第2話『宝石とトロッコ』
「親父、肉そばの大盛と白菜漬け」
「あいよ」
道具屋トールの朝は早い。夜明けと共に、仕事道具の手入れを済ませると、一日の活動エネルギーを充填するために、決まって行きつけの屋台に顔を出す。店主もそれが分かっていて、注文した品は五分もかからずトールの元に運ぶ。
店は早朝にも関わらず、鉱山から下りてきた宝石堀の抗夫たちでごった返している。屋台は店主を囲むように四方にカウンターが備え付けてあり、ガタイの良い男たちが犇めき合っている。
七味を振りながら割り箸を口で割り、トールは勢いよくそばを啜った。外はまだ肌を刺すような寒さで、温かい肉そばの熱は、体の芯から染みていく。ものの数十秒でそばを食べ終えると、脂身の少ない豚肉に齧り付いた。そして、汁まで残さず胃袋に流し込む。腹の底に熱いものが溜まり、血の巡りを活発にさせた。店に入った時は、空腹と寒さで吐く息も白かったが、今は湯気でも出そうなほどに体は温まった。
「相変わらず良い食いっぷりだな」
食休みも兼ねて、白菜漬けをポリポリとつまんでいると、対角線上のカウンターの角から声をかけられた。声の主は抗夫の親方だ。東洋系の黒々とした堅髪を逆立て、額に捻じり鉢巻きをしている。如何にも力仕事が似合いそうな、引き締まった厳つい体つきをしている。
「どうも。親方こそ、朝から角煮丼を二つに筑前煮を大盛とは精が出ますね。何かいいことでも?」
トールは親方が片付けている器を見ていった。親方は角煮丼をかき込みながら言う。
「最近エメラルドの鉱脈にぶつかってな。今は交代しながら一日中掘っている」
「それはツイてますね」
「だから昼も夜も関係なしに大忙しさ。若いのには無理をさせないようにしねぇといけないんだが、みんな目をギラつかせて山の反対側にまで穴を空けそうな勢いでな」
と、親方は箸を持ったままの手で、屋台の周りに特設されている、若い衆が集まっている席を指差した。若い衆の男たちは飯以外には目もくれず、勢いよく飯をかき込んでいた。
「ははは、それは力をつけなくちゃいけませんね。僕も何かお手伝いできることはありますか?」
トールが聞くと、親方は頭を箸の頭で、軽くこめかみ辺りを掻きながら言った。
「そうさな……船場に一つ朽ちかけのトロッコがある。あれが使い物になれば作業がもっと捗るんだが」
「トロッコですか、いいですね。ちょうどやってみたい技法があります。早速見てみましょう」
「じゃぁ若いのに案内させる。おい! ハキム! ちょっと来てくれ!」
親方が特設席の方に声をやる。すると、
「なんスか、親方」
土埃にまみれた服を、だらしなく着こなしている、垂れ目の若い男が歩み寄って来た。鉱夫にしては痩せ型で、どこか表情に締りが無い。
「キッコロの港の倉庫にしまってあるトロッコを、道具屋に修理させようと思う。お前が行って案内してやれ」
「え、いやですよ。俺だってもっと掘りたい」
ハキムは、親方の指示に間髪入れずに反応した。
「口答えするな。分け前は掘った量よりも、いかに仕事に貢献したかで決めるといつも言ってるろう」
「そんなこと言って、掘りながらエメラルドをくすねている奴は、たくさんいるんですよ」
「だからってお前もくすねていい理由にはならん。これは親方命令だ、生意気は許さん」
「そんな~。はぁ……わかりました。でも俺まだ、飯が残っているんで待っててください」
そう言って、ハキムは不満たらたらだが、トボトボと項垂れて席に戻っていった。
「全く、最近の若い奴は口で何とかしようとする」
親方は鼻息を荒くして顔をしかめる。
「苦労してますね」
