第10話 新たな事件

 それから数日後の事だ。

「ワトソン先生。今おかえりですか」


 玄関前でドイル刑事と出会った。ようやく肩の荷を下ろした、と言わんばかりのほっとした表情だった。

「ええ、往診でしてね。どうしたんです、ドイルさんは」


「また事件なんですよ。遺留品はホームズさんに渡していますから」

 そう言うと、そそくさと馬車に乗り込んだ。


 部屋に入ると、薬品の匂いが鼻をついた。

 ホームズは窓際の椅子に深く腰掛け、眠るように俯いている。

 中身が半分ほど入ったガラス瓶を手にしている。ワトソンは、匂いの元はその中の黒い液体だと気付いた。


「これかい? 新大陸から持ち込まれた飲み物さ。コカという薬草を溶かし込んだらしいのだがね」


 のろのろと顔をあげてホームズは呟くように言った。

 ワトソンは胡散臭そうにそれを見た。どす黒く、少し泡だっているように見える。


 ホームズはそれを呷って、一息に飲み干した。


「ホームズさん。またそんなものを飲んで! 身体を壊しますよ!」

 入って来たハドソンさんが大声をあげた。

「もう、コークだかケールだか知りませんけど。イギリス人なら紅茶でしょ!」


「大丈夫でしゅよ、ハドソンさん」

 は? ワトソンは耳を疑った。

「まさか酔っているのか、ホームズ」


「ぼくだつて、たまには考えることお、休みたい時もあるのだょ」


 やや、ろれつが回っていない気がする。相当にダメージを受けているようだ。

 ホームズは机の中から、もう一本、新しいガラス瓶を取り出した。


「だめです、そんなコカ飲料なんか。中毒性があるって言うじゃないですか」

「平気ですよ。ぼくは機械なんですから。コカ中にはなりませんって」

 すでに危険な状態のような気がするが。

「でも、どうしたんだ。君がそんなことになるなんて……」


 ふーっ、とホームズは息をついた。


「その箱を見てくれないか」

 ホームズはテーブルの上に置かれた紙箱を指差した。警察の紋章がついている。

「これは、ドイル刑事が持って来たのか」


 開けると、中には帽子がひとつ入っていた。

「ご婦人用の帽子だな」

 ホームズは黙ったままだ。当然の事を言うな、という意味らしい。


 お世辞にも綺麗な帽子ではなかった。

 全体に水に濡れた染みがあり、泥が付いている部分もある。多分、羽根飾りがあったと思われるが、それも千切れてしまっている。


「こんなものを平気で被っているとは、相当にずぼらな女性のようだな」

 ワトソンは眉を顰めた。

 となりでは、ハドソンさんが固い表情でそれを見詰めている。


「先日、そのずぼらな女性に、君は見とれていたようだが」

 静かな声でホームズは言った。どこにも揶揄やゆする調子はない。


「その帽子を手入れし、羽根飾りを付けたところを想像してみるがいい」


 帽子の素材はいいものだ。それに美しい羽根飾りを付け直したなら、まさに今年流行している型になりそうだ。そしてこの色。

 まるで、……。


 そこでワトソンは、ホームズの沈黙と、ハドソンさんの表情の意味に気付いた。


「これは、アドラーさんの帽子じゃないか!」

 二人は黙ったままだった。


「それは、落としただけかもしれないぞ。ほら、蒸気自動車に乗っていたじゃないか。きっと風に飛ばされたんだ。そうに違いないよ」


 ホームズは顔をあげる。ギギ、と歯車が軋む音がした。

「その帽子は、蒸気自動車のそばに落ちていたんだ」


「爆発した、蒸気自動車のね」


 ☆


 くくっ、とホームズは小さく笑う。しだいに、大きく肩が揺れる。

「おい、ホームズ。大丈夫か」


「あは、ははは、ははは」

 突然、高笑いをしたホームズは、指先から銃弾を乱射し始めた。


「ひやーっ!」

 ワトソンとハドソンさんは、あわててソファの陰に身を隠す。

 部屋中が硝煙の白い煙に包まれた頃、やっと連射音が途絶えた。全弾、撃ち尽くしたらしい。


 穴だらけの壁を背に、ホームズが床に座り込んでいた。

「ワトソンくん。……ぼくは、無力だ」

 泣いているような声だった。


 ☆


 この帽子の持ち主は、行方不明らしい。

 『遺体』は見つかっていない、と言ったドイル刑事をホームズは追い返した。


「言葉は正確に使うべきだろう。死んだという証拠はないのだからね。それが捜査の基本だというのに、あの男は……」

 ワトソンは、こんなホームズの声を初めて聞いたような気がした。


 それは、怒り、そして焦りと不安のこもった、ひとりの男の声だった。



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