第5話 まだらの紐(その3・解決編)

 ゆるやかな丘が波打つように続いている。

 その中を、三人をのせた馬車はゆっくりと進んでいく。

 やがて彼方に歴史の有りそうな建物が見えてきた。


「あれがロイロットさんのお屋敷です」

 馭者が鞭で指し示して言った。

「街道は大きく迂回しておりますので、ここから歩いて行かれた方がよいでしょう。ちょうどあの女性が歩いている所が小道になっていますからね」

 屋敷に向かう女性の姿が小さく見えた。

「ああ、ストーナさんだな。ちょうどよかった」

 ホームズの複眼が双眼鏡に替わっていた。

「では、行きましょう」

 ハドソンさんが率先して歩き始める。彼女の大きな荷物は、当然のように私が持たされている。わが大英帝国はレディファーストの国だからだ。


「ところでホームズ。それは何だ」

 私は彼の背中を見て言った。大きな黒い箱のようなものを背負っている。

「この調査行が長くなると困るからね。予備のバッテリーさ」

 バッテリー?

「いわば非常食だな。人生、何があるか分らないから、備えは大事だよ」


 ☆


「お化け屋敷、ですよね。これ」

 屋敷の前に立ったハドソンさんがぽつり、と言った。築数百年というのは伊達ではないようだ。建物の半分は既に崩壊寸前になっているが、向かって左側の棟だけは辛うじて人が住める程度には整備されていた。


「よくいらっしゃいました。幸い義父はまだ帰ってきていません」

 ストーナさんが出迎えてくれた。

 私は曖昧に頷いた。きっと病院へ寄っているのだろうと思う。

「では、お姉さまが亡くなった部屋を見せていただきましょう」

 ホームズが促した。


「ほう、今はあなたがこの部屋を使っていると?」

 ストーナさんの言葉に、私は考え込んだ。

「ええ。わたしの部屋を改修するのだといって、移らされたのです」


「ワトソン君、これを持って部屋の角に立ってくれないか」

「うわっ」

 手渡されたものを見て、私は悲鳴をあげた。ホームズの左手の小指だった。目盛りのついた細い紐がつながっている。彼が移動すると、手のひらの中から紐がどんどん繰り出されていく。

 どうやら部屋のサイズを測るつもりらしい。オペラ『フィガロの結婚』の一小節を口ずさみながら、部屋をぐるりと一回りする。

「よし、もういいぞ」

 私が手を離すと、紐はシュルシュル、と彼の手のひらに引き込まれていった。


「あら。このベッド、床に固定されているんですね」

 ハドソンさんが声をあげた。

「え、何か問題がありますか?」

 そう言った私を、彼女は意外そうな顔で見た。

「だって、部屋の模様替えが出来ないじゃありませんか、ワトソンさん」

 彼女は年に何度か、ベッドを動かして気分転換しているのだという。


 そのベッドの枕元には、この古い部屋には似つかわしくない、新しい紐が下がっていた。呼び鈴だろう。天井に開いた穴へつながっている。

「うん?」

 ホームズが何かに気付いた。

 かたかた、という音と共に彼の首が伸びていき、その穴を間近にのぞき込む。

「これはおかしいぞ」

 いや。もっとおかしい事は他にあると思う。たとえばその首とか。

「ワトソン君、この紐を引っぱってみたまえ」

 言われるまま、私はそれを引いてみた。

 紐は、動かなかった。

 ホームズの首が元に戻った。ハドソンさんはともかく、ストーナさんまで驚いていないのは何故なんだ。私の方がおかしいのか?


「そうだろう。これは天井に固定されているだけだからな」

「何のために」

 私はホームズに問いかける。

「あ、分りました。きっとこの紐を昇ってトレーニングをしていたんですよ」

「さらに問題なのはあの通気口だ」

 ホームズはハドソンさんを無視して話を続ける。その紐は通気口のすぐ前を通って、枕元へ下りて来ているのだ。

 通気口といっても、それは隣室へ続いている。ロイロット博士の部屋へ。


「ストーナさん、ロイロット博士の趣味は何でしたかな」

 はい。彼女は頷いた。

「インドから色々な動物を輸入するのです。この敷地内にもヒョウやヒヒがうろついています。それを知らない人が、何人も襲われて……」

 そんな重要な事は最初に言って欲しかった。


「お姉さまに目立った傷はなかったそうですね」

 確かめたホームズはひとり頷いている。

「姉の死の真相が分ったのですか?」

「おそらくは。……まだ確証はありませんが」


 ですが、今夜には分るでしょう。

 そう言ってホームズは壁の通気口を見上げた。


 ☆


 夕刻になってロイロット博士が帰宅した。使用人を怒鳴りつけながら、隣の部屋に入っていった。

「今日は一段と機嫌が悪いようです」

 不安げにストーナさんは呟いた。私たちは彼女の部屋に潜んでいるのだった。


 やがて日が落ち、辺りは闇に包まれる。

「帰っているのか、ヘレン!」

 ドアの前で、大声がした。

「はい。ですが具合が悪くて、もう床に就いています。申し訳ありません」

 ストーナさんにそっくりな声で言ったのはホームズだった。

「なら仕方ない。しっかり休むがいい」

 バタン、と隣のドアが閉じられた。


「それではワトソン君。このベッドに寝てくれないか」

「まて、ホームズ。女性のベッドに入るなど、そんな失礼な事をしていいのか」

「もちろん君ひとりで、だぞ」

 いや、それは分っているが。


「ワトソンさまが危険なのではありませんか」

 ストーナさんが言った。

 おお、確かにそうだ。いやしかし、こんな事を女性にさせる訳にはいかない。

「いいのです。それが紳士たるものの務めですから」

 そう言いながら、私は背中に冷汗が流れるのを感じた。


 ☆


 少しだけ、うとうとした頃。生臭い匂いに私は気付いた。

 枕元で何かがこすれるような微かな音がしている。

「こいつが犯人だ!」

 ホームズが鋭く叫んだ。同時に眩しい光が彼の複眼から放たれる。


 私は、鋭い牙を剥きだした、まだら模様の大蛇と目が合った。

「ひやあーっ」

 思いのほか、甲高い悲鳴が出た。

 光は一瞬で消えた。


 ランプが灯された。

「へ、へ、蛇は?」

 腰が抜けた私は這ったままベッドの端に移動した。

「ご心配なく。やっつけましたよ」

 ハドソンさんが固い表情で、手にしたモップを振った。

「紐を伝って帰って行ったよ、博士の部屋に」

 ホームズが静かに言った。


 その時、隣の部屋から凄まじい悲鳴が聞こえた。


「終わったようだな」

 ホームズは頷いた。


 ☆


「すまなかったな、ワトソン君。君を危険な目に遭わせてしまった」

 まったくだ。

「だが勘弁してくれ。蛇という奴は人の体温を感じるらしいのだ。ぼくは、その、……他の人より体温が低いのでね」

 申し訳なさそうに言うホームズを見て、私は笑みを浮かべた。そうか、それでは仕方ないだろうな。

「なに。人には、向き不向きがあるものさ。気にするな、ホームズ」

 私は、初めてホームズが人間に見えた。


 彼とはこれから長いパートナーとなるだろう、私はホームズと強く握手した。



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