「お前も弟子を取るようになったらわかるかもな、頭が痛いぜ」
料理をかき込んで咀嚼しながら、親方は苦々とそう言った。
「心得ておきます。ごちそうさん、親父。いつも旨いぜ。お代はここに置いておくよ」
「毎度どうも」
トールは、店の親父に挨拶を済ませると、親方に一礼して、少し屋台の周りをぶらついた。
胸ポケットにしまっている煙草を、取り出して咥える。今日の煙草はガジンガーという、少し辛みの効いた香りのする煙草だ。たくさんの種類を少しずつ買い集めて、コレクションしている煙草棚から、毎朝その日の気分にあったものを取り出すのが、トールの楽しみだった。
昨日は、遅くまで修理依頼の書類を整理していたので、少し瞼に眠気が漂っていた。ピリリとした刺激が、目覚ましに心地いい。
ちょうど一服を終える頃、ハキムがやってきた。
「おい、道具屋。とっとと用件を済ませるぞ、ついて来い」
ハキムは、ぶっきら棒な態度で、さっさと先を行く。
トールは後を追って速足で歩いた。
ハナサキペトラオウスミカは、宝石や鉱物の様々な鉱脈が走るミジガジク山脈と、東西南と三方からなるヴァミグレド海流により、豊富な海産物を有す、カムイシリパ洋に面している。
春秋は、山に生命力豊かに息づく動植物を収獲し、冬には流氷も流れ着く冷たい海が、海の生き物たちを引き締めているので、港や宿場では滋味あふれる料理が振舞われる。
トールは、そんな港町の一つのキッコロに、ハキムに連れられやってきた。
ハキムはつまらなそうに、道端の石を蹴飛ばしながら先を行く。トールは遅れないように、しかし声をかけるには、少し遠い距離を空けながら歩いていた。
潮風が気持ちいい。港では漁を終えた漁師たちが、市場に下ろすために魚を選別している。
さっき朝食を食べたばかりだが、新鮮な魚を見ると、舌と腹の底が少し疼く。昼飯の献立をどうするか考えていると、一つの倉庫に着いた。
「ここだ、入れよ」
建てつけの悪い扉を、ハキムが乱暴に開くと、倉庫の全容が見えた。倉庫の窓には穴が空いて、潮風がもろに滞留し、柱の節々が錆びていた。あまり管理の行き届いている場所ではない。廃棄するかしないかのちょうど中間のものを、取り敢えずしまっておくような粗末な場所だった。
そんなゴミとも判別出来ない、瓦礫の上に、一台のトロッコがあった。
「あんたに直してもらいたいのはこいつだ」
ハキムは身軽そうに、ひょいひょいと登っていくと、トロッコに蹴りをくれた。
「昔は重宝されていたらしいが、今はまったくのロートルだ。どうだ、直せるか?」
「詳しく診てみないと何とも言えんが、道具としてはまだ生きているよ。あまり無下に扱わないでくれ」
ハキムのぞんざいな態度に、トールが苦言するが、ハキムはそれを鼻で笑った。
「はんっ道具屋ってのは、道具にも魂が宿っているとでも思っているのかね? 俺には理解出来ねぇな。あんたにはとっとと仕事に取り掛かって貰いたい。親方命令なんで、たまには顔を出すが俺も忙しいんでな。見積もりが済んだら、ちゃっちゃと修理に取り掛かってくれ」
「その前にこれを降ろす算段をしないと。そこじゃ作業は出来ない」
「面倒だな」
「下に降ろしてくれるだけで良い」
ハキムはしぶしぶ了承し、キッコロにいる知人を当たってみると、倉庫を出ていった。トールは崩さないように慎重に瓦礫を登り、踏み場を作ると、腰袋に入っていた金槌で、トロッコの傷み具合を音で診断した。
――死んでる箇所も多いがなんとかなりそうだ。
道具には、壊れて使えなくなるまで、主人と共に、汗水垂らしながら一生懸命に仕事をしてもらいたいと、トールは思っている。愛情が無ければこうして生業にはしない。
