魔法の万年筆

秋永真琴

魔法の万年筆

 平凡な万年筆だが、カレン=オオエにとっては大切なものである。

 亡くなった祖父の形見であり、これで書いた脚本が高名な新人賞で佳作を獲ったことで、カレンは演劇人の仲間入りを果たしたのだ。まだまだ脚本家として食べていくことはできないけれど、会社から帰ってきて寝るまでの間にこつこつと書き溜めた言葉たちが、俳優によって生命を吹きこまれていくことは、カレンにとって最大の生きる喜びだった。


「これがその、おじいさんからもらったやつか」

 そういって、ケント=タカムラは万年筆をそっと握った。

 部屋に招いたできたての恋人は、カレンが脚本を提供した小劇団の俳優である。細面に眼鏡がよく似合う歳下の男子を、ひそかに「ちょっといいな」と思っていたので、公演の打ち上げの帰り道で抱きすくめられ、耳元で「酔っているせいじゃないです」と囁かれたときは、気が遠くなってそのまま昇天するかと思った。

「おじいさんがカレンさんを脚本家にして、僕と出逢わせてくれたのかな」

 そういってから、あわてて「もちろんカレンさんに才能があって、カレンさんが努力したからだけど!」と継ぎ足す。そんな迂闊うかつさと善良さもかわいらしくて、カレンはにこにこしてしまう。

「でも、ケントくんのいうとおりかも。わたしを見守ってくれる、魔法の万年筆だよ」

「そうだよ」

 ケントの応答が帯びる奇妙な断定の響きに、カレンは眉をひそめた。

 万年筆を手にしたまま、恋人は玄関のほうへ歩いていく。

「どこ行くの? コンビニ?」

「カレンさんが知る必要はないよ」

 ケントの声はいつもと変わらない。それが恐ろしかった。やさしい言葉をくれるときと同じ調子で、こんなことをいうなんて。

「待って」

 追いかけたカレンのみぞおちを衝撃が貫いた。

 床に尻もちをつき、息を詰まらせ、カレンは涙目でケントを見上げた。このひとに蹴られたのだと信じたくなかった。

「新人賞の受賞の言葉で、その万年筆のことを語っていたね。肖像写真でもそれを手にしていた。それを見たときのぼくの歓喜がカレンさんにわかるかな。わからないから、あんな間抜けな自己紹介をしたんだよね。おじいさんは何も語らなかったの?」

「何……何をいっているの」

「わざと教えなかったのか、秘密は失われていたのか――まあ、どっちでもいい。それを手に取らせてくれるような仲になるのに、もっと苦労するかと思ったけど――ちょろくて助かった」

 ケントがいっていることの半分も脳に沁みこまないまま、カレンはただ、この眼鏡の男子がいきなり垂れ流した侮蔑に、全身を震わせ、カチカチと歯を鳴らすことしかできない。

「カレンさん――ぼくのことは忘れて、幸せになってね」

 俳優のメソッドを駆使したケントの科白は、こんな状況でも、万感の思いが篭もっているようにカレンには聞こえた。運命に引き裂かれてしまうけれど、ずっとあなたを愛している――そんな体の、演技。

 ケントはドアノブに手をかけた。

 次の瞬間、ドアは向こうから勢いよく開いて、ケントにたたらを踏ませた。


 神がかり的なタイミングで現れた謎の救世主――あるいは侵入者――を、カレンはぼんやりと見つめた。

 十代とおぼしき少女だった。闇を吸いこんだような長い黒髪が印象的だ。

「カレン=オオエさんですね。もっと早くコンタクトをとるべきでしたが――ぎりぎり間に合ったらしい」

 少女は淡々といって、ケントを見た。正確には、ケントが手にした万年筆を。

「それをカレンさんに返してください」

「何なんだお前」

 ケントが女子を「お前」と呼ぶのを、カレンは初めて聞いた。他人をそんな険しい目で睨みつけるのも、初めて見た。


「アレイ=ホシノといいます」と、少女は名乗った。

「古本屋です。その本を買い取りに来ました」


 本?

 その本、とは?


