第15話 バスカヴィルの『魔犬』伝説

「それで、これが事件だと考えられたのは何故です」

 ホームズは再び椅子に深く腰掛け、パイプをふかしはじめた。


「チャールズ・バスカヴィル卿は心臓に持病があったそうですね。その彼が巨大な犬に驚いて死んだ。これは事件では無く、事故のように思われますが」


「では、お話ししたいと思います」

 モーティマー医師はこわばった表情で、ホームズの複眼を覗き込んだ。

「バスカヴィル家と、呪われた巨大な犬の伝説について……」


 ☆


「亡くなったチャールズ卿のご先祖であるヒューゴー氏は、それは評判の芳しくない方でして……」

 彼は言葉を選びながら、語り始めた。

 そのヒューゴーという男は、この地方に勢力を張る、黒幕のような存在だったらしい。ある日、気に入った娘を拉致し、屋敷に監禁したのだという。


「ただの犯罪者だな」

 わたしは、モーティマー医師から顔をそむけ、呟いた。


 ええ、と彼は小さく言った。

「それから毎夜、彼女を我が物にしようと言い寄ったらしいのですが、どうも思うに任せず、ということだったのです」

 それが、ある日。


「業を煮やしたヒューゴー氏は、ついに彼女を強引に襲うことに……」

「呆れるばかりですな」

「まあまあ、ワトソンくん。伝説だと言っておられるじゃないか」

 憤慨するわたしをホームズが宥める。


 どうやら使用人の手助けによって、彼女は逃げ出すことができたらしい。

「ヒューゴー氏は彼女を追って底なし沼の点在する湖沼地帯へと馬を走らせたのです。もちろん使用人や、居合わせた氏の友人(まあそれも碌な連中ではなかったようですが)も彼の後を追いました。……そこで彼らは見たのです」


 モーティマー医師は、ひとつ咳払いをした。口中が乾いたのだろう、冷めた紅茶をすすった。


 「それは、倒れ伏した女性の死体と、仰向けに転がったヒューゴー氏ののど笛に食らい付く、巨大な犬の姿でした」


 ひーっ、とドアの外で悲鳴がした。


「ハドソンさん。立ち聞きなど、はしたないですよ。お入りなさい」

「あ、どうも」

 とか言いながら、ハドソンさんが入って来た。

「お茶のお替わりを持って来たんです。別に立ち聞きしてた訳じゃありませんから」


「それで、その犬が、今度はチャールズさんを狙ったというんですね」

 キラキラした瞳でハドソンさんがモーティマー医師を見詰める。

 やはり、最初からしっかり聞いていたようだ。


 さらに、その犬は。と、医師は話を続ける。

「ここからはあくまでも伝承ですが、…巨体はもちろん、恐るべきことは、両の目からは光線を出し、口からは炎を吐くというのです」


 わたしは思わずハドソンさんを振り向いた。

 彼女は胸の前で両掌を握りしめ、感極まった表情だった。


 これは、まずい。


「素晴らしいです。行きましょう、ホームズさん。私、その犬を見てみたいです!」


 やはりそうなったか。


「いいでしょう、モーティマーさん。依頼を引き受けます」

 ホームズは言った。


「ですが、ぼくはこのロンドンで片付けねばならない仕事が残っているのです。まずはこのワトソンくんと、ハドソンさんに初期調査をしてもらいましょう」


 へえ、わたしとハドソンさんで、って。


 ―――それは、無理があるんじゃないだろうか。

 





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