幼い頃からトールと道具は、切っても切れない関係だった。船大工を生業とする父がいたことで、たくさんの道具と共に幼少期を過ごした。初めて使ったのは、溝引き定規だったか。どうしても、波打った線しか引けなかった幼いトールにとって、道具を使うことで、初めて描けた直線は、感動的なものだった。
トロッコに、黒鉛でマーキングを施す。まだ使える箇所から、もう切り離さなければならない箇所まで。慎重に木材の生死を見極める。老けて使えそうもない箇所には、接ぎ木をして補修を加えなければならない。
トールが、煙草を二本吸いきったところで、ハキムが仲間を連れてやってきた。親方に似たドンと体格のいい、ハキムとは対照的な厳めしい男たちだった。
男たちは、足場が悪いながらも無言で仕事をこなし、渋い笑いだけを残し去って行った。トールは、男たちの仕事ぶりに好感を持った。
――これで俺も気持ちよく仕事が始められる。
トールは、再度点検を重ね、ハキムには道具を取ってくると言って、シープコプコフに戻った。
荷物は多かったが、往路はクナシャのお陰で楽が出来た。クナシャは『チャコ』という、乗り物用の大型の鳥で、旅の愛馬ならぬ愛鳥だ。
シープコプコフには、クナシャの他に、シャッコーという黒い羽並のチャコがいる。クナシャは、力持ちで遠乗り用、シャッコーは、風を切って走る火急用のチャコだった。
出掛ける際に、シャッコーは自分も外を走り回りたいと、鼻息を荒くしたが、留守番の礼に、ご褒美用の特性ブレンドの木の実をやると、夢中で貪っていた。食い意地の張った奴だ。
時刻は昼前、腹の虫が悲鳴を上げるまでは、作業に没頭しようとトールは思った。
まずは錆びた留め具を外していく。ネジ山が錆びついていて、レンチではこじ開けられそうにもないので、ナットを鋸で地道に切り放つ。
無心になれる時間が好きだった。人が睡眠の次に多く時間をかける仕事というもので、心地いい時間に浸れることは、何より幸せなことだ。それがトールにとって唯一無二の日常になっている。
汗だくになってナットを切り終えると、次はバールで留め金を、テコの原理を利用して取り外す。
トロッコが、枠を残してほぼ分解されたところで、先ほどトロッコを降ろした男たちが、注文した木材を運んできた。
衝撃に強いミシマオーク材。強靭ながら加工し易く、世界中に自生することで安価で取引される、大工に優しい頼もしい味方だ。
木材を持ってきた男の一人が、何やら興味深そうにこっちを見ている。どうやら作業を見物したいらしい。
トールは、快くそれを承諾すると、帳面に書いた寸法通りに、木材にマーキングを施した。その動きは無駄がなく、それだけで技の一つにも見えた。
今度はつけた印に沿って、木材を寸分の狂いもなく切り揃える。クセもなくとても扱い易い。刃が吸い込まれるような感覚で、トールは作業を終えた。
鋸の動き一つも勉強になるようで、男は感嘆を洩らしていた。
時刻は、とっくに昼を越えていた。トールはそこで作業の手を止め、昼食を取ることにした。どうせならと、男も誘ってみる。男は、
――いい仕事をするなら旨い飯を食わなくちゃいけない。
と、逆に店の案内を買って出てくれた。案内されたのは、港町らしい昔ながらの定食屋で、既に働き盛りの若者でいっぱいだった。僅かに空いていたカウンターに、二人は体を滑り込ませた。
作業している内は、集中していたので気づかなかったが、腰を落ち着けて料理の匂いを嗅ぐと、トールの空腹のサイレンは、けたたましく鳴り響いた。
メニューは様々あったが、男に直ぐ出来るモノは何か聞いた。
――大丈夫だ。
