第20話『彫刻の印』
一辺が四センチメートル程の木片を彫る。トールは、印章彫刻士のイチニツの工房に修行に来ていた。
ハナサキには、ハンコの文化が根付いている。重要書類には自分のサインの横に、専用のハンコを押印する。成人の儀を終えた者が社会人として、最初に行うのがハンコ作りだ。中には自分の将来の発展を願って、高価な象牙や宝石を印材に選び、注文する者もいる。ハンコは、その人のステータスを示す重要なアイテムだった。格調のあるハンコを持つのが、立派な大人の証だった。
ハンコにはイニシャルはもちろん、その人を表わす華の絵が彫られる。その華は、生まれた時、他所から来たものは転入時に、選華士によって決められる。トールの華は灰桜だ。印章彫刻士は、一つとして同じデザインのない、その人だけの特別製のハンコを彫る。高い技術が要求され、伝統を守る大切な仕事だ。
トールは、版画に沿って小刀を入れている。失敗のできない特に神経を使う細かい作業だ。この出来で印の良し悪しが決まると言ってもいい。未だにイチニツの可は貰えていなかった。
トールがこの街のハンコ文化の風習を知り、自分のハンコを彫って貰うべく印章彫刻士を探した。ハナサキで多く作られるハンコは、シーリングスタンプとしても使える、イニシャルと花や植物をデフォルメして、模様のようにしたデザインのものが多い。もちろんそれでも、好みのものもたくさんあった。しかし、どうにも踏ん切りがつかない。この街で腹を据えて生きていくに当たって、これでいいのか、もっと良い物はないのかと、あれこれと考えを巡らせてしまう自分がいる。これと言う決め手が欲しかった。
街を散策していると、通りの隅に開かれた寂れた版画展を見つけた。芸術に疎い自分が、寄ってみたところでとも思ったが、まさに彫刻とゆかりがある今この時、何か兆しのようなものが見えるかもしれない。
そんな思いで中に入ってみると、そこには『日輪画』のメリハリのついた侘び寂を感じる版画が並んでいた。立ち止まり良く見る。濃淡は鮮やかではあるが、古風と言った方が良いか、艶やかさや柔らかさより、硬い。流れゆく時の一瞬を切り取って、封じ込めた。そういう印象を受けた。東洋に浮かぶ島国『和陽』の風景。砂粒を上方より降り積もらせたような裾野の広い美しき山、浮塵山。恋人たちが世を嘆き心中を図る絶壁の名所、海の底まで続く鳴沽の大渦。武士たちの血を吸って咲いたとされる千本狂桜妖園。その中で築かれた『日輪画』には、煌びやかさも派手さもない。素朴でありつつも、誰しもある人間の孤独に浸るような物寂しさ。掻き立てられる、引き込まれる、と言うよりずっとそこにあることを、望まれているような気分にさせられる。
展示場の老主人にこの版画家の話を伺うと、これらはその版画家が、若い頃に製作した作品と言うことが分かった。棚を整理していたらたまたま出てきたそれを、ものの足しにと、売りに出したようだった。若い頃にと、そこに引っ掛かりがあって尋ねる。老主人はにこやかに答えた。
――その版画家は今、この街で印章彫刻士としてハンコ作りをしているよ。なかなか厳しいがね。
渡りに船とはこのことだった。トールはすぐにその印章彫刻士の工房の場所を聞いた。
この道、四十年のベテランのイチニツは、齢七十を超える痩躯で、実に細やかな仕事をする。丸眼鏡の奥に、寡黙な職人の厳しい眼差しがあった。和陽の雪深い北から、雅な古都、日輪、そして未だ領土権で、外交と情勢の厳しい南の島々まで、一人旅をしながら修行を重ねた下地。芯、言うならば核に根ざす、確かな基盤があるからこその慧眼。他人を寄せ付けない背中から伝わる、静かな覇気。工房の空気は鉛のように重く緊張している。吸い込むのに普段よりエネルギーを有する。この空気に耐え兼ねたくさんの門下生が去って行った。
「まだまだだな、やり直し」
トールの手元を覗き込んだイチニツが呟いた。
「はい」
もうこの華を何度となく、繰り返し彫っている。イチニツの目に適う出来に、どれほど遠いのか、どこが悪いのか、といったことは教えてもらえない。自分で考え、彫り方を工夫し、少しでも改善する。先の見えない修行は、自分のありのままをぶつける濃密な時間だった。持っている発想の引き出しなど全部出し尽くして、それでも自分の中に新しく生まれるものがあるのかと絞り出す。感覚は研ぎ澄まされ、鋭敏に手応えを確かめる。
