紙とペンと熱き魂さえあればおまえを殺せる

かぎろ

深夜の死闘

 神経を逆撫でする、嫌な、音がした。


 啓一が自分の部屋の電気を消し、布団に入ったのがつい数分前。熱帯夜の中、軽めのタオルケットをかけている。部活と宿題も終わり、ようやく疲れを癒せると思っていた矢先のことであった。


 耳元を、蚊が飛んでいる。


 仕方なくタオルケットを頭までかぶったが、それでも羽音がうるさい。あえて耳の近くを飛んで嫌がらせしているのではないかとすら思えるほどだ。


 それでもしばらく経ちさえすればどこかへ行くだろう。いまは我慢の時だ。


 そうして、しばらく経った。


 二匹くらいに増えていた。


「ッ……!」


 啓一は起き上がる。部屋の電気をつけ直した。一番近い場所にあった紙束と、太いフェルトペンを持つ。ペンを軸にして紙を巻き付け、三十センチほどの筒をつくった。


 目を凝らす。

 耳を澄ます。


 神経を集中させ、次の瞬間、啓一は筒を振り抜き――――蚊の一匹目を仕留めていた。


(……ッ!? バカナ! オレノ 仲間ガ イトモ容易ク!)


 そんな蚊の鳴くような声が聞こえる気がした。舐めてもらっちゃ困る。こちとら、このボロ家に住み続けて十七年。夏ともなれば蚊とのバトルなど日常茶飯事だ。悪いが、二匹目のおまえもさっさと始末し――――、


 …………ッ!?


 首に感じた違和感に、素早く筒を叩きこむ。すかさず確認するが、蚊の死骸は見当たらない。それどころか、うなじのあたりに刺されたような感触がある。


 啓一は呆然とする。

 吸われた、のか?

 この俺が……蚊相手なら百戦錬磨の、この俺が。

 嫌がらせをしてくるクソ蚊ス如きに、後れを取ったと……?


(カカカッ! 成長シテイルノハ オマエダケデハ ナカッタヨウダナァ?)

「…………」

(連綿ト 受ケ継ガレテキタ 血吸イノ 極意! ソレヲ発揮シテ コノママ 血ヲ 十分ニ吸ッテ 悠々ト 帰ッテヤルゼ! オマエハ 寝ラレン ダロウガナァ!)


 ……なるほどな。

 啓一は顔を引き締める。

 いいだろう。

 どうやら、俺にも油断があったらしい。


 息を大きく吸い込み、息吹を吐いて気合を入れる。ここからは寸分の緩みも許さない。油断は死。そう自らに言い聞かせ、目を、ギンと開く。


 来いよ、蚊。

 全力でおまえを――――殺す。


(ヤレルモンナラ ヤッテミロォ!)


 蚊は愚直にも一直線に、新鮮な血のある腕へと飛び――――





   絶影流殺虫術 奥義ノ壱

     〝雷神一閃〟





 ――――手応えは、あった。

 迅雷の如き速さで虫を殺す、絶影流の奥義。

 バシャッと血が飛び散り、壁をわずかに汚す。確認するまでもないが、念のため筒を見た。二匹目は無残に潰れ、死んでいる。


「連綿と受け継がれてきた、か」


 啓一は呟く。


「それは……

(成ル程。ドウヤラ、一筋縄デハ イカナイヨウダ)


 ッッ!?!?


 啓一は素早く振り返り筒を構える。一匹目も、二匹目も、確実に殺したはず。ならばこの声は、三匹目。

 まだいやがったのか……!


(先程ハ、我ノ仲間ガ失礼シタ。トハイエ、生キル為ダ。我ニモ貴方ノ血ヲ吸ワセテモライタイ)

「はっ。てめえらにやる血なんざ一滴もねえよ。失せな」

(フム……。ナラバ、仕方ナイ)


 唸るような声を皮切りに、ギリギリ追えていた蚊の姿が遂に視界から消えた。


(実力行使ト行コウ)


 壮絶な違和感が、全身に現れ始めた。

 痒い。体の至るところが痒い。これは、まさか。この感覚はまさか!


