紙とペンと黒い犬

あじろ けい

第1話

「犬を飼い始めたんだ」

 来生が言った。


「犬? お前、アパートで独り暮らしだろう? 飼えるのか?」

「大家には内緒でだ」

「なんでまた犬を飼おうなんて思ったんだ?」

「むこうから勝手にうちに来たんだ」

「お前が犬を飼うとはな」


 はにかんだ笑みを浮かべながら、来生の手は紙ナプキンをいじっていた。鶴を折っているのだ。


 手持ち無沙汰になると来生は鶴を折る。紙でも布でも正方形でありさえすればいいらしい。長方形であれば端を切ったり、折りこんだりして無理やり正方形にし、折り鶴をつくる。


 高校生だった頃からの来生のくせだ。「また折ってるな」と言われてハッとするくらい、本人も無意識に鶴を折っている。僕たちが出会った高校時代にはすでに身についていたくせで、もっと前から気がつくと鶴を折っていると来生は言っていた。指先を動かしていると落ち着くのだそうだ。


 高校を卒業し、この春から僕等は別々の大学に通っている。僕は法学部、来生は経済学部に進んだ。太宰治に心酔していたからてっきり文学部に進むのだとばかり思っていたので、経済学部にしたと聞いた時は驚いた。文学部ではツブシが効かないからという理由を来生から聞かされた。


 大学生になって一か月、会って話でもしようじゃないかと来生の方から誘って、僕等は、来生の通う大学近くの喫茶店にいた。来生が手にしているナプキンは、フォークを包んでいたものだ。来生はナポリタンを注文し、僕はコーヒーだけを頼んだ。


「野良犬か?」

「たぶんな」

「どんな犬だ?」

「どんなって?」

「柴犬とか、そういう」

「よくわからない」

「雑種か」

「一日ごとに大きくなるんだ」

「子犬か?」

「うちに来た時には小さかった」

「大型犬の血が入っているのかもな。あっという間に大きくなるっていう話だから」


 出来上がった折り鶴は首や翼に勢いがなかった。張りの無い紙ナプキンだから仕方ない。


 次なる紙を求めて、来生の指先が注文票にかかった。僕は慌てて来生をとめた。財布をさぐって適当なレシートを二、三枚、来生に渡した。長方形からいくつもの正方形を切り出し、来生は鶴を折り始めた。


 来生は鶴を折りながら、僕はコーヒーを飲みながら、互いの新生活について語りあった。来生は、こっそりと文学部の授業に出ているという。文学への情熱が捨てきれないのかとからかったら、来生はふさぎこんでしまった。


「授業に出てみると案外つまらないと思った」


 そう言い捨て、来生は無心に鶴を折り続けた。


 見慣れた光景だ。ノートの切れ端、返された試験用紙、チョコレートの包み紙、銀紙……来生に捕らえられるとすべてが鶴になる。


「折った鶴はどうしているんだ」


 テーブルの上には大きさの異なる鶴がすでに二つ並んでいる。来生は三つ目の鶴にとりかかっていた。家にはさぞ大量の鶴があることだろうと僕は半ば呆れて尋ねてみた。


「捨ててるさ。でないと部屋中が折り鶴だらけだ」


 自嘲気味に来生は笑った。


「ほどいて紙に戻してからだけど。鶴の形のまま捨てるのは心苦しいんだ。生き物を捨てるみたいで」


 そう言ったそばから、来生は紙ナプキンの折り鶴をほどき始めた。手のひらをアイロンのようにしており皺をのばし、来生は紙ナプキンを二つに折って皿の下に挟んだ。


「気に入った鶴には目を入れてやるんだ。目を入れるとほどけなくなるんで、捨てないで済むから」


 僕はカバンをさぐってペンを手にし、レシートの鶴に目を入れてやった。

「これで捨てられなくなっただろ」

 来生は、目の入ったレシートの鶴を大事そうに持ち帰った。


 それが来生に会った最後になった。

 秋風が吹き始めた頃、僕は来生の訃報を受け取った。


 自殺だった。実家で首をつって死んだのだ。


 僕は喫茶店で別れてから一度も来生に連絡をしなかったことを悔やんだ。来生からも連絡はなかったが、新生活に追われて来生のことは頭になかった。

 


 *


 来生の棺には折り鶴が入れられてあった。目の入った折り鶴だ。体には文字が踊っている。新聞紙かと思ったら、手書きの筆跡だ。どうやら日記の一部らしい。黒い犬のイラストがちらりと見えた。読みたい気にかられたが、来生の体とともに灰になるのが一番だとこらえた。


「そういえば、黒い犬はどうなりました?」


 葬儀の後、僕は来生の母親に尋ねた。大家に内緒で飼っていた犬が主人を失ってどうなったのか気がかりだった。


「犬ですか? あの子は犬を飼っていたんですか?」


 来生そっくりの細面を歪めて、母親は逆に僕に尋ねた。大型犬の血が入っていると思われる雑種の野良犬を拾って大家には内緒で飼っていたらしいと僕は答えた。


「逃げたのかもしれません」

 あるいは来生が逃がしたのかもしれない。


 数か月後、ひょんなことから僕は黒い犬の正体を知った。


 黒い犬とは、英語でうつを意味する。ウィンストン・チャーチルが自身を悩ますうつ病をそう呼んだことに由来する。


 チャーチルの自伝を片手に、僕は叫び声をあげた。場所をわきまえろと何人もの人間が僕をふりかえり、強い目線で諫めた。僕はかまわず、図書館の机につっぷしてわあんわあんと泣き喚き続けた。

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紙とペンと黒い犬 あじろ けい @ajiro_kei

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