Side B Track 5

 出発前の申し送りで、今日は二台体制だと告げられていた。通常はJRと京成の津田沼駅の二か所で客を乗せるが、予約が多く一台では収まらない場合は、JRと京成でそれぞれ別にバスが運行する。従って、このあとJR津田沼駅を出発した山中のバスは、京成を経由せずにまっすぐ羽田空港を目指すことになる。


 バス停には山中の運転するバスを待つ行列ができていた。三十人ほどのうち、八割は制服姿の高校生だった。どうやら、予約がいつもより格段に多くなったのは、彼らが理由のようだった。

 バスを停めて外に降り立つと、学生が作りだす特有の喧騒が待ち構えていた。今日はにぎやかなドライブになりそうだ、と山中は思った。その方がありがたかった。車内が静かだと、自然と考え事をしてしまう。


 乗車が始まり、学生たちから一人ずつ乗車賃を受け取る。が、山中はすぐに妙な違和感を覚えた。彼らはみな山中と目を合わせ、会釈をしながら運賃箱にお金を入れるのだ。大半の乗客は運転手の顔すら見ない。山中は思わずサイドミラーに自分の顔を写した。制帽からはいつもより少しだけ疲れた目が覗いているだけで、これといって変わったところはない。


 学生は申し合わせたように最後列から席を埋めていった。その列が途切れると、数名の一般客が乗車した。最後に黒い野球帽を目深に被った青年を乗せ、山中はドアを閉めた。


 よし、と心の中で気合いを入れ、バスをゆっくりと発進させる。型どおりのアナウンスに加えて、今日は京成津田沼の駅には寄らないことを告げ、国道三五七号線を目指す。羽田空港に直行する場合、おのずと普段とはルートが異なってくる。いつもは左折する丁字路を直進すると、いつもとは違う風景が車窓を過る。


「すみません」

 国道十四号を跨いだあたりで、後ろから声を掛けられた。

「はい?」

 振り向くわけにもいかず、バックミラーを見やるが黒い帽子で顔は見えない。どうやら最後に乗った若い男のようだった。

「これ、いつもと違う道ですよね?」

「あ、はい。今日は京成津田沼駅には寄りませんので、まっすぐ三五七に出ます」

 バスが信号に捕まる。

「なるほど。今日は湾岸線はどうなんでしょう?」

「どう、と言うと?」

「今日は金曜ですから、都内に向かう車も多いんでしょうね。東京港トンネルあたりで渋滞しますかね?」


 そこで山中は初めて声の主に気づいた。意識していつもより低い声を出していたらしい。

「お前、何やってるんだ?」

 思わず後ろを大きく振り向いた。正司がキャップを取る。いつもの笑顔を浮かべていた。

「今日はお客さんだよ、純粋に。空港へ行くんだ」

「何をしに?」

「空港だよ? 旅行に決まってるじゃないか」

 交差する道路の歩行者用信号が点滅を始める。山中はアクセルに足を置く。


「山さん」と正司が呼び掛ける。「あの歌好きなんだよね?」

「歌?」

「うん。こないだ一緒に山さんの家で飲んだ時、歌番組見たじゃない? その時、山さんが歌ってた歌」

「俺が歌った? 歌ってたか?」

「歌ってたよ。他の曲は黙って見てたのに、一曲だけ一緒に口ずさんでた」

「覚えていない」

「きっとすぐに思い出すよ」

 信号が青に変わり、山中は右足に力を込める。バスがそろそろと動き出す。


「山さん」

「何だよ、こっちは仕事中なのを忘れるなよ」

「もう少し行くと右手に高校がある」

「それがどうした?」

「そこの校庭には綺麗な桜の木が一本ある。今は満開だ」

「桜?」

「うん。だから、もし」と正司はそこで息を継ぐような間を開ける。「もし、次の信号で停まったら、その桜を見てほしい」

「何を言ってるんだ?」

 バックミラーに問いかけたが、正司は答えない。ただ、いつになく真剣な眼差しが、鏡越しに山中の目を捉えていた。山中は正司の言ったことを反芻する。


 もし、バスが停まったら桜を見てほしい。

 大切な話があるんだ。

 山さん、娘がいるよね?


 やがて右手に大きな白亜の建物が見える。学校だ。前方の信号は青。そこで山中は、信号が押しボタン式であることに気づいた。右の歩道で、女性が今まさにボタンを押そうとしている。どういうわけか、山中のバスを見つめながらタイミングを計っているように見えた。まるでバスを止めるために信号を変えようとしているみたいに。


 まもなく女性がボタンを押した。が、信号はすぐには変わらない。数秒遅れて、青から黄に変わる。微妙なタイミングだった。アクセルを踏めば通過できる。反対に弱めれば、信号はバスの数メートル前方で赤に変わるだろう。


 これは俺の選択だ。山中は思った。

 何が起きているのかはわからない。が、俺の知らないところで何かが行われている。そして、その何かを完成させる最後のパズルのピースが、俺に委ねられている。

山中の右足が左にずれる。バスの速度が落ちるのを感じて、正司が顔を上げた。


「完璧だよ」と漏らす。「ありがとう、山さん」

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