第7話 年下彼女は甘え下手
「ひろくん、ひろくん」
彼女が僕を呼ぶ。
「ん?なに?」
「どうしたの、さっきから。何か考えごと?」
「ああ、うん、そんなとこ」
「何を考えてたの?」
彼女が首を傾げる。
「心愛ちゃんと付き合って間もない頃のことを、思い出してね」
「でも、私達、まだ付き合って一年も経ってない」
「うん。ふと思い出すことがあるんだ。付き合って間もない頃よりは、
心愛ちゃん、随分積極的になったよね」
「…もうっ!ひろくんの意地悪!」
彼女は僕に背を向けて走り出した。
「ごめんって。許してよ、ねえ、心愛ちゃん」
僕は彼女を追いかけ、彼女を後ろから抱き締めた。
「…ちゅーしたら許してあげる」
僕は、彼女と深い口づけを交わした。
僕は、彼女と付き合い始めたときのことを思い出しながら、彼女の唇を優しく吸った。
*
彼女は今、僕の隣で本を読んでいる。
静かに、しかしとても楽しそうに本を読む。
彼女の生き生きとしたその姿に、僕は釘付けになった。
―いや、見惚れていたという方が、正しいかもしれない。
「心愛ちゃん」
僕が名前を呼ぶと、彼女は本から目を離し、真っ直ぐな目で僕を見つめる。
「なんですか?博人さん」
彼女が首を傾げる姿は、とても可愛い。
何をしていても可愛いのだが、首を傾げて僕を見る彼女は、とてつもなく可愛い。
内心、そんな彼女にデレデレしているのだが、
そこは大人で、あくまでもクールで余裕な『大人の男』を演出する。
あくまでも、クールに。
「その本、どう?」
「あっ…!はい、すごく面白いです!」
彼女は目を輝かせながら言った。彼女は本を、テーブルに静かに置いた。
「よかった」僕は微笑んだ。
「博人さんが買ってくださった本ですもの、面白いに決まってます」
彼女は僕の目をじっと見て言った。
彼女はいつも、僕を喜ばせることばかり言う。
「そんなこと言っても何も出ないよ」
彼女は、目を潤ませながら言った。
「私…そんなつもりで言ったんじゃないのに…」
彼女は俯いてしまった。
僕はついつい、意地悪をしてしまう。それは、彼女があまりにも可愛いから。
僕は黙って彼女の顔を覗き込んだ。
眉を下げ、困った顔をする彼女は、既に僕の心を乱している。
勿論、彼女は、無意識に。
どうしてこうも僕の心を掴んで離さないのだろう。
そこがまた、彼女の魅力なのだけれど。
僕は彼女の肩に触れた。彼女は驚いて僕を見る。
「博人、さん…?」
不思議そうに僕を見つめる彼女の両肩を、僕は優しく、しっかりと撫でた。
「んっ、博人さん、やだっ…」
彼女は驚いて僕の手を引き離そうと、僕の手を握った。
こうでもしないと、なかなか彼女は僕の手を自分から握ってはくれない。
―残念ながら。僕から握らないと、いけないんだ。
彼女は自分から、握ってはくれない。彼女はなかなか、一歩を踏み出せない。
僕は黙って、彼女の両肩を撫でる。
「博人さん…お願いっ…」彼女は潤んだ目で僕に訴える。
僕は、手を止めない。彼女は戸惑っていた。
彼女が手を握ってくれる―
たとえそれが、僕が肩を必要以上に撫でる行為に対して
僕の手を引き離そうとした結果であっても、僕は嬉しい。
彼女に手を放してほしくないという気持ちだけが、
僕を彼女の肩を撫でるという行為へと突き動かした。
「博人さん…お願い…そんなに…撫でないで…」
彼女は戸惑っていたが、次第に僕の手の感触に慣れたのか、嫌だとは言わなくなっていた。
「ん?じゃあ、やめる?撫でるの」
僕は彼女を見た。
彼女は、今にもとろけそうな目をしていた。
「…っ、い、いやです…やめないで…」
―本当に、僕を乱すのが上手いな。
どこまで僕を乱すつもりなんだ。
そんな可愛い顔されたら、僕は止まらなくなってしまう。
クールで余裕な僕では、いられなくなる。
「嫌だって言わなかった?」
「言いました、言いましたけど…」
「嫌なんだろ?」
僕は、素直になれないことがある。本当に、馬鹿だよな。自分でも呆れる。
「嫌なら、もうしないよ」
彼女は、泣きそうになっていた。
けれど、これは彼女に甘えてもらうためのー所謂駆け引きのようなもの。
彼女に、甘えてほしい。
彼女が甘えてくれるのなら、意地悪さえもしてしまう。
でも、その僕の悪癖が、恋の障害にもなり得るー
「博人さんっ…!」
頭の中であれこれ考えていると、柔らかな声が僕を呼んだ。
彼女は僕の手を引き離し、僕から離れた。
―やっぱり、離れたか。
僕の意地悪が、かえって彼女を遠ざける。
「…博人さんのいじわる」
彼女がそう言った瞬間、僕の胸に柔らかな温もりが飛び込んできた。
もしかして、この感触はー
「博人さん…」彼女は、僕の胸に顔をすり寄せていた。
彼女は僕にー抱きついている。
嘘、だろ? 彼女が僕に、抱きついている?