と、男は言う。
――俺のおすすめも早く出来て、何より最高に旨い。
トールは、男の言葉に信頼を預けた。店に漂う芳しい匂いに、間違いはないと確信してはいるが、思わず他の客の料理に目移りしてしまう。
新鮮な魚介の海鮮丼。開いたアマアジの干物。コウミダイの煮付け。駄目だ。自分の料理が来るまで、待てる気がしない。トールは動揺を隠しつつ、水をがぶ飲みして、必死で腹の虫を治めた。聞こえるのは、食器のすれ合う音と料理を咀嚼し放つ、旨いの一言。いよいよ我慢の限界という所で、トールの料理が運ばてきた。
「お待ちどう。群青鯖のフライだよ」
黄金色に揚がったそれは、これ以上ない程に掻き立てられたトールの食欲を、更に上から逆撫でた。薫り高い胡麻油の匂いにまず、重いボディブローを喰らわされる。ごくりと呑み込んだ唾でさえ、最高の舞台を飾る立役者のように思えた。空腹は、最高のスパイスだとはよく言った物だ。この時期の鯖は、脂がたっぷりのって、何もつけなくても味わい深いことだろう。
男はボソリと、
――ここの魚は今日水揚げされた物だけを扱っている。
と、補足した。
トールは居ても立ってもいられなくなって、箸を伸ばした。まずはなにもつけずに、フライを頬張った。サクッジュワー。サクサクの衣の下の、鯖の上質な魚の油と、肉汁が染み出る。一体どこにこんな旨味を蓄えているのだろうと思う程の、強烈な深み。繊維の一本一本が口の中で解ける。肉厚な鯖独特の歯触り、旨い。口全体に旨味を染み渡らせ、飲み込む。喉の奥を通り過ぎていく時に、勿体なさすら感じる程、この料理は風味絶佳だった。
一口目でこんなに堪能してしまって、これに更に味付けをしたらと思うと、トールは身震いをした。添え物のポテトサラダ、それとは別皿で盛ってあるタルタルソースを、フライにかけてみることにした。箸で掬ってねっとりするタルタルをフライに垂らす。フライの熱で芳しい卵の香りが立ち登った。即座に頬張る。マヨネーズの酸っぱさを、卵の柔らかい風味が優しく包んでいる。半生のたまねぎと、荒く挽かれた黒胡椒もいい感じだ。タルタルとフライが合いまった時の相乗効果に、一部の油断も許されない。カリカリの衣がしっとりとして、卵の風味が加わることで更に味をまろやかにした。
「旨いな……」
思わず感嘆がこぼれる。トールの一言で十を知った男は、ちょいちょいっと指をやって、トールの視線を促した。
――店オリジナルの中濃ソースを、タルタルに絡めてやると格段に旨いぞ。
男はそう告げる。そんなことはと思いつつ、内心トールは、目から鱗の落ちる思いだった。
味がついているソースに、更に上からソースをかける真似は、なんとなく料理人への後ろめたさがある。それに味の想像がつかなかった。一緒に食べたら、一体どうなってしまうのか。
トールはもうこの一皿に釘づけになっていた。
中濃ソースを手に取り、タルタルソースの上からフライにかけてみる。サラサラとドロドロの、ちょうど中間の粘度の、薫り高いスパイスを混ぜ合わせた黒いソース。黄色いタルタルと黄金色の衣を黒で彩る。齧り付く。心の奥で、どこか待ち焦がれていた濃厚な味わい。胡麻の香ばしさが最初に来た。タルタルとは違うオリジナルソースの、尖って舌に当たる甘みと酸味が、タルタルのマヨネーズのやわらかな油で丸くなる。スパイスとまろやかさ。相反するものがお互いを補い合い、持ち味を二倍三倍にも相乗させていた。咀嚼するたびに、複雑に絡み合うオリジナルソースと、タルタルソースとが、一体となって押し寄せる。塩味が鯖の旨味を最大限に活かし、昇っていくばかりの食欲を、更に掻き立てる。
