3章 バスカヴィル家の犬

第13話 依頼人モーティマー医師

「帰ったよ、ホームズ」

 わたしは部屋に入ったところで動きを止めた。

 ホームズがライフル銃を構え、こちらへ狙いを定めているのだ。


「おい。ホームズ、私だ。銃を下ろしてくれ」


 うん? ホームズはそれを下ろした。

 よく見ると銃ではなくステッキだった。

「これは済まない。驚かすつもりはなかったのだ。どうだい、ワトソンくん。このステッキを見て気付く事はないかい」


 わたしはホームズからそれを受け取った。

 しっかりした造りのものだ。まず、上等品と言っていいだろう。そして柄のところに金象嵌きんぞうがんで文字が記されている。私はそれが病院と、人の名前だと云う事に気付いた。


「チャリング・クロス病院から、モーティマー先生への贈り物なのだろうね。退職したその先生への記念品かな」

 ほう、とホームズは頷いた。

「そうだな、君にしては悪くない観察だ」

 どうも、あまり褒められてはいないようだ。


「これはハドソンさんによると、依頼人が忘れていったものらしいのだよ。まあ、今日は何人も来たようだから、そのなかの誰かは分らないが」

 ホームズはさらにその杖を観察している。


「いいかね、ワトソンくん。この部屋を出たら何があるか知っているだろう」

「……階段の事かい?」

「そうだよ。退職するほどの年齢の老人だとすれば、この階段を降りるのに、持って来た杖が無ければすぐに気付くだろう。そう思わないか」

 ああ、言われてみれば自明の事ではあるのだが。


「ところで、ワトソンくん。その階段は何段あるか知っているだろうね。毎日、昇り降りしているのだから」

 うむ。残念ながら分らない。


「17段だよ。……こんなつまらない事、と思うかもしれないが、これが何時いつか役に立つことがあるかもしれないのだよ」

 それが、探偵というものなのさ。ホームズは椅子に腰掛け、パイプ煙草の煙を盛大に吐き出した。


 ☆


「噂をすれば、という奴だろうな」

 ホームズは窓の外を見て言った。

「どうやら、このステッキの持ち主が現れたぞ、ワトソンくん」


 部屋に入って来たのは、まだ若い男だった。

「モーティマーです。今日はホームズさんにご相談したい事があって伺ったのです」

 彼は礼儀正しく、右手を差し出した。


「ああ、このステッキ。どこで失くしたかと探していたのです」

 開業医として独立する記念に友人達が贈ってくれたのです、彼はそう言った。やはり彼の持ち物だったようだ。


「おや、ホームズさん」

 モーティマー医師はソファから腰を浮かせた。

「あなたは、もしや……」

 わたしは少し身構えた。ホームズが機械だと分る人がここにも居たのか。


「ちょっとよろしいですか」

 彼は立ち上がり、ホームズの頭に手を伸ばした。

「これは、見事なですな」

 そう言いながらホームズの頭をなで回している。きっと、ハドソンさんが居合わせたら激怒するのではないか、わたしはひやひやした。


「ああ、失礼。わたしは東洋の骨相学をかじっておりまして。本当にあなたのこの骨格は珍しい。特にこの後ろに突きだしている『反骨はんこつ』の形の美しさと言ったら」


「ほう、そんなものが有りますか」

 ホームズは意外そうに、目をみはった。


「ええ。あなたは絶対に誰かに仕えたりしない方がよろしい。すぐに『こいつは反逆者の相がある』とか言われて、処刑されてしまうでしょうからね」

 モーティマー医師は自信たっぷりに断言した。


 ホームズは肩をすくめると、わたしに向かって片方の複眼を閉じた。

「だ、そうだ。まあ、心当たりが無くもないがね」

 わたしは苦笑するしかなかった。

 ついでに首を真後ろに向けて『虎狼ころうそう』も見せてあげれば、きっと喜ぶだろう。


「ああ、こんな事を話すつもりではなかったのです」

 若き医師は、ソファに座り直した。


 そして彼は、湖沼地帯に伝わる、恐るべき『魔の犬』の伝承について、興奮ぎみに語りはじめた。


 その発端は、ある男の死によるものだった。



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