第12話 夢の応援団長


 僕と彼女は、真新しい建物の前で立ち止まり、空を仰いだ。

「すごい、綺麗」彼女は目を瞬かせた。

「本当だ…すごいね」僕も驚いた。

 僕は彼女の手を引き、中へと入った。

 中へ入り受付に向かおうとした。が、何か寂しい。


 何だ、この違和感は。手から温もりが消えたー


「あれ?心愛ちゃん?」

 彼女が、いない。さっきまで隣にいたはずなのに。どこへ行った?

「あ…いた」

 彼女は、この美術館の入り口付近の右奥にある、

 こじんまりとしたカフェを興味深そうにきょろきょろと

 周りを見渡しながら歩いていた。

「…全く、もう。世話が焼ける…」

 子供じゃないんだから…。目を離すと、いつもこれだ。

 子供のように、無邪気に歩き回る。

 そこも彼女の魅力だけど、何も言わずに勝手にいなくなるので心配になる。

 お願いだから、心臓に悪いことはしないでくれよ。

 でも、そういうところも好きだから、世話が焼けるといっても、嫌ではないんだけど。


「こーこーあーちゃーん」

 僕は、カフェの中央に立ってカフェ全体を見渡す彼女のもとへ走った。

「あっ、ひろくん!」彼女は僕に笑顔を向けた。

「こーら、すぐにいなくならない」僕は彼女の頭をぽんぽんと撫でた。

「ごめん。でもね~」

「カフェに行きたかったら、後で行くから。とりあえず受付」

「あっ、そうだった。すっかり忘れてた」

「ほら、行くよ」

「うん…!」

 僕は彼女の手をしっかりと握り、受付カウンターへ歩き出した。


「大人二人で」

「はい、かしこまりました」受付嬢がにこりと微笑む。

 とても綺麗な女だな、と思っていると、彼女が急に僕の手を放し、走り出した。

「えっ…!?心愛ちゃん…?」彼女の姿は、既になかった。

「全く、手のかかる…。僕から手を放すなと、何度言ったらわかるんだ…」

 僕は独り言を呟いた。

「良いですね、仲がよろしいようで」受付嬢が僕に言った。

「ええ、はい、まあ…」僕は頭を掻いた。

「ごゆっくりどうぞ」受付嬢は、笑顔で僕を見送った。


 僕は、彼女を探した。彼女は、すぐに見つかった。彼女は、カフェにいた。

 大きなガラス窓の近くで遠くを見つめる彼女は、

 心なしか悲しい目をしているように見えた。

 僕は彼女に駆け寄り、静かに後ろから抱き締めた。

「こーこーあちゃん」

 返事がない。僕は、彼女の顔を覗き込んだ。

「ねえ、心愛ちゃん」

「なに?」

「だめだろ?勝手に僕から離れちゃ」

「いいでしょ、別に」

「なに拗ねてるんだよ」

「拗ねてないもん」

「拗ねてる」

「拗ねてないってば!」

 彼女の透き通った声がカフェに響いた。

「なんだよ、可愛くないな」

 彼女は、明らかに傷ついた顔をした。

「私は他の女みたく可愛くないもん。そういうの求められても困る」

「そんなことないよ。心愛ちゃんは、可愛い。」

「そんなことあるもん。可愛くなんかない。」

「心愛ちゃん」

「あの受付の人、すごく綺麗だったもんね。

 それに私、妹にしか見えないくらい、色気ないし。

 大人に見られなさすぎて悲しくなってくる」彼女は静かに溜息をついた。

「やっぱり私、大人になれてないんだなあ…」

 彼女は俯いた。彼女にだんだんと深く黒い影が、すーっと伸びていく。

 受付をしたとき受付嬢が発した言葉が、不本意ながら彼女の心を不安定にした。



「可愛い妹さんですね」


 僕と彼女は、目を丸くした。

 彼女はあどけない顔をしているから、妹と間違えられても仕方がない。

 僕は何も気にならなかったが、彼女は多少のショックを受けていたようだ。

「妹じゃなくて、彼女なんです、僕の」

「えっ…ああ!そうだったんですね。失礼致しました…」

 受付嬢は申し訳なさそうに深く頭を下げて言った。

「…」彼女は俯き、黙っていた。

 それからというもの、彼女は機嫌が悪い。

「心愛ちゃん、こっち見てみようよ」

 僕が彼女の手を引っ張り歩こうとしても、

 彼女はその場から一歩も動こうとはしない。

「心愛ちゃん、行こう」

 僕に無言で抵抗する彼女。

「ほら、行くよ」返事はない。

 しかし先へ進まなければ、時間はあっという間に過ぎていく。

 渋々、彼女は僕についてきた。


 僕は彼女と、展示スペースへと足を踏み入れた。

 そこにあったのは、蝶の標本―ではなく、

 大きな額縁に収められた大小さまざまな蝶の絵画だった。

「わあ…!すごい…!」

 彼女は目を輝かせながら、食い入るように絵画を見つめていた。

