第11話 瀕死の探偵
その日からホームズの様子がおかしくなった。
夜中に突然大声をあげ、部屋の中を歩き回ることが多くなった。ワトソンやハドソンさんが止めに行くまでそれは続いた。
また、ある日は一日中、床にうつ伏せで倒れていた事もある。
「ワトソンくん、なぜだろう。右のポケットがすごく重いんだ。中のものを左のポケットに移してくれないか」
そんな事を言い出した時もあった。
「ホームズ、頼むからしっかりしてくれ。ポケットのものを移すくらい……」
「だけど無いんだよ。中にはなにも。でも確かに片方が重いんだ。これは、どうしたらいいんだろう……何が入ってるんだろう、調べてくれ、頼むよワトソンくん」
ワトソンは身体が震えるのを感じた。
彼は、……ホームズは壊れかけている。
☆
「うわ。どうしたんですか、この有様は……」
部屋を訪れたドイル刑事が呆れたような声をあげた。
それも無理はない。テーブルは倒れたままで、床には、本や実験道具らしきものが散乱している。
おまけに、明らかに弾痕と分る傷が、いくつも壁に残っていた。
ホームズは今、ベッドに仰臥していた。
複眼は半ば閉じられ、なにか口のなかで呟いている。
「これは、一体。いつからこんな状態なんですか」
「君が、あの帽子を持って来てからだよ、ドイル刑事」
ワトソンは恨みがましい目でその若い刑事を睨んだ。彼のせいでは無いと分ってはいたが、それでも悔しさがつのる。
「ああ、血が。……やめろ、来るなあっ」
跳ね起きたホームズが叫んだ。
大きく息をつくと、またベッドに倒れる。
「あ、あの。わたしはこれで失礼します」
これ以上、耐えられなくなったのだろう。ドイル刑事は部屋を出て行く。
扉のところで、彼は小さく頭をさげた。
連続殺人も爆破事件も、手がかりは何もないままだった。
あのドイル刑事が頻繁にこの部屋を訪れるようになったのは、ホームズを疑い始めたからだろう、ワトソンはそう思った。
無理もない。状況はすべて、ホームズが犯人だと示唆している。なんとか、彼の無実を証明したいのだが……。
ワトソンは解決の糸口すら見つけられない自分に、暗澹とした気持ちになった。
☆
「ホームズ。わたしは往診に行ってくるよ。すまない、この頃になって急に忙しくなってしまって」
ベッドに横になったまま動かないホームズに、ワトソンは声をかけた。
どこか言い訳じみているのは、ワトソンも気付いていた。実のところ、こんな様子のホームズを見ていたくないという気持ちが、日に日に強くなっていたのだ。
「ああ。だったら、帰りにパセリと、セージ、それにローズマリーを。それにタイムも買って来てくれないか。市場で売っていると思うからね……」
ワトソンは目頭を押さえて部屋を出た。
日が陰りはじめると、ロンドン市街にはどこからか霧が流れ込んでくる。まだガス燈が灯る時刻ではないが、急に気温が下がり、冷たい風が吹き始めた。
ベーカー街221番地、そのアパートの前にドイル刑事は立っていた。
ぶるっ、とひとつ身震いをすると中に入っていく。
☆
「具合はいかがですか。ホームズさん」
全く感情のない声で、ドイル刑事は言った。
「近寄らない方がいいですよ、刑事さん。……これはおそらく、極東で流行している特殊な熱病ですからね。感染したらあなたも危険だ」
ホームズは弱々しく手を振る。
「いや、違うな。これは人を殺したことによるショック症状だよ、ホームズくん」
ドイル刑事は構わず、ホームズのベッドの横に立った。
「ぼくは、誰も殺してなどいませんよ……」
「いいや。君の手は血に濡れている。自分でも分っているじゃないか」
首を横に振るホームズに追い打ちをかけるように、顔を近づけて責め立てる。
「君は、人殺しだ」
ドイルは、にやりと笑った。
「やっと確信を持つことができたよ」
ホームズは素早く起き上がると、ドイル刑事が後ろに回していた手首を押さえた。そこには特殊な形状のナイフが握られていた。
「君が犯人だとね、ドイルくん」
お、おのれ。とドイルは普段の若い声とは一変した、ドスの効いた声で呻いた。
「ホームズ。よくも騙しおったな、この
「ようこそ、わがアパートへ。アーサー・コナン・ドイル刑事。いや、モリアーティ教授とお呼びした方がよろしいですかな」
ホームズは、その複眼をキラリと光らせた。
「また、ぼくを殺し損ねましたね。ドイル先生」
ドイルはホームズの手を振りほどき、部屋を飛び出していった。
「ハドソンさん、部屋に隠れて!」
ホームズは階下に呼びかけて、その後を追った。
☆
「ですから、そのアパートはこの先を右に曲がって……」
ワトソンは往診を終え、ホームズの待つ部屋に帰ろうとしていた。その玄関わきで腰の曲がった老婦人に道を聞かれていたのだった。
飛び出してきた男と激しくぶつかり、ワトソンとその男は路上に転がった。
「な、なんだ。…ドイル刑事ではないですか」
「ワトソン、その男を捕まえてくれ!」
ホームズの声に、ワトソンは振り返った。
その時、甲高い悲鳴があがった。
ドイルは、老女の首にナイフを突きつけ人質にしていた。
「こっちへ来るな、近づいたらこの婆さんを…」
「殺されるー!」
ドイルは、老女の首に手を回したまま、じりじりと下がっていく。
「助けて、だれか……」
彼女は悲鳴を上げながら引きずられていった。
停めておいた馬車の扉に手を掛けたところで、コナン・ドイルは吐き捨てるように言った。
「ホームズ、いつか必ず殺してやるからな」
突然、ドイルの手からナイフが落ちた。
彼は白目を剥いて硬直したあと、老婦人の足元へ崩れるように倒れた。石畳と彼の頭がぶつかる、大きな音が響いた。
「な、なんだ」
ワトソンは目を疑った。一体、何が起きた。
ホームズはその老婦人に駆け寄った。
「やはり無事だったんだな」
声を掛けられたその女性は、丸めていた背をのばして、にっこりと笑う。ポケットから取り出したハンカチで顔を拭うと、それはすでに老婆ではなかった。
「心配してくれていたのね、ホームズ。可愛いひと」
「そんな事はないさ。君を信じていたからね」
「うそ。涙の跡が残っているじゃない」
ふふっ、とアイリーン・アドラーは妖艶に笑った。
(次回、最終話)
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