第17話 魔犬の棲家
わたしたちは石柱を背に、座り込んでいた。
もう半日ほどもこの迷路の中を歩き続けているような気がするが、どうしても出口を見つける事が出来なかった。
上を見れば青い空が見えているのだが、柱の間は濃い霧に包まれて、全く方角が分らないのだ。
「時計も壊れてしまっているようだ。朝から止まったままだ」
わたしは懐中時計を見て、すぐにポケットにしまい込んだ。
「もし、このまま出られなかったら……」
ハドソンさんが涙声で言う。
わたしは彼女の手を握りしめた。
だが、疲れ切って、もう一歩も動けないのは彼女もわたしも同じだった。
わたしはホームズの顔を思い浮かべた。
「……助けてくれ、ホームズ」
思わず口に出したわたしの方をハドソンさんが見た。しまった、彼女の前でこんな弱気な事を言ってしまうなど、大失態だ。
「ホームズさん」
わたしはハドソンさんの視線を追った。それは石柱の上に向かっていた。わたしもつられてその方向を見上げる。
わたしは息をのんだ。
石柱の上に、誰かがいた。やせて背の高い男だった。
「やあ、ワトソンくん。良い天気だね。ハドソンさんとピクニックかい?」
鹿撃ち帽にインバネスコート。そしてパイプを咥えたホームズがそこに立っていた。
☆
「いま降りるから、待っていてくれ」
ホームズはそう言うと、垂直の石壁を普通に歩いて下りて来た。つまり、地面と水平にだ。方向感覚どころか、平衡感覚まで狂いそうな光景だった。
「この石には磁力があるのだよ。だからこんなふうに、くっつくんだ」
ホームズが手を伸ばすと、勢いよく石柱に引きつけられた。
「そのせいで、生き物の方向感覚に影響を与えるようだね。だから、この上空には鳥も飛んでいないだろう」
「出られるんですか、ここから」
ハドソンさんが勢い込んで訊いた。これでホームズまで迷子になっていたとしたら、本当にお終いなのだが。
「もちろんですよ。ですがその前に、君たちに紹介したい人がいるんだ。一緒に来てくれるかい」
ホームズはそう言うと、首を伸ばし始めた。
「さあ行こう」
彼の首は石柱の上まで出ているようだ。方角を確かめながら先を歩いて行く。
「なあ、ホームズ」
わたしは上空で揺れる彼の頭を見上げ、問いかけた。
「なんだい、ワトソンくん」
意外な事に、声は下の胴体から聞こえた。胸のあたりにもスピーカーが付いているんです、とハドソンさんが教えてくれた。
「これは、何なんだ。古代人の遺跡なのだろう?」
「ああ。その通りさ。これは我らの祖先ブリタニー人が、古代ローマ軍を迎え撃った時に作ったものだよ」
ドーバー海峡を越えて侵攻してきた、将軍カエサル率いるローマ軍団をこの中に誘い込み、殲滅したのだという。
「ほとんど同じものが古代中国にもあるんだよ。有名な史書に記載があってね、『
「へえ、ここから伝わったのかな」
ホームズは首をひねる代わりに、両手を広げた。
「そうではないと思うよ、リクソンくん」
わたしの名前はワトソンなのだが。
「別々の場所で、自然発生的に同じ事を発見、発明するのは、決して珍しくはないそうだ。各地の古代文明だって結構同じ時期に興っているからね」
ほう、わたしは感心した。人間とは不思議なものだと改めて思う。
「まあ、人の考えることはいずこも同じ、ということだな」
なるほど。でも、そう言ってしまっては身も蓋もない気がするけれど。
☆
迷宮の奥にその男はいた。いや、男というより少年といった方がいいかもしれない。ひとり壁際にうずくまっていた。
わたしたちを見ると、彼は驚いたように腰を浮かした。
「ああ、わたしたちは追っ手じゃないよ。安心したまえ」
ホームズはいつの間にか首を縮めていた。
「君は、バスカヴィル館の執事、バリモア氏の妻の弟さんだね」
ええ、とその男は頷いた。そして、目を瞠った。
「あなたは、機械じゃないですか。一体、誰が造ったんです」
えっへん、とハドソンさんが胸をはった。
「まさか、あなたがこれを?」
「フロリー・ハドソンです。どうぞ、よろしく」
男は駆け寄ってハドソンさんの手を取った。
「僕はアルファ・フリントロック。あなたにお会いできて光栄です」
なんだか、一瞬で打ち解けているようだ。
「ところで、その後ろのものは何です」
わたしがそれを指差すと、アルファは少し顔をこわばらせた。
それは一見テントかと思えたが、なにかを布で隠しているもののようだった。
「どうやら、それが『バスカヴィルの魔犬』の正体のようですね、アルファ・フリントロックさん」
ホームズは右手の指を伸ばす。小さな音とともに、その先端に銃口が開いた。
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