信じられなかった。
彼女が、なかなか一歩を踏み出せずにいた彼女が、一歩を踏み出した。
「博人さん…?」彼女が、僕の顔を覗き込んだ。
「嫌、でしたか…?」不安げな彼女の顔を見つめる。
「ごめんなさい、急にこんなこと…。嫌、ですよね」
彼女は目を伏せ、僕から離れようとした。
―そんなことさせない。僕から離れるなんて許さない。
「嫌だなんて僕は一言も言ってないよ」僕は彼女を強く抱き締めた。
「嬉しいよ、心愛ちゃん。やっと…甘えてくれたね」
「ごめんなさい、私…上手く甘えられなくて…」
「いいんだよ。こうして甘えてくれたから…僕は嬉しい」
「博人さん…」
「心愛ちゃん…」
「ひ、ろと、さん…」彼女の様子が、どこかおかしい。
「心愛ちゃん…?」
「ひ、ろとさん…く、るし…」
「ん?ああ、ごめん!」
僕は、彼女を強く抱きしめていたことをすっかり忘れていた。
思っていた以上に強く、抱き締めていたようだ。
「もう…」博人さんったら、と彼女は顔を赤くしながら言った。
「ごめんよ」
「ねえ、博人さん」彼女は床をじっと見つめた。
「何だい?」
「博人さんの手…大きくて、とても温かくて…」
「そう、かな?」彼女は僕の手を見た。
「はい。すごくあったかいの…。私の大好きな、温もり」
「心愛ちゃん…」
「それに…とても大きな手…男の人の、大きな手…。
博人さんに手を握られると、すごく幸せな気分になるんです。
これが夢なんじゃないかってくらい」
「夢なんかじゃないよ」
そんなことを言われたら、僕から手を握るしか、ないじゃないか。
どれほど僕を乱せば、気が済むんだ。
「どきどきしてしまうんです。博人さんに手を握られると。
男の人を感じてしまって…。大きくて逞しい博人さんの手を見ていると、
すごくどきどきして…」
彼女はいつも、僕を狂わせる。
「私の手に、博人さんの大きくて温かい手が重なると…とても幸せで…」
彼女は恐る恐る手を伸ばした。僕の手に近づく、小さな手。
僕の手に触れるかと思いきや、直前で小さな手の動きが止まる。
彼女は、躊躇っている。躊躇うことなど、何もないのにー。
もう少し、もう少しだ。あと一歩だよ、心愛ちゃん。
その一歩が、なかなか踏み出せない。
彼女の手が、再び僕の手へと伸びる。
しかし、僕の手に触れた瞬間、はっとしたように彼女は手を引っ込めた。
彼女の手が、震えている。
「ご、ごめんなさい、私…」
彼女は震える手をもう片方の手で押さえた。
「なんで…?なんでこんなに…震えちゃうの?
怖いわけじゃないのに…なんで、なんで…?」
彼女は震える手を見て言った。
彼女は一度も男と付き合ったことがない。
男に触れられるのも、初めての経験。何もかもが、初めて。
だからこそ、僕は大切にしたいんだ、彼女を。
「なんで…?なんで止まらないの…?なんで…?」
僕は、震える彼女の手を、優しく包みこんだ。
彼女が、僕を見た。
「大丈夫。大丈夫だよ、心愛ちゃん」
「ごめんなさい、私…。私、どうして博人さんの手を握れないんでしょう、
こんなに好きなのに…。握りたいって、博人さんの手、握りたいって思ってるのに…」
「心愛ちゃん」
「どうして…?どうしてなの…?どうしてー」
僕は、パニックになっている彼女を抱き締めた。
「大丈夫だよ、心愛ちゃん。」
「でも、でもっ…!」
「急がなくていい」
「でも…」
「ゆっくりでいいんだよ、心愛ちゃん。ゆっくりゆっくり、心愛ちゃんのペースで良いんだ。」
「博人さん…」彼女は、僕の胸に顔を寄せた。
僕は、彼女を抱き締める力を強めた。
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