Side A Track 5

 香夏子はロングコートの襟を合わせながら、その場で軽く足踏みをした。花冷えの朝だった。


 数週間前に夕輝が口にした「一生に一度のお願い」を遂行するために、香夏子は自らが教鞭を振るう高校の前にいた。少し目を上げれば、見事に満開となった桜の花が頭上を覆っている。一枚一枚は淡いピンクをした花弁が集まり、重なり合って、絵画のような濃淡を作り出している。


 夕輝のお願いとは、香夏子のためのお願いだった。

 写真を撮ってインスタグラムとかフェイスブックとか、そういった不特定多数の人の目に触れるものに載せれば、香夏子の父親が見ることもあるのではないか。だから写真を撮らせてほしい、というのが夕輝のお願いだった。


「ニコラス・ケイジ似のおっさんがフェイスブックなんてする? だいたい、写真ならいくらでもあるじゃない?」と香夏子は疑問を呈したが、「こういうのは気持ちが重要なんだ。使い回しじゃ、叶うものも叶わないよ」と夕輝は声高に異を唱えた。


 さらに不思議だったのは、夕輝が撮る場所から時間、さらには服装まで指定したことだった。殊、服装には断固反対したが、最後は夕輝の熱意に押されて気恥ずかしさを捨てる決意をした。何より、すべては私のためにしてくれていることなのだ、と自分に言い聞かせた。


「香夏子、そろそろだからコート脱いで」

 どこから持ってきたのか、デジタル一眼レフを首からぶら下げ、にわか新聞記者のような出で立ちの早紀が言った。

「どうして夕輝は来なくて、早紀が来るのよ」

 夕輝と早紀に関する疑惑は晴れないまま、約束の場所に早紀が現れたものだから、香夏子の心は波立っていた。

「だから言ったじゃない。急に仕事が入っちゃったから、代わりにカメラマンをお願いされたのよ」

「なんで早紀なのよ?」

「さぁ。家に帰って彼に聞いてよ」


 そう言って、道路の先に目をやる。そう言えば、早紀はずっとあちらの方を気にしているようだった。ちょうどJRの駅のある方向だ。

「さっきから何を気にしてるの? 誰か待ってるの?」

「別に待ってないけど……ほら、早く脱いで!」

「脱げ脱げって、あんたはエロカメラマンか」と文句を言いながらもコートを脱ぎ、置き場所に困ったところで、早紀がそれを受け取った。


 しばらくうっとりしたような表情を浮かべていた早紀だったが、思い出したように視線を転じ、「あ、来た!」と声を上げた。なぜか少し先の横断歩道に向かって走っていく。

「来たって、何が? てか、どこ行くのよ?」


 早紀の視線の先を追うが、リムジンバスがこちらに向かって来ているほかは、特に変わった様子はない。歩行者用信号の押しボタンに手を添えたまま、まるで念で事故でも起こそうとしているみたいにそのバスを睨みつけている。まもなく手が微かに動いた。ボタンを押したらしい。ややあって車道の信号が黄色に変わる。通り抜けようと思えば抜けられたタイミングだったと思うが、バスはしばらく惰性で進んだ後に、スピードを落とし始めた。


 やがて、停止線を少し越えたところで、ブレーキ音とともに停車する。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る