第16話 古代遺跡の迷路

 輝く湖を背景にその瀟洒な屋敷は建っていた。

「なんて美しい光景でしょう」

 思わずハドソンさんが声をあげた。


 わたしたちは列車と馬車を乗り継いで、バスカヴィル卿の屋敷に到着した。迎えてくれたのは現在の当主、ヘンリー・バスカヴィル氏だった。

「ようこそ、こんな辺地まで」

 彼は亡くなったチャールズ氏の甥にあたるそうだ。


「わたしが狙われている、とモーティマー先生は言うけれど、心当たりは全然ないのだがね」

 ソファに腰掛け、彼は太い頸をひねった。

「まあ、せっかく来てもらったのだ。調査には協力するよ」

 そこで、ヘンリー氏はハドソンさんに目をやった。


「この娘さんは、どなたですかな」

「わたしは、このワトソンさんとホームズさんの住むアパートの大家です」

 ヘンリー氏は、胸をはるハドソンさんを頭の上から足の先まで眺める。

 ふうん、と、ひとつ息をついた。どうやら、それっきりハドソンさんへの興味を失ったようだ。まったく違う話を始める。

「ところで、外に出られる際の注意だが」


「え、なに。それだけ……」

 ハドソンさんが小さく呟いた。


 この屋敷の周りは沼地が広がっている。その中には底なし沼も多く、近くで飼っている馬や、野生の鹿などが呑み込まれているらしい。


「通行できる場所には目印の棒が立ててあるから、それを外れないようにするのだな。年に何人かは行方不明になっている。あなた方もせいぜい気をつける事だ」

 ヘンリー・バスカヴィル卿は不気味に笑った。


 ☆


「なんだか失礼な方ですね。人を見下しているというか……」

 細い径を歩きながらハドソンさんが文句を言っている。

 その頭に、後ろから大きな捕虫網がかぶせられた。


「きやぁーっっ!」

 悲鳴をあげるハドソンさん。わたしは慌てて後ろを振り向いた。


「ああ、これは失礼。美しい蝶が飛んでいると思ったら、こんな若くて素敵なお嬢さんだったとは」

 そこに立っていたのは、痩せて小柄な男だった。探検隊が被るような帽子に、ポケットのたくさん付いた服。肩からは大きな虫かごを掛けている。

 白い歯をみせて、爽やかに笑った。


「ま、まあ。なんて素直で正直な方」

 ハドソンさんは急に上機嫌になった。まだ網をかぶせられたままだったが。


「私はステープルトンと申します。ちょっと趣味で昆虫の研究をしておりまして。この辺りには珍しい種類のものが多いのですよ」

 最近、この近くに引っ越してきたのだという。


「それから、これは妹のベリルです」

 後ろにいる、美しい女性を紹介する。わたしはどこか違和感を覚えた。銀髪に近い兄のステープルトンに対し、この妹は完全な金髪だ。目の色も少し違う気がする。


「兄が失礼しました」

 だが、彼女のこの笑顔を見れば、そんな些細な事はどうでもよくなった。

「ワトソンです。よろしく」

 わたしは精一杯イイ声で言った。


「ところで、わたしたちはこの辺りに伝わる魔犬の伝説を調べているのですが」

 わたしがそう言うと、ステープルトンは申し訳なさそうに首を振った。

「そうですか。残念ながら私たちも最近越してきたばかりなので、お役には立てませんね」

 ふと見ると、ベイルさんの顔が真っ青になっていた。


「ワトソンさま。そんな危険な調査は止めて、早くお帰りください」

「これ、ベイル。余計な事を言うものじゃない」

「お願いです、どうか」

「ほら、家に帰るぞ。……すみません、どうかお気になさらず」

 そう言うと、ステープルトンは妹の手を引き、沼の間の小径を帰っていった。


「何だったんだろう、あのベイルさんの言葉は」

 わたしは不思議な気持ちで彼らを見送った。

 ハドソンさんも彼らの後ろ姿を見ながら、じっと考え込んでいた。やがて、ふっと顔をあげる。


「あの二人、兄妹じゃありませんね」

 やけに自信たっぷりにハドソンさんが言った。

「まさか、どうしてですかハドソンさん」

 彼女は人差し指をたてた。

「もちろん、女の勘ですけど」


 ☆


 夕食のあと、私たちは別々の部屋に入った。

 今日一日の事をホームズに書き報せなくてはならない。手紙を書きながら、わたしは睡魔に襲われた。机についたまま、つい、うとうとしていた。


 夢の中での事だろうか。どこかで女の泣き声がしている。

 わたしは目を醒ました。

「……まだ聞こえる」


 わたしは、足音を忍ばせ部屋を出た。

 声のするあたりを探ってみると、執事夫婦の部屋のようだった。わたしはドアに耳を近づけた。

 何か、叱責する声も聞こえる。これは執事の声だろうか。


「何してるんですか」

 後ろから突然呼びかけられて、わたしは悲鳴をあげた。


「は、ハドソンさん。脅かさないでください」

「だって、そんな所で……」

 その時、部屋のドアが開いた。


 出てきたのは執事のバリモアだった。青白い顔を憔悴させている。

「私たちの話を聞いてしまったのですね」

 彼は部屋の中を振り返った。そこでは、思い詰めた表情で彼の妻が立っていた。


「もう仕方ない。あなた方の口を塞がねばなりません」

 バリモアは静かに言った。


「あの、犯罪はいけませんよ。それに聞いたのはこのワトソンさんだけで、わたしは通りがかっただけで……」

 まあ、そうなのだろうけれど。この状況でそんな言い逃れができると思うのか。


 揉めているわたしたちを見ながら、バリモアは苦笑した。

「違います。本当の事をお話します。ですので、決して口外しないようお願いするつもりだったのです」

 わたしたちは安堵のため息をついた。


 ☆


「これですね、バリモアさんが言っていたのは」


 それは巨大な石柱だった。

 人の二倍ほどの高さの白い石柱が、朝霧に霞む草原のなかに無数に立ち並んでいるのだ。


 バリモアの妻の弟は、かつて属していた犯罪組織に追われ、この地方へ逃げてきたのだという。そして今はこの石柱の立ち並ぶ一帯へ身を潜めている。何とか連絡をとって屋敷内に匿いたい、という妻と口論になっていたのだ。


 その翌朝、わたしたちは彼女の弟が潜んでいるという辺りを調査しにやってきたのだった。


「これは古代遺跡じゃないのかな。とにかく入ってみよう」

 しかしハドソンさんはなぜか躊躇ためらった。

「嫌な予感がします。入らない方がいいんじゃないでしょうか」

「それも女の勘ですか? 大丈夫ですよ」


 わたしたちはその石柱の回廊に足を踏み入れた。


 結論から言おう。女の勘をばかにしてはいけない。

 わたしたちは、古代遺跡の迷路から出られなくなってしまったのだ。


 一旦、中に入ってしまうと、絶妙な石柱の配列で、外の景色が全く見えないのだ。奥へ進んでいるうちに、全く方向感覚を失ってしまった。


「これは、まずいぞ」

 霧はいよいよ深く、わたしたちを包み込もうとしていた。


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