「トール、来い」
「はい」
イチニツの彫り進める作品を横から見る。目眩がするほど複雑な図案だ。細い彫刻刀の角度を巧みに変えてイチニツは彫る。イチニツのように自分の手足同然に、道具を扱えるようにならない限り、先には進めない。一分の隙も洩らさぬように、目を凝らす。速い。考えるより先に手が動いている感じだ。印材はラピスラズリだ。その鮮やかな彫刻刀捌きに、息を呑む。
「餅は餅屋に任せればいい。道具屋のお前が何故手を出す?」
イチニツが低くしゃがれた声で言った。
「この街に来てあなたにハンコを彫って貰った時から、いつか自分でも誰かのために彫ってみたいと思ったんです。この小さな印にたくさんの思いが乗っかっている気がして、一つとして同じものはなく自分を表すものが職人の手で作られるなんて素敵じゃないですか」
あの版画展を見てから、すぐにイチニツの工房に行き、今のイチニツが作っているハンコを見せてもらった。これだ。これ以外にはない。一目見ただけで確信した。花が一番美しく咲いたその瞬間を、切り取り、やはり封じ込めている。人の成す術で形どられたそれは、奇跡や魔法なんかにはない、歴史と血の通った魅力があった。雲間に輝く白雷のような衝撃を、トールは今でも覚えている。
「あんたも道具屋の端くれならわかると思うが、文字を書く筆やペンを持つ握る力は、毎日文字を書いてなきゃ違和感がすぐに襲ってきて良い字は書けない。彫刻刀もまた一緒のことが言える。毎日握っていないとすぐに鈍る。あんたはどうだ。そんな半端な仕事に誰が大事なものを託す。毎日だ。毎日扱うことでしっかりと安定した品質の本当の仕事ができる。あんたはそれをわかっているのか。足掛けでできるほど生易しいものじゃないんだ」
イチニツは印章彫刻士として、トールのやり方がプライドに障るようだ。当然のことだ。トール自身それは不敬になることを覚悟していた。それでも、門下生として勉強させてくれているということには事情があった。
イチニツでさえハナサキでは、やっとその実力が認められてきたと言ったところだ。海を渡って来たと言うことで、未だに古くからいる印章彫刻士たちからは、白眼視されている。それは彼の持ち味である日輪画から着想を得た、独自のデザインを加えた美しいハンコに対するものだった。苦節四十年、トールのような半端者を門下生にして食いぶちの足しにし、歯を食いしばってここまで来た。その背中を見てきて、彼の奥歯を噛み締める寡黙さが、思いを込めた一刀一刀に滲み出ていると、トールは思っている。
トールが、彼のように自分の顔ともいえるハンコを作る仕事がこの先、出来るかは素直にうんとは言えなかった。やりたいことと、やるべきことと、やらなければいけないことは、必ずしも一致しない。
しかし、ハナサキの文化の象徴ともいえるハンコ作りを、道具屋としてやらずにはいられなかった。学びたかった。自分の心に宿った感動を形にしたかった。
人間の作った仕組みから生まれる、たくさんの仕事に自分が携われるとしても、一つ一つかけられる時間はあまりに短い。一つの仕事を満足にこなす。それは誰もがやっているようでも実はそうではない。どんな仕事だってそれだけに一生の時間を費やせば、必ず極められると言う程に甘いものではない。
だが世の中には、まだまだ自分のやりたいことばかりだ。気持ちの上でもまだ若いと思えているうちに、なんでも体験してみたかった。その後どうなるかは後で考えればいい。自分に合ったものを選りすぐって、よりよい仕事ができるように、自分自身を高みへ。それが叶うのは、コツコツと一から努力を続けた者のみだ。
自分がどこまで長く旅を出来るか。そういうところも見定めていくのも、また楽しいひと時なのだ。三十代、これからは自分の中に積み上げてきたものを、上手に切り捨てていく歳だが、トールはまだまだ発展途上の自分に期待して、努力を続ける。
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