舞い踊る言の葉
石上あさ
第1話
私の世界は、音を失った。
数ヶ月前に交通事故にあい、私は中途失聴者となったのだ。もちろん親も先生も戸惑っていた。けれど、言うまでもなく一番戸惑っていたのは他でもない私自身だった。
音を失った、と書いたから誤解を招いてしまったかもしれないけれど、実はまったくの無音、というわけでもない。まず耳鳴りがする。脳に糸のついた針をぶっ刺されて、その糸を引っ張られているような耳鳴りが絶え間なく頭の中でつづくのだ。なまじっか音の溢れる世界に身を置いていたせいなのか、ふいに意味の分からない幻聴に襲われることもある。
それらを抜きにして、じっと集中すれば、補聴器のおかげで音のようなものが聞こえないこともない。けれどそれらを言葉としては聞き取ることはほとんどできない。それでもなんとか会話をしようとして、私は何度も何度も聞き返し、相手はだんだん面倒くさそうな表情になる。そういう苦しみが重なって、やがて私は人と関わることをやめた。
だから、ろう学校への入学を勧められたときも、ぜんぜん気が乗らなかった。今の自分を受け入れられることすら難しかった私には、新しい世界への一歩を踏み出すことなど到底不可能に思われたのだ。けれど「仲間を見つけることができれば誰とも関われない寂しさを紛らわせられるかも」と言われ、ひとまず見学だけしてみることにした。
しかし。
見学開始の数分後には「来なきゃよかった」と思うことになった。それまで知っていた世界と何からなにまであまりに違うのだ。たとえば、いきなりパトランプが光り出したとびっくりすると、それは授業開始のチャイムの代わりだったり、階段の踊り場にはおっきな鏡が置かれていたり、授業や休み時間のおしゃべりもほとんど手話で行われていた。
ものすごいカルチャーショックだった。その国の言葉を一言も知らないのに、ひとりぼっちで外国に放り出された気分だった。しかも聴覚を失った状態で。
こんなことを言ってしまうのは、今のたくさんの友だちに失礼だということは分かっている。けれど、恥ずかしながら正直に気持ちを打ち明けることが許してもらえるなら、そのとき私は「自分はここでもは落ちこぼれるのか」と思ったのだ。
聴覚障害――たったひとつの、けれど致命的な理由によってかつての居場所を失った私は自分のことを「落ちこぼれ」だと思っていた。しかし、私は、私だけは落ちこぼれだったのに、そこにいた人たちは落ちこぼれなんかじゃなかったのだ。世間の「普通」とは違っていたけれど、自分たちならではの文化を築き上げて、そこで音のないおしゃべりを楽しんでいたのだから。そんな中で私は発声による他人の声を聞き取れないばかりでなく、手や指を使った彼らの「声」もまた聞き取れなかった。
私の意識は急に虚ろになった。視界が色を失って、なにもかもが私だけを置き去りにして遠のいていくような錯覚に襲われた。
私は、世界に拒絶されたんだと思った。
音のある世界も、音のない世界も、私の居場所を用意してくれはしなかった。この世のどこにも、私が身をおける場所などなかったのだ。
もう帰りたいと思ったが、鞄からスケッチブックを取り出して、わざわざそれを伝えるのも億劫だった。それに、両親なりに私を思ってここに連れてきてくれたことも十分分かっていた。ただ、やっぱりどうしようもない現実というのはどこにでも転がっているもので、私は両親にすら自分の思いの丈を正直に伝えたことはなかった。
たとえば、私がものをいちいち書くのは大変だろうという配慮から、両親は私にたくさんの質問を投げかけて、「はい」か「いいえ」で答えさせる。それが優しさと知ってはいても、言葉もろくに話せない二歳児みたいな扱いを受けた気がして、素直に喜べるようなものじゃなかった。
何もかもだるくて仕方なかった。人と関わるのも自分の想いを伝えるのも、紙とペンを取り出すことさえも。耳が聞こえる両親にはもちろん、生まれつき耳の聞こえない彼らにさえ途中からいきなり音を失くした私の気持ちなんて分かるわけがないのだ。
そんなことを考えているうち。
気がついたら、私は椅子に座っていて周りにはたくさんの生徒たちがいた。
帰りたいと言い出せないまま、色んな提案に適当にうなずいているうちに、どうやら昼休みにはいり、ここの生徒たちと交流することになってしまったようだ。
すると、なにも知らない生徒たちは見学者である私に無邪気に手話で話しかけてくれた。とてもいい笑顔だったので悪気なんてなくて、むしろとっても友好的なのは伝わってきた。ここではそれが当たり前なのも分かっている。ただ、それでも私は手話が一言もできないので、なにも言えずに戸惑い、
「あ、あの……」
と、うっかり口走ってしまった。(といってもちゃんと発声できたのか、自分でもたしかめようがないのだけれど)
その後あわててスケッチブック取り出して、
