第19話『清陵と正常な人間』
ザクザクと氷壁に、ピッケルとアイゼンを引っ掛ける音が響いている。
トールは厳寒の雪山ホープラランド山に来ていた。今日は登山道具の実用試験で、登山家の若者ルークと共に、雪山を登っているのである。極寒の雪山でも、新しく用意した防寒着は、その性能を十分に発揮していた。
前に登った時は、カイロをつけていても、指先が凍るように冷たくなり、随分と難儀したものだ。今回はウェア、冬靴、アイゼン、ピッケル、スノーシュー、ゴーグルといったギアと呼ばれる登山道具の、最終点検を行う予定だ。
ルークのザックは、予備のギアも入っているので、80Lも入る大容量だ。それを背負って難なく山を登る。
トールは、本格的に雪山を登る経験はまだまだだが、趣味の領域を超えるほどには、登山経験があった。登山には、様々な道具との付き合いがあるからだ。
シーズンにはトールの店にも登山道具が並ぶ。売れ行きも好調で、買い求めに訪れるお客と、登山話に花を咲かせたりもする。あの山は登りがいがあるだとか、滑落してあわや大怪我するところだったなど、溌溂としたアクティビティは、ついつい会話を弾ませるものだ。同じものを見てきた、体感してきたというのは、一種の仲間意識を芽生えさせる。人間というものは、感覚を共有することも、喜びの一つとして感じられる生き物だ。
風は凪いでいて、太陽が見え隠れする程度の晴れ間。格好の登山日和だった。だが山の天気が変わり易いのも常。安全に正確に、素早く行動しなくてはならない。
「トールさん、この上で小休止」
一歩先を行っていたルークが言った。トールは極寒の中でも、背中にじっとりと汗をかいていたので、早く着替えたいと思っていたところだ。速乾性の高いインナーでも、動き続ければ汗が滲む。汗は体を冷やす最も気を付けるべき要点だった。
――まだまだ素材の改善の余地はあるな。
実際に使ってみないことには、本来の性能はわからないものだ。道具が進化していけば、登山の過酷さは、劇的に軽減されるだろう。少しでも軽いもの、少しでも寒さを凌げるもの、少しでも強靭なもの。人間が欲する要求はどこまでも高い。
それでも山を登る気持ち良さは変わることはないだろう。この景色、この温度、この空気。冬の山特有の澄んだ空気は、心に清浄な風を吹き込む。吐く息は白く、露出する肌には刺すように痛みが走っているが、ここは気持ちが良い。
氷壁を登りきると、良い感じのナロが広がっていた。そこでブレイクタイムに入った。
トールは簡易テントを手早く張り、中で着替える。風を遮ってくれるとは言え、瞬時に凍えるような寒さが襲った。芯まで冷えないうちに、急いでインナーを取り換える。再び装備を整え外に出ると、ルークが珈琲の入った水筒を差し出した。
「トールさん、あったまるよ」
言葉少なに勧められるそれを、トールは受け取った。
「ありがとう、ルーク。今日は一緒に来てくれて助かったよ」
「別に、俺も登りたかったし。トールさんこそ久し振りでバテてるんじゃないの?」
「ははは、確かにきつい。普段、店に籠ってばかりじゃダメだなって改めて思うよ。でもこうして外に出てみると、心がスッとするね。仕事とはいえ楽しんでいるよ」
トールがふうふう珈琲を冷ましていると、ルークはしゃがんで、降ろしたザックを弄んだ。
「俺は山を登るしか能がないから、トールさんみたいに生きるのが羨ましくなる。仕事しながらも、ずっと山のことだけを考えて、俺は山のために生きて、山のために死のうと思ってる。下の世界は息が詰まる」
そう呟くルークの顔は、本当に喉を締め付けられて苦しそうに、息も出来なく喘いでいるかのようだった。
「それでもきちんと仕事に向き合う君を、信頼して俺は仕事を頼むんだよ。少しずつでいい。人間なんて、自分の両手を伸ばして、守り切れるものだけ守っていけばいいんだよ。それ以上のことをすれば、どこかで無理が生じる。人はその鬱積を、酒や御馳走でうやむやにしている。けど君みたいに正直に生きる方が、人間としては本来正常なのかもしれない」
ルークは、『単独行のルーク』と呼ばれ、パーティで登るのが常識とされていた登山の常識を若くして覆した青年だった。彼の高い登山能力を買って、たくさんの登山家が誘ったが、彼はそれをことごとく断った。山と向き合う精神が、それを許さなかったのだと言う。
トールのようなもののために、一緒になって山に登るのは、稀なことだった。
人がなぜ山に登るのか。偉大な記録をなすため、絶景をこの目で見るため、達成感、スポーツとして健康的に。彼は、それのどれとも違う感覚で登っていた。一歩の重み。人が足を広げて歩く、その一歩一歩の積み重ねで、人が体の悲鳴を上げる限界のところまで行くことが出来る。その瞬間、単純で純粋でありながら、実に多くのものを感じることが出来ると彼は言う。世界を感じる位置に行くことで、本来、澄み切った純度の高い世界そのものに、本当に向き合うことが出来ると言う。
トールはそれを聞いたとき、悲痛の叫びだと思った。多くの人と関わっていくトールと、彼の生き方は、全くの対極。そんな彼に、尊敬にも似た興味以上のものを感じた。初めは、どんな条件でも、仕事の依頼は断られ続けた。ならばと思い、自分も彼のように一人で山に登ってみることにした。
知識を得て体を鍛え、臨んだ単独登山は孤独だった。登り始めは、あれこれと目に着いた自然に興味を惹かれ、視線があちこちに散っていく。しかし、どんどん標高が上がるうちに、感覚は冴え渡って、踏み出した足の重みと、自分の足音だけが耳に残っていく。都会よりもむしろ、生命に満ちている山のはずなのに、そこは途方もない孤独を感じた。そして、こんな大自然といつも、彼は向き合っているのかと驚嘆した。独りでいることはなんと切ないものか。自分の弱さを直面して、気を抜けば引き返したくなる思いで挫けそうになる。いつだって帰っていいんだぞ。そう山が見上げる上から言っているような気がした。そして山小屋や下山した時に感じる、人の温かみと残酷さ。あれだけ研ぎ澄まされていた感覚が、一瞬にして儚く染まっていく。あぁ、だから登るのか。だから登らなくてはいけないのか。そういう感情を思い知った。
そのことを彼に話すと、表情の薄い顔に少しだけ色が差した。そしてしばらく経ってから、シープコプコフに彼は来た。
「俺のスポンサーになってくれ」
そう言って二人のギア実用試験が始まった。トールは共同開発ということで、それを受け、彼が少しでも心を開いてくれたことが嬉しかった。
珈琲を飲み終わると、ルークはアックスとザイルの準備をしていた。
「さ、ここからが本番だ。行くよ、トールさん」
ここからは氷瀑を登るアイスクライミングだ。雪山で見る彼の横顔は、月光に照らされて毛並みを揺らす、一匹の狼のように美しかった。
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