第15話『はらぺこの櫛職人』

「いつみてもいい出来栄えですね。惚れ惚れです」

「いいのかい? 早く店に戻らなくて」

「従業員は俺一人しかいないので時間はやり様で作れるんですよ」

「じゃぁ一から見ていくかい?」

 トールは櫛工房に来ていた。天井近くに取られた灯り戸から陽が差す工房には、びっしりと美しい櫛が並べられ、それらを作る道具たちも、綺麗に整頓されていた。

 ハナサキでは年に数度、見本市が開かれる。街中にいる職人たちが、自分達の技術の粋を結集させて競い合う、職工大会という大規模なコンテストが開かれているのだが、その際に出来た出品しないまでも、放っておくにはあまりに惜しい作品たちを、手ごろな値段で販売する市だ。トールはそれを毎回楽しみにしていて、商品仕入れのヒントにする。いっぺんにたくさんの職人芸を見られるのは、とても面白いし何より勉強になる。発想の豊かさ、利便性、デザインにまで一流の品も多い。若手の作品も多く出品され、目新しいものも見ることが出来る。そしてその中で、興味を引かれた商品を作った作者を、訪ね歩くのもまた楽しみだった。

 そんな中で、一つの美しい櫛を見つけた。

 雲雀椿の樹で出来た赤い櫛。雲雀椿は幹から椿油が染み出てくる、天然の油木だ。加工は難しいが、その特性が生かせれば櫛を通すだけで、髪をしっとりと纏めることが出来る。手に取ってみると、櫛歯の一本一本に、均一に細かい加工が施されている。

「良い櫛ですね」

 トールは、出店にいる若いの店主に言った。

「へぇ、それはうちに入ったばっかりの、マオって娘の作った櫛ですよ。確か東洋から来たって言っていたかな。おたくくらいの歳の娘ですがね、腕は確かだ。故郷でもずっと櫛を作っていたみたいで、実績があるんで並べているんです」

「その人の仕事を見学したいんですが、紹介して頂けませんか」

「いいですよ。中央にある大通りの道を一本東に入ったところに、大きいパン工場があって、その裏手にある『藜』って工房です」

「ありがとう、いってみます」

 トールは買った櫛をしげしげと眺めながら、目的の工房へと歩いた。こういう『出会い』をトールは大切にしていた。自分の琴線に引っ掛かるものを探すセンサーは常々磨きをかけていなければ、一人店主なんて際どい生き方は出来ない。

 ほどなくして、小麦粉の生地が焼ける、香ばしい良い匂いがしてきた。

 ――そういえば小腹が空く時間だな。

 工房に寄る前にパン工場を覗いてみると、小さいが直売所があって、焼きたてのパンを販売していた。トールはトレーとトングを持って、品定めをした。

 ――味がついているのはキノコとブロッコリーのグラタン風のクロワッサン。これが旨そうだ。シンプルに塩味のバターロールと甘い菓子パンを一つ。小倉餡の大粒のアンパンにしよう。もちろん粒餡で。豆の皮の食感があった方が断然に旨いからな。

 瓶詰のお茶も一緒に買って、店先にあったベンチでパンを一つパクついた。

「よし、行くか」

 お茶で口を綺麗にしてから、折角だからと髪を解いて、さっき買った櫛で髪をとかした。

 ――なるほどやはり良いものだ。

 反射する窓に映る、さっきまで手櫛で梳いていたぼさぼさ頭に、しっとりとした清潔感が生まれた。

 工場の裏に回ると木造の小さな平屋があった。表には『藜』という看板が立てかけられている。戸に近づきノックする。

「すみません」

「開いているよ」

 太く耳によく響くが、艶やかな姉御肌の女の声がした。

「失礼します」

 戸をゆっくり開けると、家主はまさに櫛と向かい合っている最中だった。

「すみません、お初にお目にかかります。町のはずれで道具屋をやっているトールというものです。見本市でこちらの櫛を見つけて、製作した人がどんな人なのか気になって訪ねてきたんですが」

「ちょっとお待ち、今いいところだから」

 ちょうど仕上げの工程のようだ。櫛歯の一本一本に磨きをかけている。視線は真剣そのもの。一瞬たりとも目をそらさず、集中して作業をしている。良いリズムだ。仕事と言うのは、慣れを超えるとテンポやリズムを取って、律動的に行うことができる。そこには侘と寂が生まれ、職人芸として昇華される。