「超高速移動しながら! 超高速で血を吸っているのかッ!」


 真夏ゆえの軽装が仇となっていた。半袖半パンといういでたちは、血吸いする側にとってカモに等しい。そしてこの熟練の技。本気を出した啓一ですらも、目で追うことさえ困難だ。


「くッ……このままではッ! 全身が痒くなってしまうッ……!」

(コレハ伝聞ナノダガ――――)


 啓一は暴れるように体を動かし、筒を振り回す。当たらない。かすりもしない。


(十六世紀ニオケル人間社会デハ、貴族ガ奴隷カラ血ヲ抜イテ、苦シム反応ヲ楽シムトイウ、残虐ナ遊ビガアッタソウダナ?)


 床に転がり、のたうち回って蚊を追い払おうともした。無駄だった。蚊は的確な位置を精確に捉え、攻撃を重ねてくる。


(コノ状況ハ、マサニ、ソノ遊ビノヨウダナ。モチロン、奴隷ハ、貴様ダ)

「少し……黙ってろ……!」

(オヤ? モウ諦メタノカ? 動キガ止マッテイルゾ?)


 啓一は肩で息をしながら、部屋を見回す。依然、啓一の目は奴を捕捉できていない。


(サテ、ソロソロ帰ラセテモラオウ。新鮮ナ血ヲ、感謝スル)

「……この、俺が……」

(悔シイカ? ダガ、コレガ現実ダ。受ケ入レロ)

「この俺が……わざわざてめえに大量の血を吸わせてやった理由がわかるか?」

(……ナニ?)


 啓一は、ニヤリと頬を歪ませる。


「血の重みで動きを鈍らせる為だよ」





   絶影流殺虫術 奥義ノ参!

   〝風神顕現・暴風あからしまかぜ〟ッ!





(……何ダ!? コノ風……グオオッ!)


 裂帛の気合で振り下ろした筒が爆風を起こし、蚊を吹き飛ばした。ついでに部屋に置いてある小物類も倒れたり割れたりしたが仕方がない。蚊を仕留めるには、これしかなかった。

 この暴風の後は、体勢を立て直すために必ず動きが鈍る。

 奴を見つける絶好のチャンス。


 しかして啓一の目は、よろめいて飛ぶ蚊をロックオンした。


「そこだァッ!」


 跳躍し、筒を横に薙ぐ。それだけでも奥義に匹敵するはやさ。

 ったッ!

 そう確信した瞬間――――姿


(フゥ……危ナイトコロダッタ)


 そして羽音は未だ健在。

 付近の壁には、新しい血痕がある。

 まさかこいつ……!


「血をあえて噴き出し、推進力に変えたのか……ッ!」

(血ヲ大量ニ吸ッタ際ノ対処法ヲ、考エテイナイトデモ思ッタノカ?)


 蚊は素早く飛び、窓の隙間に向かっていく。

 このまま去るつもりだった。

 まだ蚊の腹に血は残っている。今夜の分はこれで事足りるだろう。念の為啓一の姿を確認するが、万策尽きたことに絶望したのか、放心状態であった。


 今日の勝者は、蚊。

 啓一は敗北し、俯いて――――


「絶影流殺虫術」


 ぼそり、と声が聞こえる。


「奥義ノ零〝夢幻回廊死屍迷々むげんかいろうししめいめい〟」


 蚊の目の前が、歪んだ。


(ッッ!?!? 何ダ!? コレハ……!?)


 空間がぐにゃりと曲がる。輪郭すらも滲んでいく。感覚もおかしくなり、上下も左右も、ここがどこかもわからない。


(何ヲ、シタ……)


 蚊が叫ぶ。


(貴様! 何ヲシタァッ!)

「何かしたのは、てめえだろ」


 啓一はニヤリと笑う。


。それがてめえの敗因だ。俺の血液には、

(ナ……何ダト……!)

