23.中庭


 千春は竹箒を持ったままベンチに座っていた。空はけやきの枝葉に覆われて見えづらかった。木漏れ日が揺れると、涼しい風が無許可に彼女の溜め息をさらっていった。

 清掃の時間はとっくに過ぎていた。今日は担当教諭が来なかった。年配の教師で、不在なのはよくあることだった。来ない理由は分からないが、千春が困ることはなにもない。

 強いて言えば、誰かに区切りをつけてもらわなければ、いつまでもこのベンチに座ったままかもしれないという予感があった。その不安は時間が経つにつれて徐々に輪郭をはっきりさせた。彼女は清掃時間中ずっと座っていて、今もそうだった。すっかり腰が重くなり、立ち上がるタイミングを逸していた。

 向かいのベンチには健太のスクールバッグが置きっ放しになっている。彼は清掃が始まるや否や、「トイレに行ってくる」と言ったきり戻ってきていない。


 千春はベンチの脇に竹箒を立てかけた。それから、となりに置いていたスクールバッグを開き、売店で買ったピザパンを取り出して食べ始めた。

 以前もがみ荘で、夏希がピザトーストを作ったことがあった。焼きたてでおいしかった。このピザパンは冷えていた。正確には常温だが、熱々でなければ似たようなものだった。味自体は悪くないはずなのに、今はあまり味が感じられなかった。

 売店に戻れば電子レンジを借りられるが、中庭から向かうには骨が折れる距離だ。そういえば、向かいのベンチは日なただった。健太のスクールバッグは日差しに焼かれ、くたくたにうなだれている。千春はピザパンを持ったまま向かいのベンチに移ることを考えた。が、行動には移さなかった。木下闇のベンチに深くもたれたまま、常温のピザパンを粛々と食べ進めた。


 最近、夏希はあまり料理をしなくなった。ご飯だけは炊いていたが、それは就寝前に歯を磨く時間のような、習慣化された行いに過ぎなかった。少なくとも千春にはそう見えた。おかずはスーパーの惣菜など、出来合いのものばかりが食卓に並ぶようになった。

 千春に苦言を呈すだけの筋合いはなかった。ただ一週間ほど前には、それとなく、またコンビニ弁当でも買いに行こうと誘ったこともあったが、夏希は気乗りしない様子だった。結局、夏希とはもう二週間以上、一緒にコンビニへ行った覚えがない。

 ピザパンを食べ終わったあと、スクールバッグから取り出したスプライトのキャップを開けた。プシュッという音は聞けなかった。中身はもう三分の一ほどになっていて、炭酸はほとんど抜けてしまっていた。千春は薬でも流し込むみたいに一気に飲み干した。甘ったるさだけが舌の上に残った。


「西城さん」


 不意に、千春を呼ぶ低い声がした。

 彼女は素早く顔を上げたが、夏希ではなかった。男子水泳部の、橋爪だった。

 夏希がここに来るはずはない。千春がついた嘘を、夏希はなに一つ勘ぐることなく真に受けていた。充分に分かっていた。

 分かっていたはずだった。


「まだ残ってたんだ。掃除?」


 ベンチのそばまでやってきた橋爪は、いつの間にか地面に倒れていた竹箒を指差す。千春は「ううん」とかぶりを振って、それ以上はなにも言わなかった。


「じゃあ、それは?」


 案の定、橋爪が追及してくる。


「掃除で使って、そのまま置いてるだけ」


 千春は手短に答えた。

 橋爪は「ふぅん」と納得したようだったが、そのまま立ち去ろうという気配はなかった。千春も、そんな期待はしていなかった。


「ここでなにしてるの?」


 やはり、橋爪は質問を続けてくる。彼はとにかく質問の多い男子だった。


「掃除してた」


 千春は端的に答えた。しかし、こういう答え方が、橋爪からの問いかけを増やしてしまう要因であることは分かっていた。

 分かっていながら千春は、愛想笑いを浮かべて飽きられるのを待つ、そんな手立てを選択するしかなかった。


「そっか、ここが、中庭が担当なのか。楽?」

「さあ。あんまり、ちゃんとやらんけん」

「ああ、確かに西城さん、苦手そうだよね。俺は、マイペースな感じで、いいと思うけど」


 聞き流していた千春でも、橋爪の言葉の不自然さには容易に気づけた。けれどそれは日常茶飯事だった。彼が千春を褒める時は大抵、前後の文章との関係性があやふやになる。千春が人を殺しても今の彼なら褒めるのかもしれない。

