Side B Track 4

 ロッカーの扉を閉めると、山中はため息を一つ吐いた。


 どこか地に足のつかぬ思いで仕事へと向かう。喫煙室の横を通り過ぎようとした時、部屋の中に元木の姿を見つけた。こちらに背を向けて、窓の外を眺めている。山中は腕時計を一瞥し、まだ始業までに余裕のあることを確認してから、喫煙室の扉を押した。


 声をかける前に向こうが山中に気づく。わずかに挨拶の意を含んだ表情をすると、すぐに窓の外に目を戻す。山中は横に並ぶと、同じように窓の外に目をやった。

 いつの間にか、季節は春だった。麗らかな日差しの中を、真新しいランドセルを背負った子供たちが掛けていく。


「春だな」と山中が呟く。

「今年は桜の開花が早いらしい。この辺はもう満開だとよ」

 そう言われて視線を動かしてみたが、見える範囲には桜の木はないようだった。

「何かあったのか?」

「え?」

 山中は反射的に自分の背後を見回した。特に何かが起こっているような騒々しさはない。

「何が?」

「あんただよ」

 そう言って顎でしゃくる。「最近上の空だからよ。何かあったのかと思って」

 山中は驚いた。元木に自分の微妙な心の揺らぎが見透かされているとは思わなかった。

「失礼だな」とすかさず元木が言う。「そんな繊細な男だとは思わなかった、と顔に書いてある」

「そうか」と山中は笑う。「それは失敬」


 背後でタバコを吸っていた若い男が退室し、山中と元木の二人だけになった。元木は短くなったタバコを灰皿に落とし、二本目に火をつける。

「今年でいくつになる?」

 なぜ今更そんなことを訊くのかと訝しんだところで、娘さんは、と元木が続けた。心臓が高く鳴るのを山中は感じた。

「今年で二十六になる、はずだ」

 はず、などではない。毎年確かめていたことであり、数日前の夜にも改めて数えたばかりだった。

「名前は何と言ったかな?」

「……香夏子だ」

「そうだった。いい名前だから覚えてたんだ」

 覚えていなかったじゃないか、と指摘する余裕は山中にはなかった。長い年月をかけて忘れようとしてきた過去が、ここ数日で掘り返されている気がした。いや、違う。俺が過去から逃げ続けてきただけか。出口のない思考が始まりそうになるのを、慌ててかき消した。自分にできることはない。ただ、幸せを願うだけだ。


「そろそろいいんじゃないのか?」

「え?」

「隠れるのをやめてもさ」

「別に隠れてなんかないさ」

 またもや元木に心の内を読まれた気がして、思わず声が荒くなった。

「じゃあ、お前は娘さんにきちんと正面から『おめでとう』と言えるのか?」

 その問いに山中は言葉を詰まらせる。「それは隠れてるのと一緒だ」


 山中は頭に血が上るのを感じた。元木を殴るのか? 自分に問いかける第三者がいた。しかし次の瞬間、感情は暴力ではない別の形で噴出する気配を見せた。山中は慌てて顔をそむけ、そのまま出口へと足を向けた。


「はは、お前に何がわかるんだよ!」

 できるだけ軽口に聞こえるように言ったが、その声は震えていた。

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