第18話『珈琲の薫りはいかが?』
トールは、喫茶店『ニビツペコニ』に来て、溜まった店の帳簿をまとめていた。商品の仕入れや売り上げ、今後の取引の予定などの書類を、月に一度、月末に時間をとってまとめて処理する。トールは、う~んと唸りながら帳簿に齧りついているが、あまり好んでやるタイプの仕事ではなかった。しかし、一人で店を切り盛りしているならこれも避けては通れないし、この見通しが甘いようなら商売はできない。店の売り上げは悪くないが、先月よりかは数字が伸びない。いくら睨めっこをしようが、数字というものは変化しない。改善点を赤で修正すると、小休止することにした。
「マスター。ケーキセットを一つお願いします」
「豆は何にいたしますか?」
「とびきり苦いのを頼みます。ケーキは何がありますか?」
「何でも言ってください。苺の乗ったショートケーキ、まろやかな和栗のモンブラン、爽やかな酸味とわずかな塩味が利いたレアチーズ、ふんわりと甘いミルクレープ。そうですね、深々煎りですとカカオが合いますね。生チョコレートの入ったガトーショコラなんてどうでしょう?」
「いいですね、お願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
トールは胸ポケットにしまっていた、ラックシンパルというココナッツの匂いのする煙草を、取り出して火を点けた。時間をまろやかにする甘い香りの紫煙が立ち登る。
――甘いものを食べるときはこいつに限る。
まったりとした気分に浸るのに、ピッタリの味だった。黒いシガレットで、フィルターだけが金色をしているこの煙草は、トールのとっておきだ。嫌なこともこれで少しは煙に撒ける。
ボーっと煙草をふかしていると、煙の匂いに混じって珈琲のいい香りがした。
ここの珈琲は、一杯一杯丁寧にハンドロースターで焙煎している。コーヒーミルで豆が挽かれる小気味いい音も耳に心地よい。それにしても、珈琲と煙草はどうしてこうも合うのだろうか。喫茶店で吸う煙草も口にする珈琲も、二つが合わさることで本来の贅沢さを格段に上げる。煙草を一本吸い終わるころには、マスターがコーヒーセットを運んできた。
「お待たせしました。やっぱりトールさんに選んでもらった道具は、使い心地が取り分け良い。今日もいい珈琲が淹れられました」
マスターは満足そうに頷いて、ケーキセットをテーブルに置いた。
「それは何よりです。僕もマスターといろんな珈琲を見て回れて楽しかったです」
あたたかな木の温もりと、使い込まれたアンティークの食器。趣のある落ち着いた雰囲気。仕事に追われている中でも、ここだけはゆっくりな時間が流れている。
トールは、ニビツペコニの道具一式のプロデュースを行ったのだ。税務官として働いていたマスターは退職後、念願だった喫茶店を営み、余生を過ごしたいと考えていた。そこで当時、店のプロデュースで注目されていたトールと出会った。トールとしては、道具屋一本でやっていけなくて考え付いた苦肉の策だったが、思いの他にセンスを買われて、店の雰囲気づくりの一端を担うことになった。
マスターは普段から同僚を自宅に招いて、自慢の珈琲を振舞っていたそうだ。淹れたい味によってドリッパーの種類を変え、豆の挽き方を変えるために、多数のミルを使い分けるマスターのこだわりを知った同僚が、店を持ってみてはと勧めたそうな。
トールとマスターは運転資金、客層、メニューに至るまで事細かに協議し、店づくりを行った。喫茶店巡りが好きだったマスターの、店に対するイメージがはっきりしていたので、トールはそれに合った店づくりを行った。
話し合っている際にも、マスターが淹れた珈琲がトールにも振舞われ、次第に焙煎の仕方、お湯の注ぎ方、珈琲に合うお菓子類についてまで二人で話すようになった。おかげでトールも珈琲の知識が随分とついたものだ。
一から作り上げる楽しさと喜びが、二人のイメージを形にしていく。他には代えがたいその思いは、一級の珈琲を淹れるのと、少し似ているとマスターは言う。目指すべき味や香りに向けて丁寧に、真摯に向き合うことは、おもてなしの精神を持つ者にとって、何より大切なことだった。
「目的のために道具を一つ一つ揃えていく。その道具を手に馴染ませ長く愛す。自分の琴線に触れたお気に入りでお客をもてなす。その瞬間が溜まりません。爺さんになっても男ってやつは形にこだわる。妥協無く納得のいくまで足を使って探し回る。その労力をかけた分だけ思い入れは濃くなります」
「マスターの健脚には驚かされましたよ。利き珈琲なんかもやりましたね」
「ふふふ、あの頃は私もはしゃいでいました」
マスターには家内がいたが、店づくりを行う少し前に他界している。税務官時代は忙しく働きながらも、休日にはいつも家内のために珈琲を振舞っていた。家内と、
――美味しい。ホッとする味ですね。
と、微笑む穏やかな時間。マスターのこの珈琲は、今はもう叶わない、一番飲んでもらいたい人のために淹れる珈琲だ。
「トールさん。今度モーニングセットで、フレンチトーストを作ってみようと思うんです。良いパンと良い卵が手に入りそうなんで、試しにと思いまして。是非試食に来てください」
「それはまた珈琲に合いそうですね。是非伺わせて頂きます」
「それとそこの合計、間違っていますよ。正しくは」
マスターはトールの持っていた赤ペンを取り、ナプキンに計算式を書いた。
「こうです」
「はは、助かります。どうもこの手のことは苦手意識が先に立ってしまって」
「トールさんも道具屋さんなんですから、そろばんを覚えてみてはいかがですか? 計算は早く正確に出来ますし、数字の苦手意識を克服できるかと」
「ん~確かに道具を通してだったら、楽しく勉強できるかもしれませんね」
「道具の発明というものは、その後の文明発展に大いに役立ちます。用途の洗練された道具を使っていると、それがよくわかります。珈琲を淹れるためだけに出来た道具たちも然りですね。人間のお茶を楽しむ心は、随分と昔からあるものだ。人をもてなすためのお茶。家族と団らんするときに呑むお茶。ほっと一息淹れたいときのお茶。それが格別なものであると、いい時間を過ごせるというものです。
いい時間を過ごすということはいい人生を過ごすというもの。人の心に余裕が生まれた時、お茶と言うのは丁寧に淹れ、実に美味しいと感じるものです。その僅かなひと時を提供できるように、私はこの店を開きました」
「ここでは、随分と良い時間を過ごさせてもらっていますよ。長く愛される。そんな店になっていくといいですね」
「私はあなたのように、なりたいものに対して、ひたむきになっていたというような人生ではないですが、この舌、この鼻が利くうちは、最高のものを仕立てていきます。おかわりの時はまた声をかけてください」
「じゃぁ今度はサイフォンで貰おうかな」
まったりとした時間が過ぎていく。深く煎れられた豆のブラックコーヒーとチョコレートの濃厚な甘さは、唸るほどにマッチしていた。
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