 橋爪は終始、笑顔だった。なにがそんなに楽しいのか千春には分からなかった。分からないまま愛想笑いを返すことは苦痛だった。


「となり、いい?」


 そう訊きながらも、橋爪はもうほとんどベンチに座る体勢を取っていた。千春は遅れ気味に頷いて、となりに置いていたバッグをどけるそぶりをした。実際にはどかさなかったため、橋爪はバッグのとなりに腰を下ろす形となった。


「副部長の方、どう?」


 今日の彼は普段よりも質問が多かった。千春の目の前に来て以来、果たして質問以外の言葉を口にしたことはあっただろうか。千春はそんなことを考えた。


「なんで?」


 返答に窮した末、千春はそう訊き返した。


「いや、大変かなと思って。女子水泳部は」


 わずかに、橋爪の笑みに陰りが見えた。

 千春は「うーん」と、わざとらしく悩み、


「別に。まだ、なんとも」

「ああ、そう」

「橋爪君ほどじゃなかよ。部長でしょ?」

「こっちは、全然。アホばっかだから、逆に統率取りやすそうっていうか」

「ふぅん」

「西城さんは、なにか悩んでるんじゃないの?」


 その問いは、これまでよりもいくらか唐突に感じられた。千春は訊き返すこともせず、橋爪を見た。


「いや、ここに座ってる西城さん、なんか、物思いに耽ってる感じだったから」


 彼は少しだけ、しどろもどろになりながら答えた。

 不意に、夏希との食卓が頭をもたげた。自分は笑いながら話しかけ、夏希も微笑みを返している。けれどそれは、互いに愛想笑いだと気づいている。今、橋爪に向けている愛想笑いとは別種だが、それでも、心からの笑みでないことは共通していた。

 悩みはあった。橋爪の直感は的中していた。

 が、頷く気になれなかった。千春は、期待するような橋爪の眼差しから目を逸らし、


「別に、なんもなか」


 とだけ答えた。

 橋爪は「そう」と、息をこぼすように言った。それからまた、新たな質問を模索しているようだった。

 向かいのベンチにはまだ、健太のスクールバッグが残されたままだった。


「橋爪君は、なんで残っとぉと?」


 と、千春が訊くと、


「このあと、みんなでカラオケに行くんだ」


 と、橋爪が答える。彼は明るい声音を取り戻していた。


「一人、委員会かなんかでちょっと残ってて、それ待ち」

「まだ行かんでよかと?」

「ライン、まだだから」

「そう」

「西城さんは、もうなにもないの?」

「うん。帰るだけ」


 と、千春はきっぱり答えたが、


「帰って、明日の勉強する」


 慌ててそう付け加えた。その際、無意識にこめかみの髪に触れていたことに気づき、千春はすぐに手を下ろした。


「試験もやっと、明日で終わりかぁ。期末はやっぱ長いよね」


 肯定されることを前提にしているような語調で橋爪は言った。千春は数ミリだけ顎を引くように、「うん」と頷いた。


「それで、西城さん、明日なんだけど」


 彼の声がまた、わずかに滑らかではなくなった。


「試験終わったあとって、暇?」

「なんで?」

「いや、買いものっていうか、近くのモールに新しいスポーツショップができたから。誘ってみようと思って」


 本題のような口ぶりだった。千春は、これまでの時間を返してほしい気持ちに駆られたが、そのことについて彼を責める気にはなれなかった。涼しい風がまた一つ中庭に吹き込んだ。

 スポーツショップのことは千春も知っていた。彼女も、なにか買わなければいけないものがあったわけではないが、近いうちに行ってみたいと考えていた。運がよければ今頃、夏希と一緒に行っていたかもしれない場所だった。

 千春はわけも分からず逡巡したのち、


「男子と行った方がいいんじゃない?」


 と、残酷にならないよう訊ねた。


「西城さんと行ってみたいんだ」


 橋爪はまっすぐ答えた。これまでよりも格別の勇気を孕んでいた。千春は『なんで?』とは訊き返せなかった。


「ちょっと、予定と相談するけん、考えさせて」


 千春はそう答えていた。橋爪は「ああ、ごめん」と謝った。

 それから彼は、件の友達からラインが届いたらしく、足早にベンチを去っていった。いかにも陽気そうな後ろ姿を見送ってからも、千春はしばらく中庭に居残っていた。

 ふと向かいのベンチを見ると、いつの間にか健太のスクールバッグがなくなっていた。しかし千春は、あまり不思議に思わなかった。重たい腰を上げ、地面に倒れている竹箒を拾い上げた。





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