これは私の片想い【恋愛】

 朝食の用意をしていると、背後で起き上がる気配がする。


 振り返れば、彼は二日酔いの頭痛に顔を顰めながら、眉間に皺を寄せてこちらを見遣っていた。


「すまない…」


「いえいえ。何を仰いますやら、先生」


 少しの悪戯を含んで言えば、幼馴染の近藤健一は「ハーッ」とこの世の終わりのような絶望さで溜め息を吐く。


「僕は昨晩、君に絡んだりしなかったかな?」


 お酒で記憶を失くして起きた日は、彼は必ずそう尋ねた。


「大丈夫よ、健ちゃん。それに私が負ける訳ないでしょ」


 幼馴染だが私の方が3歳年上。女相手に腕力では手を抜いてしまう彼には、例え殴り合いでも喧嘩に負けた事はなかった。


「噂にでもなったらどうするんだ。また川上さんの所に泊まったんですってね、なんて言われて」


「なると思う? あなたの方針に文句言うの、私だけだよ? 医師、看護師、全てが近藤先生を信望してますから」


「君以外な」


「まあね」


 小児外科医である彼は、若くして難しい手術を幾つも成功させていた。


 希望ある小さな命を幾つも救ってきたと同時に、全力を尽くしたとは言え、救えなかった命もある。


「近藤先生でダメだったなら…」


 仕方ない、誰にも救えなかったんだ、と自分に言い聞かせるように泣く親を何人も見てきた。


 私達看護師や彼達医師は、もちろん神様じゃない。どう頑張ったって、願ったって、救えない命もある。それは判っている。


 私が気に食わないのは、そこじゃない。命を預かっている筆頭である執刀医の彼が、手術している対象をまるで『物』であるかのように思っているのが気に入らないのだ。


 失敗しても、手も震えない。涙も流さなければ溜め息も吐かない。救えなかった怒りに囚われる事もなく、ただ淡々と開いた箇所を縫合して終わる。


 手を合わせる様子も、事務的にしか見えなかった。


 親御さん達がそれに気付いていない事だけが、救いに思えた。




「全力を尽くすのに、感情は邪魔なだけだ」




 昔はそんな人じゃなかったと食って掛かった私に、彼は冷ややかにそう返した。


「救えるか救えないかの瀬戸際に手が震えてどうする。涙で目が霞んでいて、どう出血を止めてやれる? 終わった手術に動揺して、次の手術で失敗したらどうなる」


 判ったような口を利くなと、皆の前で言い放った。


「確かに……一理あるよね」


 そう小声で言い合うスタッフ達に、「こんなのは欺瞞よ」と私1人が唇を噛んでいた。


 とにかく完璧で、皆の憧れである近藤医師にはしかし、困った悪癖があった。

 酒癖が悪いのだ。


 隣で飲んでいたサラリーマンに絡んでいったり、スナックのママに喧嘩をふっかけたり。


「昨晩近藤先生とバーで飲んでたら、突然泣き出しちゃって。幻滅したわよ」


「お酒さえ飲まなかったら素敵なのに」


 こんな調子で、彼と飲みに行こうなんて相手は、いなくなってしまった。


「よく一緒に飲めるね」


 感心したように言ってくる看護師達には「そう?」と返す。


「もっと恥ずかしい姿知ってるから。小さい頃なんか私の前でお漏らししてワンワン泣いて」


「止めてーッ!」


 これ以上幻滅させないで……とよろめく彼女達を横目に笑った。




「どうなっても知らないぞ」


 呆れ顔の健ちゃんに、ワインを注ぐ。


「まあまあ。独りで飲んでも寂しいし」


 他人に迷惑をかけたくないから、もっぱら彼とは私の家で飲む。


「アヤマチが起きた事もないし?」


 チロリと見て言えば、ゴホッと彼が咽る。「当たり前だ」と睨まれた。


「酒の勢いで手を出す男にだけは引っ掛かるなよ」


 こういう時だけ、まるで年齢が逆転したように私の頭を叩くのだ。




 そうして――。




 夜も更けて、瓶が何本か空いた頃。ようやく『彼』が現れる。


「あの子の手術は3日後だろう? お母さんにもっと長く居てもらいたいみたいなんだ。だけど弟もいるし懸命に働いてくれてるからって、我儘言わずに堪えているらしい」


 母親もきっと、仕事も手につかない状態だろう…。


「救ってやりたいよ、この手で」


 そう言って握る彼の手が、震えていた。


「救うんでしょ? 健ちゃんが」


 返せば、小さく笑って拳に顔を埋める。そうして小さく肩を震わせた。


「ああ、きっと。必ずだ――」


 そうしてあの子に、母親と過ごす沢山の時間をプレゼントする。




 見知らぬ子供の為に、父親なら早く帰ってやれと、そんな母親でどうするんだと、喧嘩をふっかける彼が好き。


 お酒の力を借りてしか現れてくれない『彼』は、不器用で泣き虫で、うっかり私の前で弱さを見せたりする。


 私以外の誰にも、見せたくないなと思ってしまう。




 ねぇ、普段の健ちゃんの中にも、彼はちゃんと居てくれる?




 答えを出せずに、私は今夜も健ちゃんを飲みに誘う。


 ただ、大好きな彼が、消えてしまったりしないように……。



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