思わず茶碗の白米をかきこんだ。白米の白、タルタルの黄、ソースの黒、衣の黄金。全てが絡み合い、絶妙な味のカルテットを奏でた。
気がつけば料理は、トールの腹の中に、スッポリと納まっていた。満腹感と満足感に満たされる。それもそうだ。鯖は一匹丸ごとフライにされていたし、飯も思わずお代わりしてしまった。
男は食後の煎茶を飲むと、午後からは別件の仕事があるからと言って行ってしまった。
――あんたは仕事を任せるに相応しい、いい仕事をする。また機会があったら今度は仕事の話をしながら酒でも呑みたいもんだ。
と、去り際に言い残して。
倉庫に戻ると、そこにはハキムがいた。なにやらしげしげとトロッコと材木を眺めている。ハキムはやって来たトールに気づくと、煌めく何かを放ってよこした。エメラルドだ。
「これは?」
「こいつを直す報酬だ」
「現物支給は困るんだが」
「金で渡すとなると、金額はそいつの半分になる。換金の手間はあるけど、稼ぎが落ちるよりずっといいだろ?」
ふむとエメラルドを眺める。
「こういうことはいつもやっているのか?」
「場合によりけりだな。大概こっちの方が喜ばれるがな。それよりそこにある端材はもう使わないのか?」
ハキムは、足で切り払った後の木材を指して言った。
「端材というより廃棄するものだな。壊れている箇所がまちまちだと、全部余すとこなく、とはいかないんだ」
「へぇ、そうか。作業はいつ終わる予定だ?」
「調整やら点検やらでまだ時間がかかる。今日はどこかに宿でも取って、明日の朝イチで始めて昼頃には終わる予定だ」
「そうか、じゃぁ俺が宿を手配しよう。三番街のケロッチってホテルだ。明日また様子を見に来るぜ」
そう言ってハキムは、ふらりと出て行った。
トールは首に掛けてある手拭を、頭に巻き直して作業を再開した。鑿や鉋を使って、接ぎ木の下準備をする。完成図を想像し、完璧に計算された寸法取りと、それに沿ってきっちり加工できる技術。この二つは木工には必須だ。
道具の手入れ、木の具合、その日の気温や湿度。様々な条件でその度ごとに、試行錯誤を繰り返す。数えきれない失敗もあったが、間違いを知る事もまた経験だった。そうして感覚を研ぎ澄まして磨き上げられた腕が、一番信頼できるパートナーになる。接ぎ木を嵌め込み、栓をしてやると、パズルのように精巧な仕上がりになった。その頃には陽はとっぷりと暮れていた。
――この明かりじゃもう仕事は出来ないな。
トールは、手早く片付けを済ませると、倉庫の外で待ちぼうけていたクナシャを連れて宿へ向かった。
海岸線をしばらく歩き見えてきたのは、ホテルとは言うものの、それは旅人向けの簡素なモーテルだった。期待はしていなかったが、昼飯の時のような、極上の気分とは程遠そうだった。道すがら買っておいた木の実と水をクナシャにやって、トールは夜の街に出た。
――何か旨いものでも食って気分を取り直そう。
しばらくぶらついていると、一軒の屋台を見つけた。出汁の香りがする。おでん屋だ。トールは、アツアツのおでんを肴に、一杯ひっかけることにした。
「いらっしゃい」
暖簾をくぐると、店主が赤ら顔で出迎えた。既に来ている客と、一献酌み交わしているようだ。
「熱燗を一つもらえますか? 料理は……そうだな、なにかお勧めを」
「はいよ」
提灯の柔らかな灯りが照らすカウンターに、腰を落ち着けて待つ。
「お兄さんこの辺にはよく来るのかい?」
店主が間を埋めるように、トールに話しかけた。
「いえ、港を利用したり、近くまで来ることはよくあるんですが、食事をしにはあまり立ち寄ったことがないんですよ。昼飯に仕事関係で知り合った方に、初めて定食屋を紹介されたんですが、あまりの美味しさにびっくりしました」
