癲狂

那月

癲狂

 傘をさした女が歩いていた。


 嫋やかな足運びで視界を横切る彼女の、主張の控えめな芳香が残留する軌跡を、僕は思わず目で追いかけた。よく梳かれた緑の黒髪が流麗に棚引いている。ちらりと垣間見えただけの白皙の横顔でさえ、息を詰まらせるほど秀麗だった。

 そんな滅多にお目にかかれない傾城傾国の美女だというのに、僕が骨抜きになった阿保面ではなく胡乱そうな眼差しで背中を一瞥するのは、現状――近日中に関してはこれまでも、そしてこれからもという予報だった――頭上から降り注ぐ雨水など、ただの一滴も存在しないからだ。では日傘だろうというと、そういうわけでもない。何しろ今は、深遠な夜の帳に包まれた半宵なのだ。

 全くもって奇異な女だった。何故不要な雨具を展開しながら、夜霧の立ち込める路地裏を闊歩しているのか。純白のワンピースを纏っていたが、そんな恰好ではならず者に目をつけられること請け合いだろうに。それとも、自ら望んでそんな暴力的な汚辱を受けるような、脳みそのぶっ飛んだ女なのだろうか。いろんな奴がいるもんだ。

 僕はオッズコートに肩をうずめると、しばし滞らせていた歩を進め始める。あんな精神異常者に気を取られている暇は残っていなかった。月光を暗雲が遮断し、配管が蔦のように壁面に絡みついた、投棄され錆びついたビル群の隙間を足早に抜けていく。饐えた臭気、ぶちまけられた残飯、それに群がる蟲と野良犬。たまに喰われているのが人間の死骸だったりするから、この無法地帯は性質が悪い。

 やがて、一際巨大な廃工場に辿り着いた。これも例外なく風化した惨めな外観をさらしている。赤錆にまみれた鉄扉を押し開け、仄暗い作業場に入っていく。崩落した屋根の瓦礫が至る所に小山を成しており、そのうちの一つに光源として石油ストーブが置かれ、集団が屯していた。

「おい」出来るだけ気さくな口調を心がけ、「時間ぎりぎりですまない、取引を始めようか」

 片手を挙げて歩み寄っていくと、十人余りの男たちがこちらを見遣った。何れも無精ひげと黴の繁茂する不潔極まりない顔面を気後れもせずに晒し、似たり寄ったりの鼠色の襤褸雑巾めいたフードパーカーを羽織っている。

「遅い、遅いよなぁ、ええ? 若造風情が」肥満体を小刻みに震わせながら、一人の男が近づいてくる。浮浪者集団の首魁で、かつては敏腕機関投資家だった初老の男だ。「次こんな醜態晒したらどうなるかわかってんの?」

「あ、ああ、すまない。交通機関が遅延したものだから。兎に角、約束のブツを」

 そう返答しながら――ああ、またダメだ、そう自分を詰る。最初に弱腰に出たからだ、向こうは完全に強気で出てくるようになってしまった。底なしの泥沼に嵌まってしまったからには、自力で抜け出すのは諦めるべきなのかもしれなかった。

 全く、情けない人間になってしまったものだ。

「今日のは、」無理くり唾液を嚥下する。「CDIの含有量を2.3グラム上増しした僕のと、南部の非政府地帯から取り寄せたハイ系の合成薬物カクテル、で。気に入ったら――」

「ちゃんと十三人分あるか?」

「あ、ある。予備で、もう一人」

「ふぅん……じゃあ、こいつに吸わせようかね。キメながらってのも一興だしな」

 そう呟いたメタボリックシンドロームの男の視線の先を辿ると、残る数人の男が、何かを取り巻いていた。やがて暗順応によってそれのディテールが明瞭になると、僕は嘆息を漏らさざるを得なかった。

