第14話 湖沼地帯での殺人
「ええ、亡くなったのはチャールズ・バスカヴィル卿。私が主治医を務めていました。ご存知でしょうか、デボンシャーでも有数の大地主だった方です」
「名前だけは時々。噂では次の国政選挙に出馬される予定だったとか」
ホームズの言葉にモーティマー医師は頷いた。
と云うことは、その地方では余程の名士だったのだろう。
「そのバスカヴィル卿が、ある沼の
「ああ、それなら新聞で読みましたね。記事によると外傷はなく、心臓発作ではないか、との事でしたが。あなたは違うとお考えなのですか」
ホームズは、興味をそそられた様子で椅子から身をのりだした。
医師は少し考え込んだ。
「直接の死因は、やはり心臓発作だろうと思います。ですが、それは何らかの方法で意図的に引き起こされたものではないかと……」
「ふむ。ああ、ハドソンさん。遠くから人の心臓を止めることは出来ますか?」
ちょうどお茶を運んできた彼女に、ホームズは訊いた。
「ホームズさん、今度は何を企んでいるんですか。怒りますよ」
ハドソンさんは両手を腰にやり、ホームズを睨みつけた。
でもすぐに何かを思いついた顔になった。人差し指をあごに当て、にこっと笑う。
わたしは、いやな予感がした。
「でも、そうですね。うん、できますよ。一週間いただけたら設計図をお見せできますけど。…あの。ホームズさん。今度は一体、誰を
とんでもない誤解だ。しかも今度は誰を、って言ったぞ。
「ハドソンさん、そんなもの造らなくていいですから」
わたしが慌てて止めに入る。
「そうなんですか、ワトソンさん。……なんだ、つまんない」
危ない。そのうちこの娘は自分の好奇心の赴くまま、犯罪に手を染めるのじゃないだろうか。なんだかモリアーティ教授より厄介な気がしてきた。
「あの、よろしいでしょうか」
モーティマー医師がおずおずと声をあげる。
「これは失礼。うちの大家さんが余計な事を言いましたね。続きをお話しください」
ホームズさんが訊いたからでしょ、ぶつぶつ言いながらハドソンさんは部屋を出て行った。
「他殺だと、
ホームズが促す。だが彼は少し戸惑った風に眉をひそめた。
「ええ。ですが犯人、いえ、卿を殺したのは、犬ではないかと思うのです」
☆
「失礼ですがバスカヴィル卿という方は、犬を見るだけで心臓が止まるくらい嫌いだったのですか。まるで、極東の国の、あのオバケのごとく」
「そのオバケがなんなのか、私には分りませんが……、そうではありません」
いきなりのQ&Aだったが、医師はあくまでも真面目に答えた。
「卿の死体のそばに、犬の足跡があったのです」
「犬の足跡などは、べつに珍しくはないでしょう」
わたしが言うと、彼は首を横に振った。
「ただの犬ではありません。とんでもない大きさなのです」
「ほう、巨大な犬の足跡であったと仰るのですね。しかも一目見て動物の種類を判別出来るとは素晴らしい」
それでは、とホームズは何枚ものパネルを取り出した。色々な動物の足跡を描いたイラストのようだ。
「問題です。これは、何でしょうか」
最初の絵は、肉球と爪の跡が描かれている。
「犬、ですね」
モーティマー医師は頷いた。わたしも同じ意見だった。おそらく小型犬だろう。
「では、これは」
縦長で、五本の短い指がある。これはお馴染みだ。わたしは自分の足元を見た。
「これも
モーティマー医師は断言する。わたしは沈黙した。
「なるほど。では、これは?」
明らかに
「犬ですね」
彼は自信たっぷりに答えた。何だか視力検査で、適当に右、とか上、とか言っている奴の様に見えてきた。
ほうっ、とホームズは大きく息をついた。ぱちぱちと拍手をする。
「正解は、一番がヨークシャーテリア、二番はスコットランド・ヤードの警察官、三番は蹄鉄型の靴を履かせたブルドッグの足あとです。全問正解とは、さすがです」
二番に少し引っかかるのだが。いや、三番もだが。
ホームズはパネルを机の上に置き、スケッチブックを彼に差し出した。
「これに、あなたが見た物を描いていただけますか」
さらさら、とモーティマー医師が描き上げたのは、恐ろしくリアルな足跡の絵だった。この医師、絵の才能もあるようだ。
それは、やはり犬の足跡としか言えないものだった。
だが、その大きさはどう見ても異常だった。
「この並べて描いて頂いた煙草の箱は、実物大ですか」
わたしは思わず問いかけていた。
「ええ。ワトソンさん。……この足跡は、こんなに大きかったのです」
信じられない。この足跡は、差し渡し、30センチはあるだろう。
これを犬と呼んでいいのだろうか。
わたしは背筋が寒くなった。
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