 ふーと息をついて家主が顔を上げた。

「あぁ、その櫛かい。確かにそれはあたしの櫛だ。いいだろう、悪くない出来だと思うがね」

「自分で使うには勿体ないくらいに良い櫛です」

「ははっそれ女物だぞ」

「あ、はは。いや良いものを見るとつい手にとって使ってみたくなる性分なんです」

「面白い人だね。道具屋さんと言ったかい? うちの櫛を仕入れにでも来てくれたのかい?」

「うちは一人で店を切り盛りしているんで、あまり大口のお話ではないんですが、ぜひご相談したいと思いまして」

 女主人マオは纏めていた黒い髪をほどいた。はらりと長い長髪が背に落ちる。

「思わず言葉を失うくらい高いものはいくらでもあるが、それを交渉して手ごろな値段にって訳にはいかないよ。あたしの櫛はね、日用品と言っても品質にこだわれば、自ずと値段は跳ね上がる。櫛を作るのには、二十工程もあって本来職人も何人もいる。あたしはそれを一人でこなす。一人でお店をやっているおたくならその意味はわかるよね?」

「はい。うちでも売れる商品を置かないとお店がつぶれてしまいますから」

「お、言うねぇ。じゃぁ売れるかどうか見て貰おうかな?」

「ぜひ」

 トールは、棚に敷き詰められている櫛の一本一本を、丹念に見た。均等な櫛歯と美しい絵付け。磨き上げられた櫛たちはつやつやに光を返していた。並んでいる櫛の中には、柄の部分に美しい紋様が施されている飾り櫛もあった。

「この飾り部分もあなたが仕上げているんですか?」

「あたしは本来そっちを極めようとしていたんだ。我流だがね」

「いや、綺麗ですよ。これなら得意先の御婦人にウケそうだ」

 お得意様のいくつかの顔を思い浮かべていると、マオは頬杖をついてトールに聞いた。

「商売をしていると人を人として見なくなっちまう時はないかい?」

「例えば?」

「仕入れをする時は、誰か一人にプレゼントを用意するように考える訳にはいかないだろう? たくさんの人の好み、店のイメージを考えたり。売れないものを置いても生活は成り立たない。如何に手を取ってもらうこと。好き好みは二の次だってこともさ」

 それは商売をする上で真理かもしれない。トールは顎を一撫でしてそれに応じる。

「それはお客に財布の紐を如何に緩めてもらうように戦略をしなくちゃって話ですか?」

「客商売をしていれば、気の悪い客だって現れる。この人に自分の作った商品を使ってもらいたくないと思っても金は持っている。かと言って自分の気分で客を選ぶことも出来ない。逆に喉から手が出るほどに欲しがっていても手持ちがない客もいる。こっちの慈悲で、まけてやることは出来ても、それではこっちの商売は上がったりだ」

 マオは手を広げてお道化て見せた。だが、目は真剣だ。トールも相対して自分の心構えを答えた。

「そこは心の中で知らず知らずに、冷静に線引きをしているかも知れませんね。でもプライドが無くては良い商売も出来ません。その後の良い付き合い方が出来てこそだと僕は思うんですが。信頼と信用を築いていけば、長く愛される店になると思いますよ」

 マオは自分の掌を透かしながら言う。

「この街に来てみて、あたしは今一人で生きていく難しさを噛み締めている最中なのかね。でもたくさんの人を相手にしている方が生きている気がする。ここに来てよかった。毎朝パンの良い匂いに起こされちまうけどね。お陰でですっかりご飯食からパン食に変わっちまった」

「ははは、あそこのパン美味しいですよね。さっき一つ頂きました」

「その包み、まだ入ってるの?」

 マオは喜色たっぷりに、トールの持っている紙袋を指差した。

「バターロールとアンパンが一つずつ入っていますが」

「よし、そのアンパンで手を打とう!」

 マオは意気揚々と文字通り手を打ち鳴らした。

「ちょっとまだ俺は決めちゃ……」

「いいね、道具屋さん!」

「……わかりました」

 トールはやれやれと苦笑すると、マオにアンパンを寄越して、自分は残ったつやつやのバターロールを手に取った。

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