第19話 バスカヴィル卿の受難
バスカヴィル卿の屋敷に戻ると、庭のベンチに男女が腰掛けているのが見えた。
「しばらく隠れていた方がよさそうだな」
ホームズの提案で、わたしたちは生け垣に身を隠し、様子を伺うことにした。
アルファ・フリントロックと、魔犬『フレンダー』号もそれに倣う。
「名前がないのも、あれですから」
そう言ってハドソンさんが機械獣に名前をつけたのだ。アルファさんの友達だからフレンダーでいいんじゃないでしょうか、という安直な事のようだったが。
今はこうして、みんなして一列になって生け垣から顔だけ出している。
「ヘンリー卿と、あの女性はベリルさんだな」
親しげに二人は寄り添っている。
「ワトソンさん、顔が不機嫌になってますよ」
ハドソンさんに指摘され、わたしは顔をこすった。
「…この、屋敷から…逃げてください。いや、心配ない。だから…」
ホームズが何か呟いている。いつの間にかいつもの複眼が望遠鏡に変わっていた。
「ほう、あまり仲良く歓談しているようではないな」
どうやら、二人の会話を読唇術で解読しているらしい。
グルル、とフレンダーが低く唸った。
「向こうから誰か来ます」
それに気付いたアルファ・フリントロックが声をあげた。
わたしたちが潜む生け垣とは反対側の入り口から、一人の男が駆け込んできた。やや小柄で、手には捕虫網を持っている。
「ベリルさんの兄君の、ステープルトン氏だな」
どんな時でもあの網は手放さないらしい。彼は二人が座るベンチの前に立つと、何事か激しく詰問しているようだった。
しばらく、手に持った網を振り回して怒り狂っていたが、ベリルさんの手を掴むと、引きずるように屋敷を出て行った。
☆
「まったく、呆れた男だな。何をあんなに怒っていたのだろう」
ヘンリー・バスカヴィル卿は憤懣やるかたない様子で、テーブルを叩いた。
「わたしは、ただベリルさんと話をしていただけなのに」
「ベリルさんには、この屋敷から逃げるように言われたのですね。そこへやって来たステープルトンさんには、妹に手を出すな、この〇×△野郎、と」
ひえ-、とハドソンさんが両の頬を押さえた。
「そうです。あの男、よりによってベリルさんの前で〇×△などと恥知らずな事を」
もう一度言った。
「そんな、〇×△だなんて、恥ずかしいですっ!」
「ハドソンさん。自分で言ってますよ」
「ああ、でもこれでは。……もうベリルさんには会えないのだろうな」
悄然とするヘンリー卿は居間を出て二階の居室に向かっていった。その力ない足取りに、わたしは医者として不安を感じた。
その隙に、外に残ったアルファとフレンダーに合図を送り、裏口から屋敷へ招き入れた。この後の彼らのことは執事のバリモア夫妻に任せることにする。
「あれは、完全に恋する男の目でしたよね」
うん、うん。とハドソンさんはひとり頷いている。
何がです、わたしはハドソンさんに問いかけた。
「何がって、ヘンリー卿ですよ。完全にベリルさんの魅力に、やられちゃってたじゃないですか」
「はあ、そうですか。それはやっぱり……」
「もちろん女の勘です。でも、ああやって障害があればある程、恋心は燃え上がるものですけどね」
ハドソンさんは力説するが、わたしもホームズもそういった方面には疎いために反論ができない。ふむふむ、と一応もっともらしく頷くことにする。
☆
「なるほど、立派な屋敷だな」
ホームズは居間からホールの辺りを歩き回っていたが、歴代当主の肖像画が掛かる壁の前で立ち止まった。
「ワトソンくん。ぼくは芸術には縁がないのだが、この絵画は有名な画家のものではないのかね?」
見る目がないのは私も同じだった。さあ、どうだろうな、と肩をすくめる。
「ハドソンさんはどうですか。学校で習ったりとか……」
となりに立つハドソンさんの方を振り向いたわたしは驚いた。ハドソンさんは一枚の絵を食い入るように見詰めていたのだ。
「どうしました? ハドソンさん」
呼びかけると彼女はやっと我に返った。
「ワトソンさん、この絵。誰かに似てませんか?」
わたしはその絵を見た瞬間、声を失った。
……、なぜこの人の絵がここにある。
その時、二階で悲鳴が聞こえた。
ガラスの割れる音と共に、目の前の窓を何かが落下していった。
慌てて窓際に駆け寄ったわたしたちが見たものは、地面に叩きつけられ、苦悶に顔をゆがめるヘンリー・バスカヴィル卿その人だった。
「いきなり窓を突き破り、飛び降りられたのです。私が付いていながら申し訳ありません」
青い顔で、ヘンリー卿の脈をとるのはモーティマー医師だった。卿は注射によって痛みを抑えられているが、虚ろに目を開き、微かに呼吸をしている状態だった。
「でも一体どうされたのでしょう、急にこんな行動に出るなんて」
あちこち骨折しているうえに、全身にガラスの切り傷がある。かなり危険な状態だった。
「恋に破れたから、ではないかな」
わたしはさっき見た事から、そう考えたのだ。傷心のあまり、窓から身を投げたのではないか、と。
「ああ、そんな事があったのですか。それならば、私にも分る気がします」
モーティマー医師は小さな声で答えた。
その姿をホームズはじっと見詰めて考え込んでいた。
そして、彼は首をぐるりと回して振り返った。
「バリモアさん、ステープルトンさんを呼んできてくれませんか」
ホームズが執事のバリモアに命じた。
「妹のベリルさんも一緒にね」
さあ、謎解きの時間だ。ホームズは宣言した。
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