22.試験


 夏希は眩しい答案用紙に渋面していた。教室は朝からずっと冷房が効いていて涼しかったが、窓際の席には硝子を透過した陽の光と熱が容赦なく差し込む。

 試験が始まる前、日差しはなかった。青空は見えていたが、太陽は入道雲の背後にいたはずだった。

 今からでもカーテンを閉めれば解決するが、教室内は静寂で満ちている。夏希は声を上げることができなかった。結局、熱さと眩しさに苦慮しながら問題を解き続けた。

 最後の問題を解き終えた頃になって、日差しはまた雲によって遮られる。夏希は声にならない程度の溜め息をついた。時計を見上げて残り時間を確認したのち、壇上の椅子に座っている教師に注意を払いつつ、周囲の状況を見渡した。

 教室内は確かに静寂だが、冷房の風音と、シャープペンシルを走らせる音がかすかに鳴り響いている。夏希のようにペンを置き、リラックスしている生徒はごくわずかだった。それと同じだけ、机に突っ伏して寝ている者もいた。


 最後に夏希は、となりの席に座る千春に目を向けた。

 彼女は眠っていなかった。時おり猫背になり、船を漕ぎそうにもなっていたが、その度に目を擦って意識を保とうと努めていた。答案用紙も七割程度は埋められていた。

 夏希は自分の机に視線を戻す。答案用紙を裏返し、両腕を組んで机に突っ伏した。

 目はつむらず、窓の方を見つめた。雲がかかっていない青空を眺めていたが、また日差しが復活すると、夏希は眠ったふりをするしかなくなった。





 三限目の試験が終わり、担当教諭が退室していく。多くの生徒が溜め息まじりの歓談をしながら帰宅の準備を始めている。

 今日は試験終了後、清掃が済めば下校という日程だった。ホームルームもないため、清掃場所が外の者はスクールバッグを持って教室を出るのが主流だった。

 夏希の清掃場所は教室だった。夏希はバッグに入れていた筆箱を取り出し、試験で使った筆記具を片づけ始める。


「東江君」


 気づくと、机の横に千春が立っていた。

 夏希がなにも言わず目を向けると、彼女は「その」と一拍置いたのち、


「今日、買いもの、行かん?」


 と、ためらいがちに訊ねてくる。


「買うもの、なにかあったっけ?」


 そう夏希が訊き返す。

 千春はわずかに視線を揺らして、


「ううん、やっぱりいい」

「あ、ごめん」

「なんで謝ると?」


 夏希は答えられなかった。


「分からんなら謝らんでよ」

「うん、ごめん」

「また謝った」

「今のは、ちゃんと分かってたから」

「じゃあ、なん?」

「分からずに謝ったこと?」

「なんか、変なの」


 千春はぎこちなく笑っていた。

 夏希も真似たように笑って、


「中庭だっけ?」


 と、話頭を転じる。

 千春は「うん」と頷く。


「あとで迎えに行くから」

「よかよ、別に」

「え?」

「今日は、ミーティングがあるけん。ちょっと残る」

「そっか。大変だね、副部長も」

「うん、じゃあ」


 千春はスクールバッグを肩にかけ、教室を出ていった。


「愛の定期報告は終わったか、東江?」


 タイミングを見計らっていたように、美沢が夏希のもとにやってくる。その手には二本の自在箒が握られていた。


「なんの話だ」


 と、夏希は突き放すように訊いた。

 美沢は「そう邪険にするなよ」と、薄気味悪い笑みを浮かべ、


「箒を取ってきてやったんだ。お前にとって損することでもないだろう」


 教室内の清掃は雑巾と箒の係に分かれる。基本的には早い者勝ちのため、箒を取れなかった者が雑巾の係になってしまう。


「そうか。ありがとう」


 素直に感謝し、箒を受け取る夏希。

 その瞬間、美沢の背後から別の腕が伸びた。


「じゃあ、あたしも」


 もう一本を横取りしたのは、満面の笑みを浮かべた利乃だった。

 美沢は「なんだと」と顔をしかませ、


「川田さん、いつの間に」

「勝手に二本も取ってくんじゃないわよ。あたしの分がないじゃん」

「君は早い者勝ちという言葉を知らないのか?」

「ファーストレディって言葉もあるわ」

「君はいつから首相夫人になったんだい?」

「あれ、逆だっけ? 恥ずっ」


 照れくさそうにそっぽを向く利乃。


「川田さんも幸せボケか。大橋のアホに頭が侵されつつあるんじゃないか?」


 ここぞとばかりに美沢がなじり倒す。

 利乃は「はい?」と素知らぬ顔を作り、


「おぞましいこと言わないでよ。侵されるなんて、そんな」


 と答えつつ、自在箒の柄を美沢の喉元に突き立てる。


「ぐっ。おぞましいのは、どっちだ」


 美沢は観念したように言った。利乃は「はいはい」と、美沢から箒を離す。


「これ、返すか?」


 見かねて夏希が訊くと、美沢は「いや」とかぶりを振り、


「川田さん相手に不覚を取ったのは僕の落ち度だ。誠に遺憾だが、この場は大人しく引き下がるとするよ」