「そりゃぁ良かった。うちもこの辺では長くやらせては貰っているんで、味には自信がありますよ。そら、熱燗とおすすめ、お待ち」
店主はとっくりの水気を、布巾でくるりと拭いて、トールの前に置くと、続けておすすめのおでんを置いた。
出てきたのは、全部で四品。味の良く染みた飴色のペコロスと、分厚い厚揚げ。それに、身の大きさと味わいの深さで有名なマグラマガキと、小麦の皮で包んだシューマイだった。香気を纏った湯気が立ち上る。
トールは、割り箸に手を伸ばしかけたが、その前に熱燗をぐい飲みに注ぐ。それを店主に掲げて挨拶とした。店主も持っている焼酎を掲げて、それに返した。
酒を口に含む。キリリと辛味のある純米酒。好みの味だ。
酔う程に酒を飲むことは、ほとんどなくなったが、酒の味、持っている歴史、職人たちの心意気を感じることが好きだった。
アルコールが喉を通って、胃の中に熱く落ちる。体もほのかに温まり食欲が増した。
トールは、手に取った箸を割って、皿に伸ばした。まずはペコロス。三つあるうちの一つを、箸でつまみ上げる。一口で食べられるコロコロとした見た目が愛らしい。放り込む。出汁の風味がタマネギの甘みを、とても良く引き出していた。ホロホロになった層が口の中で解け、さっぱりとしていて、いくつでも食べられそうだ。次は迷ったが、インパクトの強いであろうマグラマガキにしてみた。余り煮すぎず、身はまだプリプリとしている。
「一気にガブッといっちまうのがベストだぜ」
横に座っていた客の一人が助言をくれた。トールはこくりと頷くと、一口に頬張った。噛んだ瞬間、口いっぱいに海の味が広がる。滋味たっぷりのエキスが、波のように押し寄せては返す。襞の心地いい感触が、歯に幸福の食感を生んだ。すかさず酒を含む。
カキと酒の華やかな香りが掛け合わさり、口いっぱいに広がった。旨い。人心地ついて厚揚げを挟み小休止。間違いのない大豆の味と思ったが、ここでもまた驚きが。
厚揚げは、内部が豆腐の状態を保つように、しっかりと揚げないことから、生揚げとも言われているが、これはそれの更に上をいっていた。揚げた熱で固くなるはずの豆腐が、柔く温くなっているものの、本当に生に近い状態だった。パサパサになりがちの厚揚げをどうやって。人を見かけで判断してはいけないことを、改めて思い知らされた。
最後にシューマイ。港町だから、中に使っているのは、豚肉ではあるまいと思った。割ってみると、中身はやや銀味がかった肉色。
――イワシのツミレか。
断面を眺めつつ口に入れる。薬味などで生臭さが消され、あっさりとしているのにコクのある魚の優しい味。小骨まで砕いて入っているので、より旨味を感じた。
「どうだい? うちの店の味は」
店主がニヤニヤとこちらを窺がっている。言わずともがなといった、したりを含んだ表情だ。
「言うことないです。来てよかった」
内心笑いがこみあげてくるほどだ。それを酒で濁し、トールは注文を続けた。
――ギコ。ギコギコ。ギコ。
鋸で木材を切る音がした。
「何をやっている」
「なんだ、早いじゃねぇか」
まだ夜も明けていない時刻。
トールは、ハキムの眼に宿っていた怪しげな光の正体を知るために、伝えていた時刻よりもずっと早くに倉庫にやってきた。そこには端材を手頃な長さに切り揃えているハキムがいた。
「もう一度言う、あんたは俺の仕事場で何をやっている」
「見りゃ分かるだろ。トロッコの底に隠しポケットを作ってんだ。上手いもんだろう」
あろうことかハキムは、昨日トールがきっちり寸法を測り、丹精を込めて仕上げていたトロッコに刃を入れていた。
