20.発熱


『湯張りが、完了しました。続けて、自動湯加減を、開始します』


 給湯器のアナウンスがあってすぐ、夏希は風呂場に入った。

 もがみ荘の風呂場は、夏希が下宿を始める数年前に改装したばかりらしく、内装や給湯器は極めて新しい。

 夏希の実家ではまだ、蛇口から湯水が出る古いタイプだった。鎖つきの栓を排水口に手動ではめ込み、蛇口から出た湯水がバスタブに注がれるだけの隙間を空けて風呂ふたを閉めていた。湯が溜まる時間も常に気にしておかねばならず、日によって水量の多寡に差があるのが当然だった。

 もがみ荘の給湯器はフルオートのため、湯張りはリモコンを操作するだけで簡単にできた。一定の水位まで溜まれば湯張りは終了し、音声で知らせてもくれる。栓を締め忘れでもしない限り、湯張りについてミスを犯す可能性はほとんどない。


 夏希は普段より手早く髪や体を洗い終え、湯船に浸かった。適量の湯しか入ることのないバスタブは、夏希の体積を受け入れたところで湯水をあふれさせることもなかった。夏希は笑みを浮かべることなく、ふぅと息をついた。

 ちょうどその時、脱衣所の方から、わずかな物音が聞こえた。

 脱衣所は洗面所と同じになっているため、千春や紗英が入ってきたとしてもおかしくはない。緊急時でもない限り、入浴中の人間には話しかけない暗黙の掟がもがみ荘にはある。ただし紗英は守らないため、厳密には夏希と千春の間でのみ存在しているルールと言えた。


「東江君」


 千春の声が聞こえてくる。夏希は意味もなく背筋を伸ばした。


「ブラインドの方、向いてとってくれん?」

「え?」


 そう夏希は訊き返したが、返答はなく、風呂場の戸が開かれる。夏希は反射的に背を向けた。

 風呂場に響いた音は戸の開閉音だけではなかった。

 ぴとり、ぴとりと、水浸しのタイルに足が着く音も連なった。


「西城さん?」


 夏希が、小さな声で呼ぶと、


「やっぱり、私も、気持ち悪くて。我慢できんけん」


 なんでもないように、千春は答えた。

 夏希は返す言葉を見失った。その間に、蛇口ハンドルをひねる音、シャワーノズルから水が流れ出す音が反響する。

 シャワーの音がわずかに形を変える度、彼女の体が背後にあるという現実が、確かな質量をともなって夏希の感覚を支配していった。一定の勢いを保った水音だけが耳の中を満たしていく。

 ほどなくして、キュッとハンドルを絞った音が響き、室内に熱っぽい静けさが蔓延する。夏希は息を飲むことすらためらった。


「入るけん、ちょっとよけて」


 ぽつりと、水滴をこぼすように、千春が言った。


「じゃあ」


 夏希は、背を向けたまま立ち上がろうとした。が、思うように足が動かなかった。

 その隙に、ぴとりと、熱い手のひらが夏希の肩に触れる。


「よかよ、おっても。入ったばかりとやろ?」


 紛れもなく、千春の右手だった。


「水着、着とるけん。見られてもよかし」

「そうなの?」

「え、裸だと思った?」

「いや、全体的に、思考が追いついてなかった」


 夏希は、わずかに気を弛緩させた。

 千春は小さな笑い声を響かせ、


「だけん、もうこっち向いてもよかよ」

「それはさすがに」

「なんで?」

「俺は裸だし」

「まあ、そうだね」


 これまでとは違う水音がして、千春がバスタブに入ってきたことが分かった。

 夏希は彼女に背中しか見えないように体の向きを変えながら、


「入れそう?」


 と、ぶっきらぼうに訊ねた。


「余裕」


 千春は答えた。ぴとりと、夏希の背に彼女の肌が当たる。互いに足をたたみ、背中を支え合う形になっているようだった。適量だったはずの湯も、どちらかが少しでも動けばあふれ出しそうなほど、水かさを増していた。