「もう俺がどこにいるかすらわからねえだろ。ここで、終わらせる」


 蚊に飛びかかる啓一。

 その時だった。

 蚊が吐いた血が、偶然、啓一の右目に飛び込んだ。


「ぐッ!?」


 それは全くの偶然であった。啓一の右目が塞がれ、片目になったことにより遠近感が掴めなくなる。討ち損じるかもしれない。一方の蚊は、血を全て吐いたことにより幻覚状態から回復していた。全力を振り絞れば、まだ逃走の隙はある。


 しかし蚊は、逃げようという気がなくなっていた。

 そこにあるのは闘志。

 あるいは、敬意であった。

 ここまで一進一退の攻防を繰り返してきた好敵手に対する絆にも似た繋がり。

 蚊は、最後まで、本気で相手をしようと思った。


 そのためには、悪辣な攻撃をすることも厭わない。

 例えば――――目を針で突き刺したら、ヒトはどうなるだろうか?


(目潰シダッ! 何モ見エナイ暗黒ノ世界ニ沈ムガイイッ!)


 果敢にもこちらへ突き進んでくる蚊。その極細の針が猛然と向かい――――そして。


「ぐああッ!」


 超高速で飛ぶ蚊の針が、啓一の左目を抉る。視界が暗転して――――




     ◇◇◇




 かつて啓一は、臆病者の落ちこぼれであった。身体も弱く、絶影流の正統な後継者としては不適格といわざるを得なかった。父親が開いている道場の門下生からは弱虫扱いを受け、孤立。ひとりで鍛錬し、寂しく勉強するしかなかった。だが、それがむしろ、彼の成長を促した。不真面目な門下生といるよりは、ひとりで自分を磨いた方が強くなることができたのだ。


 孤独ではなく、孤高。

 それでいい、と言い聞かせ、啓一は道場で最強になった。


 しかし――――


 ある日、啓一は師である父と拳を打ち合っていた。本気で来い、という父に対し、その通りにした。結果、父は怪我で入院。この一件で母には泣かれ、門下生からは恐れられた。

 強くなったのに誰からも祝福されない。

 寂しかった。

 啓一は元々落ちこぼれだ。ずっと孤高でいられるほどには、心は強くなかった。拒絶されるのではないかという恐怖に縛られ、未だに父親のお見舞いに行けていない。そして怖いのはそれだけではない。強くなることに対しての、後ろめたさにも似た怖れがあった。


 だが。


 こうして、最強クラスの蚊と戦ってみて、思う。


 楽しい。


 もっと強くなりたい。


 確かに強くなればなるほど理解者は減っていくのかもしれない。けれど、頂を目指す道程でこんなにも美しい景色が見られるのなら。


 ――――ッ!


 啓一は、目を見開く。

 暗転した視界に、光が差す――――




     ◇◇◇




 蚊は一度は眼球に針を突き立てたものの、瞼に邪魔され、ひとまず離れていた。右目は血で、左目は針で。目潰しが効いている今はいくらでも血を吸えるだろう。蚊は鮮血を求めて飛翔する。その刹那。


「紙とペンと、熱き魂さえあれば」


 啓一が、呟いた。


「おまえを殺せる」





   絶影流殺虫術 幻想奥義

       〝流転〟





 一閃。

 それは絶影流に秘された幻の奥義。

 蚊の意識が遠のいていく。

 朧気になる視界の中で、両目を開けた啓一の姿を見た。


(ソウカ……痛ミヲ怖レナケレバ……目ハ開ケル……)

「ありがとう、蚊。あんたがいたから、もう俺は、怖れない」


 そして。

 啓一の追い討ちが、蚊にとどめを刺したのであった。








「…………」


 ようやく静かになった部屋を見渡す。とりあえず、風の奥義の時に倒れたものを直さねば。せっせと動いていると、家族写真が目に入った。

 穏やかな笑顔を浮かべる、父の顔。


「……お見舞い、行くか」


 啓一は微笑む。

 虫の声響く、夜だった。

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