6・ホテル
Qはホテルの一室のベッドの上で目を覚ました。汗臭さは何処にもない。身を包むのは、洗い立てのシーツの香りだった。
鏡台の前で、初老の男が椅子に座って髪を梳いている。
Qは混乱した。あの夫婦は何処へ行ったのか。ここは何処なのか。眠りに落ちてからどれくらいの時間が経過したのか。一切がわからない。
さらに不可解なことに、Qは自分が裸で、男になっていることに気付いた。股間にモノが付いていたのである。
「起きたかね。服を着給え、朝食にしよう。」
初老の男は立ち上がり、床に置かれたトランクケースの中からパンツとジーンズ、そしてTシャツを取り出し、Qに投げ渡した。身に着けると、Qはなんとなくぎこちない感じがした。
「行くぞ、着いてきたまえ。」
男が部屋を出ていく。Qは未だ混乱していた取りも直さず男に付いて行くことにした。
窓がなくほのかに暗い、真っ赤な柔らかい絨毯が敷かれた廊下を渡り、二人はエレベータホールに向かった。初老の男は背筋をまっすぐ伸ばし、きびきびと歩いた。Qはこの男は何者かと考えたが、思い当たる知り合いはいなかった。
エレベーターの前に来ると、初老の男が下へ向かうボタンを押した。表示灯の点灯は最上階の十階で止まり、扉が開く。
二人はエレベーター乗り、初老の男は二階のボタンを押した。扉が閉まり、エレベーターはゆっくりと動き出した。
「君、エレベーターの存在意義がわかるかね。」
初老の男が口を開いた。
「意義ですか。」
「エレベーターは人間が日常生活の中で使用する移動手段の中において、最も簡便に上下への移動を可能にしたものだ。階段、エスカレーターなどは前後への移動が含まれ純粋な上下への移動とは言えない。純粋な上下への移動という意味では梯子やヘリコプターなども存在するが、前者は肉体への負荷が大きく、後者は日常に普及しているとは決して言えない。故に、エレベーターこそ人間に与えられた純粋かつ楽な上下方向への移動方法であると言える。空を飛ぶこと、地中へ潜ること、これらはまさしく人類の夢であったが、エレベーターはこれらを同時に可能にしているのだよ。
しかしだ。このような人類の夢の体現たる鉄の箱が最早単なる移動手段の一つとして形骸化している。全くつまらないことだと思わんかね。」
「はあ。」
「天使や地底人の存在は人類の留まる所を知らぬ欲望の現出である。何者もの力を借りず空を飛び、地に潜ることが出来なければ人間は満足しないのである。何時間もの間空中を飛び続けることが出来る飛行機ですら、我々を満足させていないのだ。このような人類は滅び去るべきではないだろうか。人類は自らの領域を無限に拡張し続け、やがて宇宙を侵犯し、銀河を侵犯し、果ては宇宙の外側にまで向かうことだろう。そのような行為に何の意味があるのだろうか。内なる光、自己の内側へと目を向けなければ、我々は触れうざるべき領域を犯し、他者を傷付けることになるだろう。」
Qは最早聞いていなかった。この男は大した夢想家、いや否、妄想家と呼ぶべきか。
エレベーターは二階に着き、扉が開いた。男は即座に喋るのを止め、スタスタと歩き始めた。Qもまた彼の後に続く。
二人は煌びやかな照明に照らされた廊下を抜け、食堂に入った。
食堂の中央には長細い机が置かれ、色取り取りの食物が器に盛られている。ビュッフェ形式だろう。皿を持った幾人かの人間が器の周りに集まっている。天井にはシャンデリア。部屋の四方には清潔な純白のテーブルクロスが敷かれた丸机と椅子。疎らに人間が座っている。
初老の男はさっさと皿を取って自分の朝食を盛りつけ始めた。Qも彼に倣い、皿を取って自分の分を取り始めた。Qはどれにしようかと迷いながら、テーブルを見回す。和洋双方揃っており、ご飯もあればパンもある。魚もあれば、肉もある。デザート用だろうか、果物やヨーグルともあった。食物の一部はステンレスの皿に盛り付けられ、下から固形メタノールの火で温められている。
Qはやがてオムレツにシーザーサラダ、バターロールにコーンスープ、そしてウィンナーを取った。全てQの好物だ。
Qがそれらを取り終える頃には初老の男は既に席に着き、食べ始めていた。
Qは急いで彼の対面に座り、自分も食べ始めた。
初老の男の器にはフルーツしか盛られていない。Qは思わず、
「それだけで足りるのですか。」
と問うた。男は口の中のものを飲み下してから、口を開いた。
