Side B Track 2

「やっぱり経験なのかなぁ」とほっけの身をつつきながら、正司は独り言のように呟く。

 山中は大根おろしに醤油を垂らしてやる。

「やっぱり経験なのかな?」と今度は山中に尋ねる。

「まぁ、そうなんだろうな」

「でもいくら三十年もハンドル握ってるからって、渋滞が発生するかどうか予想できる? それも場所と所要時間までどんぴしゃに」


 山中が羽田空港の第二ターミナルに到着したのは、八時四十五分を回った時だった。山中の言った通り、まもなく湾岸線西向きは東京港トンネル入り口で渋滞が始まった。自然渋滞だった。


「東京港トンネルは渋滞の名所だ。三日に一日は渋滞してる。別に驚くことじゃない」

「三日に二日は渋滞してないってことでしょ?」と正司は指摘する。「どんなベテランの野球選手だって、試合展開は当てられないよ」

「野球とは訳が違う。渋滞に運や偶然はない。常に然るべき理由があって起こるんだ」

「じゃあ、今日の渋滞の原因は何?」

「車の数が多かったことだ」


 正司は大根おろしを運んだ箸を噛みながら、冗談はやめてよ、という顔をした。

「山さん、もし山さんが野球チームの監督だとするでしょ? それで、試合後のインタビューで『今日の勝因は何ですか?』って訊かれたら、『点を取ったことです』って答える? ファンいなくなるよ?」

「だから野球とは違うって言ってるだろ? 渋滞の一番の原因は、許容量以上の車が流入することなんだ。三分に一台しか車が通らないんじゃ渋滞のしようがない」

「そりゃそうだけど。じゃあどうして、高速に乗る前から車の数が多いってわかったの?」

「今日は金曜だ」

「昨日は木曜で、明日は土曜だからね」

「金曜日は他の平日と比較しても、早朝に都心に向かう車の量が多い。事実、京葉がすでに混んでた」

「あぁ、元さんが無線で言ってたね」

 そう言って、正司は自分の横で船を漕いでいる元木を見やった。「元さん、喋らないからもう少しでいること忘れるところだったよ」

 存在の危機ですよー、と正司が元木の耳元で騒ぎ立てる。うるせぇな、と元木は首を振る。


「京葉が混んでると湾岸も混むってこと?」

 正司は元木の様子を見て面白がりながら、山中との会話を続ける。

「そうとは限らないが、都内に向かう車両が多いってことには違いない」

「到着時刻が当たったのは? 勘?」

「あの時間から渋滞が始まるとすれば、到達するまでに伸びていたとしてもせいぜい二、三キロ。たいした渋滞にはならない。それで当たりを付けたのさ。もちろん、どんぴしゃだったのは偶々だけどな」

「経験に基づいた勘か……」

「お前は、勘、勘、うるせぇな」と言ったのは元木だ。

「あれ、どうしたの? いきなり存在感発揮しちゃって」


 正司は手に取った枝豆を元木の前に差し出す。元木は、おそらく無意識だろうが、それを受け取ると口に運んだ。正司がもう一つ差し出すと、それも大人しく頬張る。動物園のキリンみたいだ、と正司が面白がる。

「そんなに勘が好きか?」

「だって、かっこいいじゃないか?」と正司は目を輝かせる。「ただの山勘じゃなくて、経験に基づいた勘だ。経験がないと当たらない勘。プロの勘。山さんの勘だ」

 言っているうちに興奮してきたようで、誰も頼んでいないのにビールを一気に飲み干す。

「山さんの勘で、略して山勘ってか? お前うまいこと言うな」

「俺は言ってないけど」


 二人のやり取りを聞きながら、正司というのはつくづく不思議なやつだ、と山中は思った。

 同じバス会社に勤めてこそいるものの、実際にハンドルを握る山中や元木のようなドライバーと、正司のようなバスに指示を出す「コントローラー」との間には、無線でのやり取りのほかにはほとんど接点がない。交流と呼べそうなのは、年に数回の懇親会という名目の合同飲み会くらいのものだった。


 思えば、山中が正司と出会ったのもその懇親会だった。偶々同じテーブルになった山中に、今と変わらぬ人懐っこさで話しかけてきたのが正司だった。それほど深い話をした覚えもなかったが、それ以来どういうわけか、正司は時たま山中を飲みに誘うようになった。


 今日も一日の乗務を終えて配車センターに戻ると、それを見計らったかのように正司から電話があった。用件は大方予想がついたが、山中が電話口に出るなり、案の定「山さん、今日の夜空いてる? 飲みに行こうよ」と言ってきた。誰かほかに来たい人がいたら連れてきていいよ、とも言われたが、突然そう言われて山中が誘うことができるのは同じ年代の元木くらいなものだった。

 待ち合わせの品川駅で二人の顔を見ると、正司は嬉しそうに「お馴染のメンバーだね」と言った。


 会計の時になり、三人はいつもどおり割り勘で勘定を払う。最初のうちこそ、年上の務めを果たそうとする元木と正司の間でおきまりのすったもんだが繰り広げられたが、正司は決して引かなかった。そのうち三人とも面倒くさくなり、これならおとなしく割り勘をした方がいいという結論に落ち着くこととなった。


 財布をしまいながら立ちあがった山中の足下に、一枚の紙片が落ちた。

「山さん、何か落ちたよ」

 そう言いながら、正司が拾い上げる。それは写真だった。振り向いた山中はおよそ今まで目にしたことのない俊敏さで、その写真を正司の手から奪う。

「悪い」

 正司がその写真を目にしたのは一秒にも満たなかったが、その絵柄ははっきりと脳裏に刻まれた。

「おい、どうした?」

 山中の問いかけに反応を示さず、正司は自分の指の先の中空を見つめている。

「おい!」

「どうした?」

 幾分荒くなった山中の声に、先に座敷を出ていた元木が振り返った。やっと正司の目の焦点が二人に合う。

「ううん、何でもない。ちょっと飲み過ぎちゃったみたい」


 そう言って取りつくろうように笑顔を浮かべた。

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