 ほら、やっぱりな。

 憐憫の情すら湧かないほどに馬鹿な奴だ。先ほどの傘女が、そこに惨めに蹲っていた。こんな腐敗した場所とはあまりに不釣り合いな、可憐な姿が土埃にまみれている。

「そいつ―――」

「ああ、さっきその辺を歩いてた上玉でさ」男たちの首魁は、怖気の走るほど下卑た笑いを浮かべて双肩を揺らした。「今日はこいつをマワそうと思ってんだが、事が済んだらお前にくれてやるよ。息の根があるかは知らねえがな」

「い、いや、僕は―――」

 すっかり縮み上がった僕は首を横に振りつつ、彼女から視線を外すことができなかった。股座に一本の閉じた傘を挟んでいるからやはり人違いではない。華奢な四肢を投げ出し、その陶器めいた白肌を露わにしている。まだ手を出されてはいないようだが、乱れ、あちこちが解れた服装は、どうしようもなく哀れだった。煤けた額も蒼白で、ぼさぼさの頭髪が汗で頬にひっついて、俯いて影の落ちているその端正な顔立ちは―――

 静かに。

 嗤っていた。

「―――お前」

 その儚くもわずかに幻想じみたニヒリスティックな光景に、僕は、ただ、そう声をかけた。

「なにが愉しいんだ」

 周囲の騒音は、もはや完璧に遮断されていた。恐らくは百貫デブが、呂律の回らない舌で喚き散らしているのだろう。それは取るに足らない環境音のように耳から耳へと抜け去り、固唾を飲むごくりという音が、頭蓋骨に反響した。

 ただ、その僕の問いに、徐に持ち上げた彼女の凄絶なまでの美貌が、美しい弧をその朱の引かれた唇に描いているのを見たとき、

「だって」

 そこから、か細い声だけが、聞こえた。

「君らみんナシヌモノ」


 やがて、宵闇を切り裂くように、眩い蒼月が雲の谷間から無貌を覗かせた。



      ◇



 今宵は満月。

 私は柄にもなく浮足立っている。

 私の裡に秘められた獣性が、軛を解かれる瞬間をうずうずと待ち詫びていた。

 最高の狩り日和だ。

 狩場は、警察機構にさえ見捨てられた都市の暗部。不浄な社会不適合者どもの跋扈する堕落した異世界だ。その性質上、蛮行を見咎めるものは誰もいない。

 この身体は好餌だ。無防備な若い女が散歩に興じているだけで、食いつきが良すぎるほど群がってくる浮浪者どもは、それ自体がシンプルな罠であることに気付けない。

 今日は、小規模の集団が一度に網にかかった。

 私は小躍りしたいほど喜んだ。久々の捕食には、好適すぎる大漁だ。だが、数人単位をちまちまと手にかけるよりリスクは高い。たった一人でも逃すわけにはいかないから、手早く同時に始末しなくてはならないのだ。

 腐臭を放つ垢にまみれた彼らの肉体は、しかし、胃に収めてしまえば何の問題もない。特に、残忍な狩人と化した私には、そんな些末な不快感を忌避するほどの理性は欠片も残っていない。あらかた惨殺した後で、ありったけ頬張ればいい。被服など剥く必要もない。血の渇望さえ満たされれば、満足なのだから。お腹を壊すことはないし、もとの身体に影響が出ることもない。

 そう、私の二面性は次元を跨ぎ、人と人ならざる者の間を行き来する。月光の湯浴みが理性と知性を剥奪し、肉体を瞬く間に変質させるのだ。か弱いうら若き生娘から、銀灰の体毛を纏った餓狼へと。


 人は私のことを、人狼と呼ぶ。


 この異能は生来の呪縛、血筋ゆえに確率論的に発現する忌み子の背負わされる罰だ。そうして我が物顔で私の二重存在として居座り続ける不躾な獣は、恐らくは生涯ずっと、私と同体であり続ける。

 それでも嫌ではなかった。寧ろ、歓迎すべきなのだろう。

 少なくとも私は、この一見不幸に思われる不条理な境遇を、充実感と共に謳歌しているのだから。

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癲狂 那月 @na2key61

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