「ニ日も発掘に行けなかったんだ、これくらいのことはしないとな」
ハキムは、発掘したエメラルドを掠め取るために、自分の利益のためだけに、さも当然の様に人の仕事に手を加えていた。悪びれている様子もない。
「なぁ、お前にはあとで分け前をくれてやるから、見逃しちゃくれないか? こいつがあればたんまり稼げるぞ」
「そんな泡銭、稼いでどうする」
「パーッとやるに決まっているだろ、宝石堀なんてのは、皆一発当てたいと思っている奴らばかりなんだからな」
「その先は? また悪知恵を働かせて金を掠め取るのか?」
「それの何が悪い」
「仕事というのは信用と信頼だ。確かな仕事をして、それに見合った報酬をもらう。そこに、職人としての自覚と誇りが生まれる。お前のやっていることは、そのどれもを踏みにじる最低な行為だ」
「汗水たらして働くのがそんなに正しいかよ。なにが自覚だ、なにが誇りだ。そんなの楽に儲ける知恵の無い奴等の泣き言じゃねぇか。皆が皆、仕事に生きがいを持っているとでも思ってるのか?」
ハキムは吐き捨てるように言った。
「少なくとも、男が誰かに任されたことくらい満足に出来なくてどうすると言っているんだ。道具屋がエメラルドの鑑別が出来ないとでも思っていたか? 昨日渡された純度のずっと低いエメラルドに、今回の支出と報酬はつり合わない。親方から渡されている金も、お前はくすねているんだろ? どうせ騙すならもっと上手くやるんだな」
「……てめえ、痛い目みたいのか?」
ハキムは、鋸の刃をチラつかせるように構えた。トールは、ポケットに入れていた両手を出してユラリと構えた。一触即発の緊迫した空気が流れる。ハキムが動いた。
だが、ハキムの鋸がトールを痛めつけることはなかった。代わりにハキムの顔には、怒りの鉄拳がめり込むことになった。
その拳の持ち主は、鉱夫の親方だった。
「ハキム! てめえは人の風上にも置けねえ!」
トールは、エメラルドを渡された時からハキムを怪しみ、親方に今日来てもらうように連絡しておいたのだった。
「お、親方」
「その腐った性根を叩き直してやる。これからはお前がひたむきになるまで、朝も夜もなく俺がお前を働かせる。逃げられると思うなよ、覚悟しておけ」
「そ、そんな」
ハキムの胸ぐらを掴んだ親方は、声にドスを効かせて脅かした。悪事の一部始終が暴かれたハキムは、観念したように肩をガクッと落とした。
「道具屋、すまなかったな。金はここにあるだけ好きに使ってくれ。すぐに代わりの奴も寄越す。お前の仕事にケチをつけちまったが最後までやってくれるか」
親方は金の入った袋をトールに手渡した。
「荒っぽいのは苦手です。しかし始めたことを途中で投げ出せる性格でもないです」
「そうか、助かるよ。おい、ハキム! まずは楽しい楽しい岩石運びだ、行くぞ!」
親方は、ハキムの首根っこを掴んで連れて行った。
トールは緊張した体をほぐすと、気を取り直して残りの仕事にとりかかった。
日が昇るころにはトロッコは完成していた。自画自賛ではあるが、見事な仕上がりに、トールは確かに頷いた。その頃にはハキムの代わりの男が、トロッコを降ろしてくれた男たちを連れてやってきていた。
定食屋を紹介してくれた男もいる。
――いい仕事をする。
皆、トロッコの出来栄えに感嘆を洩らした。そしてそれを高々と肩に担ぎ上げると、意気揚々と、男たちはトロッコを運んで行った。
それを見送ったトールは、一服して旨そうに煙草を吹かした。
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