「査定しますので、本を渡してください」

 アレイという少女が、ケントに手を差し出す。

「お前――魔術書を扱うのか」と、ケントは目を丸くした。「まさか〈黒瓜堂くろうりどう〉か」

「へんに有名になっちゃったな」

 黒髪の少女はため息をついた。

「買取金をぼくに払うならいいよ。持ちこみに行く手間が省けた」

 せせら笑うケントを、アレイは冷たく見やる。

「あなたの本ではないでしょう」

「いいや、たったいまぼくの本になった」

 万年筆を「本」と呼ぶ人間たちも、カレンは初めて目撃した。

「カレンさん、彼のいうことは本当ですか」

「――嘘、嘘です!」

 混乱の極みの中でも、その返事だけは大きな声でいえた。

 アレイは決然と、

「〈古本黒瓜堂〉は、盗品は扱わない」

「魔術書の売買だって犯罪だろうが。かっこつけるなよ」

「法の話ではなく、古本屋の矜持の話よ」

 アレイの言葉から丁寧語が剥がれてきた。

「ひとの本を勝手に売ろうとする人間は、うちのお客さまじゃない」

「だったらどうするんだよ、警察を呼ぶか。できっこないよな。ぼくは彼女とちょっと喧嘩をしただけの一般市民、お前はきっと警察にもマークされている闇業者だ」

 ケントは唾を飛ばしてわめく。これまでカレンが見てきた、ケントのどんな怒りの演技よりも迫力がある。

「お客さまでもないのに、傍若無人な客のようなふるまいをすれば――」

 歌うように告げるアレイに、ケントは襲いかかった。細身でも、俳優としてそれなりに鍛えている男である。とくに大柄でもない少女を殴りつけるのは容易いはずだった。

 アレイは合気道でも修めているような身体捌きで、ケントの拳をかわした。

 勢い余って玄関口に突っこんだケントの背中を、アレイは両手で力いっぱい押した。閉まり切っていなかったドアにぶつかって、ケントはマンションの廊下に転がり出る。アレイは素早くドアを閉めた。


 静寂が訪れた。


 ケントはドアを開けようともしない。こんなもので、おとなしく諦めるとは思えないが――仮に帰ったのだとして、異様なのは、足音も何も聞こえてこなかったことである。

 カレンはおそるおそるドアを開けた。アレイは何もいわない。

 廊下には、誰もいなかった。

 一瞬前までケントがこの部屋にいたというのが長い錯覚だったのかもしれないとすら、カレンは思った。

 床に万年筆が転がっていた。

 アレイがそっと拾いあげる。祈るようにうやうやしく。


「――やはり、この万年筆には『本』が封印されています」

 と、カレンが落ち着いてから、アレイは説明してくれた。

「封印を解除したのち、これに――」と、ポケットから古びた紙を取り出す。木の繊維を漉いた、いわゆるふつうの紙ではない。動物か何かの革に近い質感だ。「この魔術紙に筆を走らせると、自動的に文章が綴られる。それが禁制の内容なんです」

「魔術書が封印された、万年筆――」

 カレンのつぶやきに、アレイはうなずいた。


 この極東の小国は、かつて世界一の魔術国家だったという。〈大戦〉を境に禁じられ、この国は科学で成り立つ国家になったが、一部の研究機関や裏社会で魔術は隠然と生き残っている――そういう歴史があることは、知識として頭にあった。


「転写はこの場ですぐに済み、万年筆の現物はお返しできます。あの男性がどこでどうやってこの秘密を知ったのかはわかりませんが、万年筆に『本』が残っているかぎり、あなたは同じような目に遭う可能性がある」

「それは――いやです」

 また騙されるのはいやだ。カレンに近づいてくるひとを誰も信じられなくなるのは、いやだ。それは、たくさんのひとと関わらずにいられない演劇の仕事を棄てることを意味するからだった。

「わたしに譲っていただけますか。買取額は一千万円」

 お金のことはどうでもよかった。この万年筆を、ただの万年筆にしてほしかった。祖父の形見で、カレンの相棒である、ただの一本のペンに。

 カレンはうなずいた。


 転写の儀式はあっけなく済んだ。もっとこう、魔法陣の中央に万年筆と魔術紙を置いてアレイが朗々と呪文を吟ずると万年筆が光り輝いて――みたいなのを想像していた。

 実際は、アレイが小声でむにゃむにゃと何やらいって、万年筆のペン先を紙に乗せ、すらすらと文章を書き始めただけである。たぶん文章なんだけど、カレンの見たこともない文字だった。アレイが書いているのではなく、万年筆がアレイに書かせている――そういうことなのだろう。

 紙一枚に文章を書き終えたとき、アレイは汗びっしょりになっていた。顔に張りついた黒髪を掻きあげて、

「終わりました」

 魔法が解けた万年筆は、カレンの手に戻った。見た目も重さも何ひとつ変わっていない。


 その万年筆で、いまもカレンは脚本を書いている。

 会社から帰ってきて寝るまでの間に、こつこつと。

 ケントはささいなことで喧嘩別れして出ていったきり、カレンにも行方がわからないということで周囲に通した。実際、どこに消えたのかはわからないのだ。アレイに訊いたけど、本人もよくわからないという。

「うーん――よ、四次元空間とか?」

 と、あの神秘的な少女に似つかわしくない朴訥な答えが返ってきて、思わず笑ってしまった。そのアレイとも、あの日以来会うことはなかった。

 一千万円はちゃんと銀行口座に振り込まれていた。これもまた、祖父が遺してくれたものだ。次にカレンが脚本と演出を手掛ける公演は大規模なセットがどうしても必要になりそうなので、少し崩して使おうと思っている。

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