしがれる。金は力だ」
エアアルソルの鬣を撫でながらハクハは言う。
「金は楽に稼げた方が良いと言う奴は多い。それを手助けるギャンブルにはその人に合った形があるし、カードや札、鉄の弾だっていい。でも競馬に金をかけている奴らは、それとは別種のような気がするんだよな」
「どう違うんです?」
トールは問うた。
「期待度がどのギャンブルとも違う。可能性に賭けているって言うと少し仰々しいが、不確定な要素が多い分、勉強に勉強を重ね、最後には自分の勘を信じて勝負する。生き物というそれぞれの違う個体差がどうしようもなく惹きつけるんだよな。走り抜ける御姿はもちろん、人間みたいに性格だってバラバラ。強く走り続けることがそんな生き求められるこいつらは本当に逞しく脆い。そんな生き物に自分の汗水たらして働いた金を賭ける。そりゃぁ生きているって感じがするよな。たまらなくいいんだ、その時が」
ハクハは、クセの強い酒を味わうかのように語る。ハクハもまた馬を愛した、ヒポファイルだった。
人と馬の歴史は長い。歴史を共に歩んできたパートナーとして、馬は人にとって欠かせないものだった。
昔は戦争だってあった。野を駆け草葉を食んでいた頃から、人に家畜として飼われていた時ももう長い。
その美しい獣の背には、誰かが跨るべきものとされているように、人馬一体という言葉があるように、二つで一つの命のような不思議な結びつきがあった。
馬は人と対になることで、全力以上の力を発揮する。家畜や競走馬のように人に管理されることは、野生にいた頃より高位の存在で生存していることかも。
馬は人を見る。自分に跨るに足る人間かを測る秤を、一頭一頭が必ず持っている。臆せず愛情をもって接してやれば、必ず馬は応えてくれる。人と馬の関係性は、それほどまでに密なものになり得るのだ。
「この調子なら今度のグランプリシリーズにも間に合いそうだ。またあの疾風迅雷の走りを拝ませてもらいたいもんだ。三冠を取った時みたいな、あの走りを」
「出来ますよ。エアアルソルはハクハさんが見立てた時代を席巻する良い馬だ」
ハクハはエアアルソルの首を撫でる。銀色の毛並みと、鶏冠のように伸びた美しい金の鬣と翡翠色の強い瞳。誰もが一目でわかる名馬だ。
「願わくばこいつが一日でも長く美しく走る姿を見せてほしいと思っている。人に使い潰されるような人生しかないんだから。こんなに美しいのに悲しい生き物だと思うよ」
「それでも生きている間に魂から全力を出せるのは、いい人生だと思いますよ。本能以上のものを体験していると思います」
「そうか。確かに違いないかもな。ほんと、尊敬するぜ。俺は馬を走らせて食っている。馬の生き方そのものをとやかく言える立場ではないと自分でもわかっちゃいるんだがな」
「馬をただの人の乗り物や道具として扱っていない証拠じゃないですか?」
「どうだかな。自分でも良く分からん。生きているっていう実感だけが手や胸に残るだけだ」
ハクハの眼差しは馬への愛情に満ちている。トールが幾度としてみてきた一流の職人の眼。
エアアルソルが高く嘶いた。彼の眼にもまた一流の光があった。
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