 さっきまであんなに不機嫌だったのに、

 今はこんなにきらきらした目で絵画を見つめている彼女は、見ていて飽きない。

 ―要するに、無邪気。

 そこがまた、好きなんだ。彼女の無邪気なところが、好きだ。

 そんな彼女に、いつも僕は振り回されている気がする。けれど、それもまた良し。


「すごい…どうなってるんだろう」

 彼女は絵画に近付けるまで近づいて、いろんな角度から絵画を見ていた。

「随分、熱心に見てるね」僕は関心したように言った。

「そんなことないよ?普通」

 普通はこんなに見ないと思うけどな。

 すごいな、とは思っても、ただそう思うだけで、普通はすぐに通り過ぎてしまう。

 しかし彼女は違う。彼女は、蝶の絵画に釘付けになっていた。

 蝶を含め彼女は虫が大嫌いなのに、蝶の絵画をじっくり眺める彼女。

 彼女をこれほどまでに魅了するこの画家の力は、やはりすごい。

「芸術とか、美術に興味あるの?」

 これほど見入っているということは、きっと芸術や美術に興味があるに違いない。

「ううん、ないよ」

「えっ、ないの?」

「うん」彼女は頷いた。

「あっ、詳しくもないよ」彼女は付け加えるようにして言った。

 そうなのか。熱心に見入っているから、てっきり興味があるものとばかり思っていた。

 それにしては、熱の入りようが違う。

「いや、すごく熱心に見てるからさ。興味があるのかと思って」

 僕も、芸術や美術に関しては無知で、興味はないに等しい。

「興味もないし詳しくもないけど、すごく綺麗なものを見るのが好きなの。

 それにね、いろんなものを見たり聞いたり、

 いろんなところに言ったりすることが、大切だと思うの。

 いろんなことも学べるし、知らなかったことも発見できて、楽しいでしょ?」

 ふふ、と彼女は笑った。

 確かに、その通りだと思った。


 ただー彼女のこの笑顔を見れるなら、何度美術館へ行ったっていい。

 僕の興味の有無は関係ない。彼女の喜ぶ顔が見れれば、それで十分だ。


「ひろくんは?」

「ん?何が?」

「だって…ひろくんは興味あるんでしょ?芸術とか」

「ん?ないよ」

「えっ、ないの?」彼女は目を瞬かせて不思議そうに僕を見た。

「うん」

「えっ、だって…」

 彼女は、少し混乱しているようだ。

「ひろくんが言ったんじゃない、美術館に行こうって。

 だからてっきり、ひろくん絵画に興味があるものとばかり…」

 彼女は目を丸くして僕を見ていた。

「心愛ちゃんに、喜んでほしかったから。だから美術館にした」

「ひろくん…」

「それに、ずっとこの美術館に行きたいって言ってたじゃないか」

「よく覚えてたね、そんなこと」

「まあね」僕が自信満々に言うと、彼女はまたしても、ふふふと笑った。

「何だよ」

「ううん、なんでもない。ありがとう、ひろくん」

 彼女は僕の手を少し強く握った。


「でも、興味もないのに美術館に…」

「心愛ちゃんと一緒だから楽しいんだよ」

「本当?つまらなくない?」

「つまらなくないよ。寧ろ、楽しい」

「ありがとう、ひろくん。ひろくんって、すごく優しい。

 私、幸せだなあ、こんな素敵な人と…」

「ありがとう、心愛ちゃん」

 僕は、彼女をふわりと抱き締めた。彼女は、僕の腕の中で微笑んでいた。

 それがまた、美しい。


「すごいよね、この絵」

 彼女は絵画を見上げ、感心したように言った。

「そうだね、すごいよね」

 僕は彼女と、目の前にある大きな額縁の蝶を見て言った。

「絵とは思えないよ。すごい」

 彼女は頷いた。

「こんな絵を描ける人がいるんだって、驚いてる、私」

「僕もだよ」

「こんな絵を描ける人ってすごいなって。誰もが釘付けになる絵を描けるだなんて」

「普通じゃ、こんなすごいもの描けないよな」

「そうだよね。この才能って、どこから降ってくるんだろう。」

 降ってくる才能、か。彼女らしい言葉だ。

 彼女の言葉は重みがあるというか作家のような言い回しでものを言う。

 実際、彼女の文章を読んでみても、本当に作家のような言い回しが

 上手く文章のあちこちに散りばめられていて、引きつけられるものがある。

 一文一文読んでいくたびに鮮明に再生されていく映画のスクリーン。


 センスは、確実にある。

 彼女には、本当にセンスがあるんだ。もっともっと自信を持っていいのに。

「あるよ、才能」

「えっ?ひろくん?」

「心愛ちゃんには、才能あるよ」

「ないよ、才能だなんて」

「ある」

「ない」

「ある。僕が言うんだから間違いない」

「そうかなあ…」

