第9話『wet and oily』
今日の午前中は、店を開けてからというもの、てんやわんやの忙しさだった。猛烈に襲い来る客の手で、消耗品やら工具類が一斉に捌けた。何事かと思ったが、みんな忙しそうにしていて、ついぞその理由は聞けず、トールは客の勢いに押されるように接客をしていた。
時刻はもう昼過ぎ。腹の虫は悲鳴を上げ続けたことで、今は随分と大人しくなっていた。
トールは、昨日の残り物を漁って、遅めの昼食を取ることにした。台所の鍋にミートソースがあったので、湯を沸かし、即茹性のペンネを茹でてソースをかける。スープを作るのが面倒だったので、捨てずに残した茹で汁にキムチを投入して、顆粒の出汁を加えて味を調えた。洋と中の即席の定食の出来上がりだ。味のハーモニーは期待できない。
またいつ客が来るかもわからないので、のんびり食べている時間はない。コップに入れた水と料理をトレーに乗せて、レジのカウンターで食べることにした。すると、座る間もなく、チリンチリンとドアベルが鳴った。
「この店やってたんだ。いつも開いてないから」
そこにはベリーショートカットの若い女の子がいた。女の子にしては奇抜な髪形ではあったが、どこか利発そうな感じがした。形の整った大きな眼をしていたからかもしれない。制服を着ているので、どうやら学生のようだ。
「出張修理や注文された商品を作ったりしていて、不定期だが店は開けているよ」
「趣味みたいなもの? ……食事中ならまた来ようかしら」
少女は、トールの手元のトレーに視線を落とした。
「あぁ、すまない。今日は珍しく忙しくてね、昼食がまだだったんだ。すぐに下げるよ」
「いいわ、ペンネが伸びる前に食べてしまっては? 私は気にしないから。適当に棚を見ているわ」
「そうかい? じゃぁお言葉に甘えようかな。今日は何故だかお客がたくさん来て商品は大方捌けてしまったから、お気に召すものはないかも知れんが」
「構わないわ、掘り出し物があるかも知れないって思って来ただけだから」
そう言って少女は、店内を見て回った。クールな装いのわりに、興味津々に商品を手に取って見ている。トールは邪魔にならないように、なるべく静かに食事をした。ペンネをソースに絡めて頬張る。味は上々だったが、スープを口に含んだ時に、激烈に味が崩壊してがっかりした。味を楽しむより、今は腹に物を入れることに意識を集中して、食を進めた。半分くらい食べ終えた時だった。
「やだ、なんでこんな店に天然岩絵具の三十色セットなんて扱ってるの!?」
少女が思わず驚きで声を漏らした。
「こんな店なりにも独自の仕入れルートがあってね。高価だが画匠が買い求めにやってくる」
「ごめんなさい、つい。美群青、銀紅末、藤紫、山吹。どれもとっても綺麗な色」
「絵を描くのかい?」
「私の専門は油絵だけど」
そう言って少女が手を掲げ、幾重にも色彩が混じった指先を見せた。それだけで少女が、数多に絵を描き上げてきたことが分かる。
「ホートミルプ美術学校の生徒かい?」
「そう、そこの二回生。アイディアに煮詰まったから、気分転換に街をふら付いていたの。そしたら、前から気になっていた店のプレートがオープンになっているから、思わず入っちゃった。画材は学校から支給されるけど、それだけじゃ学校の枠を出ることが出来ないと思うの。自分だけの色を求めるところから、絵を描くことは始まっているのだから」
「自分の色を探すことは何においても大切なことだ」
トールの物言いに、少女の眼が少しだけ反応した。
「良いこと言うわね。道具屋の店主ってそういうこと言う類の人間なの?」
「独り立ちしてやっている奴らは、大体がこんな感じだよ。皆、自分なりの哲学を持っていてついお喋りになる」
「誰かと一緒に働こうとは思わなかったの?」
少女は小首を傾げて尋ねた。
「誰かに合わせる心の余裕がないだけかも知れんが、一人でやっている方が気楽なんだ。やっていけるようになるまではかなり時間を食ったが」
ふと、少女は自分の手を見つめた。
「私は将来のことをこれと決めてしまえるほどに、自分のことを知らない。絵を描くことだけが生きがいで、他には何もないから描いてきただけで、誰かと一緒に何かを作ったり、誰かの指示で何かをしたりすることは、想像も出来ない。友達もいないの、私」
少女が切なげな台詞を呟いたはずなのに、どこかそう感じさせない凛とした強さをトールは感じた。
「古い付き合いや長い付き合いの人間を持つことは、確かに人を豊かにもするがしがらみにもなる。それに新たに出会った人を、短い時間でも大切にしていくのも案外悪くないよ。道を究めていけば自ずと深い話も出来る。本当に寂しくなっても長い人生の中で連れ添う伴侶をたった一人見つければいい。大丈夫、君ならいい恋もたくさんできると思うよ」
「今はただひたすらに絵を描いていたい。他のことなんて何も見えないの」
そりゃぁ良いとばかりに、トールはペンネを刺したフォークを掲げた。
「商品の仕入れはセンスたっぷりなのに、料理のセンスはないのね」
少女は、楽しげにクスクスと笑った。
「良い商品を揃えるより、良いお嫁さんを探すのはずっと難しいんだ」
トールは、残りの料理をかきこむように、胃袋に流し込んだ。
「今日はどうしてみんな忙しいか教えましょうか?」
「何か催し物でもあったかい?」
「街一番の芸術祭があるのを知らないの? 一人で仕事ばっかりしているとそういうのにも疎いのかしら」
「そうだったのか、てっきり俺は鯨でも上がったのかと思っていた」
「お店を閉めたら行ってみると良いわ。私の作品もあるの」
「それは楽しみだな。君がどんな色を使って表現するか見てみたい」
「この日のために描いた、とっておきが飾ってあるわ。でも今ならもっといい作品が描ける気がするわ。この絵の具でね」
少女は絵の具セットをレジに差し出した。トールは、若き才能の兆しに遭遇したのかも知れないと心の中で予感し、期待を胸にレジスターを開いた。
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