Side A Track 3

「桐野せんせ」

 追試の試験結果を前に頭を抱えていたところを呼び掛けられた。誰かと思えば、早紀がにやついた顔を覗かせている。

「どうしたのよ? 川野先生」

「お客様がお見えですよ」

「客?」

 首を傾げると、早紀の後ろから夕輝が顔を出した。

「ちょっ、何してるのよ」

「職場見学」

 驚きのあまり「ここ、学校よ」とわかりきった指摘をすると、はたして「だから来たんだよ」という答えが返ってくる。

「ごゆっくりー」と言いながら早紀が扉を閉めた。夕輝は無人の職員室を物珍しそうに眺めると、隣の早紀の席に座る。


「何しに来たの?」

「いや、香夏子がどんなところで働いてるのか見てみたくって。あ、ここ、さっきの音楽の先生の席? えっと……」

「川野先生」

「そうそう。美人で歌がうまいなんていいよね。彼氏いるのかな?」

「なに鼻の下伸ばしてんのよ」

 ディズニー映画以外にも惚れる男がいましたよー、と心の中で早紀に報告する。

「あれれ、ひどい点数だね」

 香夏子の机の上に並んだ答案を指差す。「みんな赤点じゃん! こりゃ追試だね」

「これが追試」

「あー、じゃあ留年だ。来年こそは頑張ろう!」

 会ったこともない生徒たちにエールを送っている。

「で、何しに来たの?」


 わざわざ世間話をするために来たわけではないだろう、と香夏子は睨んだ。夕輝は何か言いにくいことを言い出す時に、普段とは違うシチュエーションを作ろうとする。二か月ほど前には、「香夏子が気に入っていたグラスにひびを入れてしまった」ということを葛西臨海公園の観覧車の中で告げられた。


「実は結婚式のムービーのことで聞きたいことがあって」と言いながらUSBをパソコンに挿し、画像ファイルを開く。「これは誰?」

「私とお祖父ちゃんよ、父方の」

「お父さんのお父さんか」と妙な言い回しをし、「なるほど、だから似てるんだ」と納得した顔をしてる。「撮ったのは誰?」

「さぁ、覚えてないわ」

 別の写真を開く。

「じゃあ、こっちのは誰が撮った?」

「……私とお母さんが写ってるから、父親かしらね」

『お母さん』と『父親』。無意識に使い分けた二つの呼び名に込められた微妙な感情に、香夏子自身の心が少しだけ温度を下げた。


 一定のリズムで写真を繰った後、「でもさ、お父さんが写ってる写真はないね?」と夕輝が呟いた。それか、と香夏子は悟った。隠すつもりはなかったが、何となく言いそびれていたことだった。

「言ってなかったかもしれないけど、うちの親、再婚なの」

「あ、そうなんだ」と夕輝はパソコンの画面から目を離さずに相槌を打つ。

「私が小学校入ってまもなく両親が離婚して、今のお父さんと結婚したのはその数年後。きっと離婚の時に、父親が写ってる写真は処分したんでしょうね」

 ふぅん、と言ったきり、夕輝は言葉を続けなかった。USBを抜く。そのまま立ち上がり、「あ、ここからグラウンドが見えるね」と言いながら、窓際へ歩み寄る。

「ねぇ、あそこに生えてるの、桜だよね?」

「そうよ」

 香夏子の席からは校庭の様子は見えなかったが、景色は容易に頭の中に再現できた。


 野球場のバックフェンスの脇に一本の桜があった。大人の腕でやっと幹を抱え込めるかどうかという大木で、毎年見事な花を咲かせる。今年もあと数週間で開花を迎えるだろう。

「立派な木だね。綺麗な花を咲かせるんだろうな」

 満開の桜を想像しているのかもしれない。随分と長いこと、夕輝はそのままの姿勢を崩さなかった。


「香夏子」

 夕輝が振り向きざまに呼び掛ける。「お父さんに……本当の父親に会いたい?」

 そう聞かれることは予想していた。それは香夏子自身が自分の胸に何度となく問いかけた言葉だった。

「会いたくはない」と香夏子は言い切った。「会っても、きっと何を話したらいいかわかんないだろうし、それにがっかりすると思う」

「がっかり?」

 香夏子は頷く。

「だって、父親がリチャード・ギアなら話は別だけど、どう考えてもただのおっさんでしょ?」

「リチャード・ギア似のおっさんかもしれないよ?」

「私の数少ない記憶が確かなら、どちらかと言えばニコラス・ケイジに似てたわ」

 そうかな、と夕輝は天井を見上げた。


「とにかく、あの人がどこで何をしてるのか、私は別に知りたくない。私の『お父さん』は現実にちゃんといるし、『父親』は記憶の中に生きてる。それでいいのよ」

「そっか……」と夕輝は静かに呟いた。それからすぐにいつもの笑顔になる。「そろそろ帰ろっか?」

 うん、と香夏子は席を立つ。が、そこで動きを止め、何かを考えるような顔になる。

「でも、例えば、私が新聞とかテレビに出て、それをあの人がたまたま見つけて、『あぁ、元気にやってるんだな。きれいになったな』なんて思ってくれることがあるなら、それはそれで素敵な気がする」

 夕輝が、くすっと笑った。

「うん、すごく素敵だね」


 席を離れようとして、ふとデスクの上の答案が目に留まる。追々試してやるか。香夏子は生徒たちの顔を思い浮かべながら、人差し指の爪で答案を弾いた。

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