Side A Track 4
沸騰した湯の入った鍋にパスタを広げ、タイマーを七分にセットし、火加減を調整したところで香夏子は一息ついた。リビングを盗み見る。夕輝はワイドショー番組を無表情で凝視していた。テレビ画面には「都内の激安・激旨グルメ」というテロップとともに鰻の蒲焼きが大写しになっていたが、夕輝は鰻が嫌いだから、テレビに夢中というわけではなさそうだった。
このところ夕輝は様子がおかしかった。話しかけても上の空のことが多かったり、気がつけば「イッツ・ア・スモール・ワールド」を口ずさんでいたりする。なぜ最近その歌をよく歌っているのか、と訊けば、世界の平和を祈ってるんだ、と真剣な顔で答えた。
その時、まるで頭の先に結ばれた糸を天井裏から引っ張られたみたいに、夕輝が突然立ち上がった。ポケットから携帯電話を取り出しながら、香夏子の後ろを通り過ぎる。
「どこに行くの?」
「仕事の電話だ」
どこまで行くのかと思えば、そのまま玄関のドアを開けて、外に出ていった。
怪しい。
香夏子は抜き足で玄関まで行くと、夕輝のスニーカーを足場にして覗き穴を覗いた。その限られた視界の中に、夕輝の姿はない。そのまま扉に体重を預け、耳をくっつける。ひんやりとした感覚がある。
「返事はどう?」
夕輝の声が辛うじて聞こえる。「別に飛行機に乗ってどこか行ってくれって言ってるわけじゃないんだ。ドライブだと思って、付き合ってくれない?」
ドライブ?
これはもしかして、と香夏子は思う。
「席に座って、僕が歌ってほしい時に歌ってくれるだけでいいんだ」
香夏子は思わず頭を抱えたくなった。会話の内容にショックを受けたのではない。もう少しうまい誘い方があるだろうと情けなくなったのだ。
しばらく短い相槌が続いた後、「また連絡するよ」と夕輝が言った。もう少し、と香夏子は唇を噛む。尻尾を確実に掴むには、もう少し具体的な証言が欲しい。
その時、背後で鍋の吹きこぼれる音がした。思わず舌打ちが漏れる。こんな時に。香夏子が仕方なく右耳を扉から引き剥がした時、夕輝の言葉が辛うじて転がり込んできた。
「くれぐれも香夏子にはバレないようにね」
香夏子は大股でキッチンに戻ると、ガスコンロの火を消した。鍋の湯は急速に静まっていったが、それとは裏腹に香夏子の内心は煮えたぎらんばかりだった。
どうやって一泡吹かしてくれよう。
当の本人は部屋に戻ってくると、何事もなかったかのようにソファに腰掛けた。おなか減ったー、と間の抜けた声を上げる。
夕輝の最後の言葉が、耳に蘇る。
「くれぐれも香夏子にはバレないようにね」
待てよ、と香夏子は動作を止める。それはつまり、相手の女も私のことを知ってるということか?
「このパスタ、すごく辛いよ」と、ホットソースがふんだんにかかったペペロンチーノを食べながら夕輝が訴える。その顔はすでに涙目だ。
「そう?」と涼しい顔をする香夏子のペペロンチーノは、もちろん普通のペペロンチーノだ。
「ところで、さっきの電話は誰から?」と何気なさを装って探りを入れる。
「仕事だよ」
「用件は何だったの?」
「勤務の変更について」
嘘なのは明らかだった。先程の会話が何かの暗号なら話は別だが、わざわざ勤務変更を暗号化して伝える必要があるとは思えない。何より、香夏子は動かぬ証拠を手に入れていた。古典的で一般的だが、最も確実な方法だ。夕輝がトイレに立ったのを見計らい、携帯電話を盗み見たのだ。
着信履歴には「川野先生」の四文字が並んでいた。一瞬意味がわからず、四字熟語かと思った。しかし電話番号を確認すれば、それは間違いなく香夏子の携帯に登録されている早紀の番号と同一だった。
初めに浮かんだ疑問は、「いつの間に?」だった。夕輝と早紀は、つい一週間ほど前に知り合ったのではないのか。夕輝が突然学校に顔を出した、あの時だ。
美人で歌がうまいなんていいよね。彼氏いるのかな?
僕が歌ってほしい時に歌ってくれるだけでいいんだ。
歌。まさか本当に、早紀の歌声に惚れたのか。
「それよりさ」と香夏子の思考など露知らず、夕輝は涙目のまま話題を変える。「一生に一度のお願いがあるんだ」
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