「ああ、足りるとも。一日に食事という行為は三度行われる。人間の生命を維持するために必要な栄養素の量もまたある程度計算可能だ。そこで、三回の配分を正確に考えると、今日の朝食すべきものはこれらの果物だけになったというだけのことである。問題は一度の食事の量ではない。バランスなのだよ。それに、食事とは生命維持活動であるとともに、娯楽の一つである。故に、一度に無理して取る必要などどこにもない。さらに、三度の食事で足りぬ栄養素が出た場合、サプリメント等で補えばよい。我慢する必要などどこにもない。食べたくないなら残せばよい。食べたいならもっと食べればよい。食事において我々人類は自由であるべきである。考えてもみ給え。一日三食で一時間は時間を使うだろう。人生の内で言えば二十四分の一だ。大した時間ではないかと思うかもしれないが、例えば釣りを趣味にするものを考えてみよう。平日は仕事があり、中々向かうことは難しい。やるとなれば休日だが、忙しい人間だと休日が二日あっても一日は動けない。最後に残った一日でもせいぜい七、八時間が関の山。準備時間や移動時間等大して楽しくない時間も考えると、実際に楽しい時間はもっと少なくなる。
台風等の日には川へも海へも近づけないからそもそも行うことが難しい。結局週間の内楽しい時間の合計は五、六時間といったところか。これは食事の時間よりも短いのだよ。つまりだね、一週間の内一回しか行けないような趣味の充実を図るよりも、食事の充実を図った方がはるかに効率が良いのだよ。」
Qはこの男が母と逆のことを述べていること、つまり食事は我慢してでも全て食し、他者への感謝を示すべきだという言説と逆のことを述べていることに気付いていたが、だからと言ってこの男を好きにはならなかった。この男のどこかに母と同じ高慢という性質があるのを直感していたからである。
Qは彼の話を聞き流しながら、食事に手を付けていた。どれもこれも、素晴らしい味だとQは思った。オムレツはふわふわで、ウィンナーの皮はパリッとしており、サラダの野菜は新鮮だった。バターロールはふわふわで食感は軽やか、コーンスープは上品な甘さを持っていた。
男はQの様子を気にする素振りを見せず、オレンジを噛み、リンゴを齧り、パイナップルを口の中へ放り込み、そして更に喋った。
「君、昨日列車の脱輪事故があっただろう」
「はあ。」
Qは当然知らなかった。
「線路に置かれた小石に乗り上げ脱輪して宙を舞い、山の斜面を滑り落ちることとなった列車はやがて木々に貫かれることとなった。しかし、どうやら列車の数が合わないらしい。車両も乗客も、一両分だけ足りないようだ。バラバラになって川にでも流されたんじゃないかというのが大方の見方だが、車両一両分の鉄塊を流せるほど大きな川はあの付近には存在しない。故に私が思うに、その車両はまだ宙を飛んでいるんじゃないかと思うのだ。極秘だがね、事故現場の近くには軍の燃料貯蔵庫があるようだ。爆発によって十分な加速がつけば第一宇宙速度に至ることは簡単だ。すると問題は現在列車が何処を飛んでいるのかということであるが、事故が起きたS市からこのホテルは約百キロメートルの位置にある。山の斜面の方向を考えるに、このホテルの方向に飛んでくるのは間違いない。後は飛ぶ速度次第だが、第一宇宙速度以上の速度で飛んでいるとすると、このホテルの上空を今日中に通過することになるだろう。」
QはS市からこのホテルが百キロだという男の言葉に内心驚いていた。S市はQの実家がある市の隣の市であった。ほぼ気を失っていたようなもののQにとってそれは移動できない距離であった。
Qはあの山小屋の夫婦に眠らされ、この男に攫われたのだろうか。例えそうだとしても、自分が男になるための時間は存在しないように思えた。
少なくとも、厄介な事になっているという確信がQの中に芽生えた。
いつの間にか、男の皿が空になっていた。男は一旦喋るのを止め、コーヒーを取りに行った。
Qは男が戻って来るまでの間に自分の皿を空にした。
男はブラックコーヒーが入ったカップを机に置くと、言った。
「そろそろ部屋に戻るとしよう。先に戻っていたまえ。私はこれを飲んでから戻る事にする。」
Qは命じられると、大人しく元来た道を戻り、エレベーターに乗った。
分かった事は、どうやら私は別人に乗り替わっているらしいという事。Qがそう思った次の瞬間、Qは突然身体が浮き上がるのを感じた。
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