「そうだよ。自信持っていいんだよ」

「自信なんて持てないよ。第一、自信なんてそんな簡単につくものじゃない」

 彼女はきっぱりと言った。

 なんて自分に厳しいんだろう。

「なーんて偉そうなこと言ってるけど、ただ自信が持てないだけなの」

 彼女は寂しそうに笑った。


「僕が心愛ちゃんのファン第一号」

「ひろくん…?」

「そして、心愛ちゃんの本の愛読者第一号」

「ひろくん…!」

 彼女の潤んだ瞳を見て、僕は続けた。

「僕は心愛ちゃんの夢の応援団長」

「んんっ…かっこいい。私の夢の応援団長…っ!」

 彼女は僕の胸に飛び込んだ。大きな額縁の蝶の前で。

「やっぱりひろくん、才能あるよ。作家の」

「ないよ」

「あるよ…!だって、センスある」

「夢の応援団長って言葉に反応した?」

「うん」

「心愛ちゃんの方がセンスあるの」

「そうかな~」

「そうだよ」

 なかなか納得しない彼女を見て、僕は言った。


「人生、何が起こるかわからないねえ」

 彼女が突然そんなことを言い出すので、どうしたのだろうと僕は心配になった。

「どうしたの、急に」

「何かの、巡り合わせかなあって思って。不思議な縁を感じるの」

「巡り合わせ…不思議な縁…」

 僕は、彼女が口にした言葉を繰り返した。

 この言葉は、僕と彼女の運命の出会いを言い換えたものだろうと思っていたが、

 彼女はどうやら、違う意味で言ったらしい。

「行きたいと思っていたところへ行けるって、巡り合わせとしか言いようがないよね」


 ―僕の考えていることと彼女の考えていることが、ずれている。


「どうしたの、ひろくん」

「何でもないよ」

「嘘。むっとしてる」

「してない」

「してる…」彼女は俯いた。

「巡り合わせって、不思議な縁って、僕とのことかと思ってたのに」

「あ…!それもあるけど」

「もういいよ」僕は拗ねた。素直じゃないな。

「拗ねないでよ」

「拗ねてないよ」

「も~」彼女は困っていた。

「私、ひろくんと出逢えてよかったって思ってるよ。

 巡り合わせという言葉よりも、運命の出逢いって言葉が似合うと思うの。

 ひろくんと一緒にいると、とっても幸せ。

 ひろくんみたいな素敵な人と、

 こんなにゆっくりで幸福な時間を過ごせるなんて

 夢みたいって、いつも思ってるもの」

「…」

「本当だよ?本当に私、そう思ってー」

 僕は彼女をきつく抱き締めた。

「んんっ、ひろくん、苦しい、苦しいってば」

 そういう彼女は、笑顔だった。

「あ、そうだ」

「ん?なに?」彼女は首を傾げた。

「この絵画、どうやって表現する?心愛ちゃんなら」

「うーん、そうだねえ」


 彼女はどうやって表現するのだろう。

「変な出だしかもしれないけど、いい?」

「…変な出だしなんかじゃないよ、どうぞ」

「うん、わかった。」

 彼女は深呼吸して言った。


『ずっと行きたいと思っていた美術館の中へ最愛の彼と入る。

 展示スペースへ向かうと、まず目に飛び込んできたのは、大きな額縁だった。

 その額縁の中には大きな蝶が描かれていた。

 まるで生きているかのような躍動力、生命力を肌で感じた。鳥肌が立った。

 額縁を外せば今にも飛び出してきそうな蝶の生命力。

 目の前にあるのは紛れもなく蝶の絵画。

 しかし、標本かと見紛うほどに息を呑む素晴らしい作品だった。

 蝶の絵画は大きいものから小さいものまで様々で、

 蝶の模様も繊細かつ鮮やかな色使いに一瞬にして目を奪われた。

 本物の蝶にしか見えないその表現力は、彼にしか出せないものだと思った。

 あの鮮やかな色合いをどのように出しているのかと、

 思わず考え込んでしまった。』



「…終わった?」

「うん、終わったよ。ごめんね、長々と」

「…もしかして、考えてた?」

「え?今考えて言っただけだよ。どうかしたの?」

「いや、前から見てたようなそぶりで言うからさ…驚いた。本当に、今考えて言ったのか?」

「うん、そうだよ。そんなに信じられない?」彼女はふふ、と笑った。

「…すごいな」僕は、心底感激した。

 ほんの数分見ただけで、こんなにも素晴らしい描写をあっという間に作り上げることが、

 果たしてできるだろうか。すごい、の一言しか出てこない。

 やっぱり彼女には、センスがある。

「それに、最愛の彼と、ってとこがいいな」

「ふふ、もうひろくんったら」彼女は照れながら、僕の手を引っ張った。


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