「ごめんなさい。私、手話できません」
と書いて見せる。
するとそれを見るやいなや、さっきまであんなに集まっていた生徒たちが蜘蛛の子を散らすように一目散に去って行く。そのあまりの急さに一瞬驚いたものの、次の瞬間には落胆が心に深く染みこんで、水を吸った服みたいに私の心を冷たく重くした。
ああ、やっぱり。私に居場所なんてないんだ。
ふさぎ込み、悔しくて、悲しくてうちひしがれていると、途端に今まで堪えていたやるせなさがこみあげてきてどうしようもなく泣きたくなった。
そのときだった。
俯いた視界の端に、一枚の紙切れが差し出されたのは。
ノートをぞんざいにちぎって、そこに鉛筆で殴り書きされていたのは、
「こんにちは」
というシンプルな言葉だった。
思わず私が顔をあげると、そこには大人しそうな男の子が、はにかみながら笑いかけてくれる姿があった。
そうして、きょとんと目を丸くしているうちにも、他にもたくさんのメモが差し出される。さっき急にいなくなったのは、自分の机に紙とペンを取りにいっただけのようだった。紙は本当に色んな種類があって、ノートの切れ端や、大きめの付箋や、可愛い猫の形のメモ帳なんてものもあった。それに書くペンも赤色、水色、緑と様々で、なによりもそれを書く筆跡の多彩さがここにいる人たちのひとりひとりの人となりをあらわしているようだった。
私はとりあえず、しどろもどろになりながら。
「初めまして、こんにちは」
とスケッチブックに返事を書き、名前や年齢なんかの自己紹介をした。
すると、
「手話できなくても、心配ないよ」
書かれた便箋が返ってくる。
「私もあんまりできないもん。だからみんなの話半分くらい分からない」
その女の子は、私と同じ中途失聴でここへやってきたのだという。
そして、その子はつづけて、
「でも、みんなとのおしゃべりはたのしい」
と書き、にっこりと微笑んだ
わたしは、はっとした。
その言葉に、表情に、それらに込められた想いに胸を打たれた。
すると、枝の先についた葉っぱみたいに、いくつものメモやノートの切れ端や便箋が差し出されてくる。
「これから、よろしくね」
とか、
「はじめまして」
とか。
そんな優しい言葉に触れたものだから、じわじわと視界がにじみ出した。やがて私の頬をあたたかいものが流れていった。
――彼らが声に出して言葉を発することは、あまりないのかもしれない。
けれどまぎれもなく、彼らにも、そして私にも、自分だけの「声」があるのだ。伝えたい気持ちや、届けたい言葉があるのだ。そして音に頼らずとも、それを届けることは十分できる。手話がまったくできなくても、相手の想いに触れることはできる。
彼らの表情は今まで耳にしてきたどんな言葉にもまして、雄弁に多くのことを物語っていた。彼らが私にくれた手紙に書かれた文字が、その筆跡が、とっても豊かに彼らの心を私に届けてくれたのだ。
そうか、そうだったのか。
たとえ音が失われてしまったとしても、世界は彩りに満ちている。
そこにペンと紙があって、互いに通い合わせようとする想いがある限り、この広く青い空の下に心を隔てるものなどなにひとつないのだ。
私は、世界に拒まれてなどいなかったのだ。
いつの間にか、あんなにも私を苦しませてきた耳鳴りが、すっかりやんでいた。
そして、私は紙とペンを手にする。
胸の真ん中からこみあげてくる、新しく芽生えた眩しい気持ちにつきごかされながら。彼らが私に差し出してくれた手を、握り返すことに決めたのだ。
さらさらと音もなくペン先が流れ、その軌跡から文字が生まれ出てくる。
「こちらこそ、よろしくね」
それから、私たちは何枚も何枚も手紙のやりとりをした。色んな人が色んな言葉でこんなことをいう。「手紙には手紙にしかないよさがある」と。まったくもってその通りだ。私も本当にそう思う。そして私たちは文字通り時間から見ても空間から見ても、ゼロ距離で手紙のやりとりをした。何度も何度も誰かに向けて気持ちを込めた手紙をしたためては、届いた手紙に返事を書いた。
それらの「コミュニケーション」を通して、少しずつ私はこの場所のこと、彼らのことをもっともっと知りたいと思うようになった。きっと覚えるのは大変だろうけれど、手話を習得して彼らと一緒におしゃべりをしたいとも思った。新しい形のおしゃべりの面白さは、きっと大変さなんて軽々と越えてしまうに違いない。
雨があがった私の視界は、明るく冴え渡っていた。
目に映るひとつひとつのものが輝いているようだった。
そして私は美しい幻を見た。
それぞれのペンで書かれた手描きの言の葉たちが、教室いっぱいに浮かび上がりポップにひらひらひらと舞い踊る――私の心の瞳には、そんな景色が見えるのだった。
舞い踊る言の葉 石上あさ @1273795
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