「一人の時は、広いなって思ったけど、さすがに、ちょっと狭かね」


 わずかに水面が揺れる。唯一互いの体温を通わせている背筋に、髪の毛が当たる感触があった。千春が少し、体を沈ませたようだった。


「体、洗わないの?」


 と、夏希が訊くと、


「私、元々、先に、浸かる派」


 変に区切りながら、千春は言った。


「東江君は、洗ってから入る方?」

「そりゃあ、まあ」

「なんで?」

「考えたこともなかった。子供の時から、そうだったから」

「今は大人?」


 その揚げ足取りには、夏希は応じず、


「じゃあ、西城さんは、なんで?」


 と、反論するように訊き返した。

 千春は少しだけ黙り込んだ末、


「温まってから洗いたいけん。冬とか特に」

「夏も?」

「なんとなく」

「そっか」


 自らを納得させるように、夏希は相槌を打った。


「お互い、まだ、知らんこともあるね」


 千春がぼんやり言った。


「たった一年じゃね」

「夫婦っぽいとか言われとぉとに」

「あくまで、っぽいだから。夫婦なんておこがましい話だよ。俺たちは別に支え合ってるわけでもない」

「今は支え合っとぉけど」


 千春の毛先が、チクチクと背中を刺激してくる。


「そういうことじゃ、なくて」


 夏希はもどかしそうに言った。千春は、返事をしてこなかった。

 壁に設置されている給湯器のリモコン、その液晶画面に『熱湯』の二文字が表示される。追い炊きが開始されたことの合図で、夏希は湯の底から徐々に熱くなっていくのを感じた。額についていた水滴が汗のように頬を伝う。


「さっき、利乃からラインが来て」


 会話を再開させたのは、千春だった。


「大橋君と、付き合うことになったって」

「そう」


 夏希は、ほとんど吐息のような声で答えた。


「あんまり、驚かんつたい」

「遅かれ早かれ、と思ってたから」

「そうだね」

「むしろさ」

「ん?」

「そういうことを、川田さんが、教えてきたってことに驚いたかも」

「私は別に、不思議には思わんけど」


 千春の体温が、夏希の背から離れる。水面が大きく揺れ、バスタブのふちから湯水がこぼれていく。


「きっと、誰かに報せたかったとよ」

「なにを?」


 夏希は体勢を変えながら、おもむろに振り返った。


「勇気ば出して、報われたこと」


 立ち上がっていた千春は、なにも身に着けていなかった。水着などどこにもなく、彼の目の前にはただ、華奢な裸体をさらした千春が佇立しているだけだった。薄らと水着のあとが残っていた。


「西城さん。あの」


 震えた夏希の声は、続かなかった。千春からの、予告のないキスによって口を塞がれた。バスタブの湯が音を立ててあふれ出していく。

 彼女のキスは下手くそだった。唇を押し当ててきているに過ぎなかった。夏希の両肩を掴み、今にもくずおれそうな体を支えながらキスをしていた。

 夏希は目蓋を閉じることさえ忘れていた。肩の肉に鋭い痛みが走り、千春が爪を立てているのが分かった。彼女の腕は小刻みに震えていた。

 やがて唇が離れる。千春の頬にも汗が伝っていた。女性らしい甘い香りが漂い、夏希の鼻孔をくすぐった気がした。いつかのような、シトラス系の甘酸っぱいにおいは、どこにも見つけられなかった。

 千春は、泣きそうな瞳で微笑んで、


「初めて?」


 と、訊ねてくる。


「いや」


 夏希は素直にかぶりを振った。


「そんな気がした」


 千春は笑ったが、声音は暗かった。


「私は、初めて」


 その言葉がとどめだった。夏希は彼女の涙から目を逸らした。

 逃げ出した視線は彼女の表面が流れ落ちていく。細い首筋から鎖骨、未成熟ながら確かな膨らみを持つ乳房、引き締まったウエストからすらりと伸びた股下まで、彼女の肢体はどこまでも滑らかに構築されていた。

 千春が、腰を抜かしたように、湯の中にへたり込む。その際、彼女の指先が夏希の内腿をかすめた。


「熱かね」


 呟くような千春の声に、夏希は全身の火照りをいっそう強く感じ取った。目頭まで熱を帯び、彼女の輪郭がぼやけた。


「夫婦ごっこは、もう、おしまい?」


 千春からの問いかけに、夏希はなにも返せなかった。ただ、頷くことはしなかった。

 千春は寂しそうに目を細めた。そして、今度はためらいなく夏希に体をゆだね、唇を重ねてくる。

 夏希は義務的に、彼女の形を受け入れた。次第に、互いの体温は境界線を失っていき、気づいた頃にはもう、どちらが生んだ熱かも分からないほどないまぜにされ、溶け合ってしまっていた。





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