「御託はいいから、男子はさっさと机動かして」


 利乃に命じられ、夏希と美沢は室内の机をすべて引いていく。それを契機に、残っていたほかの生徒も清掃に加わり始めた。


「それで東江、箒を譲ってやった見返りに一つ訊きたいんだが」


 床磨きに精を出しながら、美沢が言う。

 夏希は嘆息し、


「友情は見返りを求めないって言葉、知ってる?」

「さっき、西城さんになにを謝っていたんだい?」


 問いかけを強行してくる美沢。

 夏希は、先ほどとは違う種類の溜め息をついた。


「別に、教える必要ないだろ」

「いや、ある」

「なんだよ」

「箒を譲ってやった」


 夏希は頭を抱えた。美沢の目は本気だった。


「それは、あたしも興味ある」


 ふたたび、利乃も話に加わってくる。

 夏希は「ええ?」と首を傾げ、


「川田さんも聞いてたの?」

「そりゃ、前の席に座ってたし」

「どうだ東江。多勢に無勢、白状したらどうだ」


 床に這いつくばっていた美沢もいつの間にか立ち上がっていた。床磨きも、雑巾を上履きの裏で操ることで継続させている。


「川田さんは、全部聞こえてたんじゃないの?」


 と、夏希が追及すると、


「途中からしか聞いてなかったから」


 利乃はあっけらかんと答える。


「本当に、大したことじゃないよ。西城さんに買いものに誘われて、なにか買うものあったかなって確認したら、やっぱりいいって言われて」


 夏希は包み隠さず話した。

 美沢は「ふむ」と頷き、


「それで?」

「それだけ」


 きっぱりと夏希は言った。美沢は眉根を寄せた。


「いや、それで、なぜ東江は謝ったんだ?」

「分からない」

「分からない?」

「なんとなく謝っただけで。でも、たぶん西城さん、いい気がしなかったと思うから、それで謝ったんだと思う」


 芯のない弱々しい声で、夏希は言った。

 美沢は「うーむ」と腕を組み、


「君たち二人ほど、以心伝心したカップルもいないと思っていたが、これはそうでもなさそうだな。かく言う僕にも、なにがどういうことなのか見当がつかないが」

「あら、美沢って案外、女心が分かってないのね」


 と、利乃が挑発するように言う。

 美沢は「ほう」と感心し、


「川田さんは、今の話でなにか気づいたというわけか」

「まあね。なんだかんだあたし、二人のこと長く見てる方だから」

「して、結局どういうわけだい? 東江と西城さん、どちらかに落ち度があるのか?」

「強いて言えばどっちもね。ハルちゃんは言葉足らず過ぎるし、東江君は言葉を深読みしな過ぎって感じ。まあ、二人のこれまでの関係を考えると、しょうがないかもとは思うけど」


 夏希と美沢が顔を見合わせる。


「どういう意味だい?」


 改めて、美沢がそう訊ねると、


「東江君、ハルちゃんに買いものに誘われてなんて答えた?」


 と、利乃が夏希を指差す。


「だから、買うものなにかあったかなって」

「あたしの勘だけど、東江君の言う『買うもの』って、二人に共通して必要なものか、二人で買いに行く必要があるもののことじゃない? 夕飯のおかずとか、日用品とか」

「そりゃあ、まあ。そういうもののためのお金は俺が管理してるし、大体一緒に行ってるけど」


 夏希は当然のように頷く。

 それを見て、美沢は「なるほどな」と呟いていた。

 利乃が話を続ける。


「今までの二人にとっての買いものはそうだったのかもしれない。でもね東江君、さっきのハルちゃんはたぶん、そういう買いものがしたいんじゃなかったのよ」

「そういう?」

「きっと、ただ意味もなく、ショッピングに行きたかったんだと思う。試そうとしたのかもね、東江君のこと」


 夏希は、取ってつけたように、「ああ」と驚き、


「それは、分からなかった。西城さんは、そういうことに興味のない人だと思ってたから」

「東江は嘘が上手いな」


 突然、美沢が皮肉るように言った。


「なんのことだ」


 夏希は少し、眉間にしわを寄せた。

 美沢は「そのままの意味だ」と付言し、


「東江は嘘が上手い。ペテン師の才能があるよ」

「嘘? 嘘なんか言ってない。西城さんは本当に、ショッピングとかそんな」

「そうじゃない。自分に嘘をつくのが上手いなという意味だ。気づかないふりも、さぞかし大変だろう」


 見透かしたような口ぶりだった。夏希は、首を傾げたふりをした。


「そういえば、大橋は?」


 それから、半ば強引に、利乃に話を振った。


「え、あいつは、中庭じゃない? 確か」


 彼女はなにか気まずそうだったが、しかし答えてくれた。夏希は「ああ、そうだった」と言って、あまり汚れていない床の上を掃いた。





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