19.雨中
雨のにおいが質量をともなって、千春の鼻先をかすめるようだった。
「先輩、本当によかったんですか? 貸しちゃって」
となりにいる秋穂が心配そうに訊ねてくる。
部活を終えた二人は、体育センターの出入り口にたたずんでいた。
「よかよ。どうせ、東江君が持っとらすけん」
なんでもないように答えながら、千春は夏希にラインを送った。
【ちょっと、体育センターの方まで来てくれん?】
【東江君:なんで?】
【後輩の子に傘貸しちゃったから、東江君のに入れてもらおうと思って】
待つ間もなく既読はついたが、その後の返事は中々来なかった。
「えー、じゃあ先輩、夏希先輩と相合い傘で帰っちゃう感じですか?」
「そだね。そうなる」
その間に、からかってくる秋穂を軽くいなす。
秋穂は「むー」と口元を尖らせ、
「最近の先輩、なんか面白くないです」
「そう?」
「夏希先輩のことでいじっても、あんまし照れてくれないし」
「水泳ほど、秋穂に遅れは取りたくなかけん」
千春が毅然と答える。
秋穂は目を見開き、やがて、
「ないですよ、勝ち目なんて」
と、寂しそうに微笑んだ。
千春は「だとよかけど」と答え、
「でも、私、照れたこととかあったっけ?」
「みんなには分かんないかもですけど、あたしは見分けていたんです。なんかこう、目の色がちょっぴり変わる瞬間っていうか」
「秋穂、よぉ見よぉね」
「千春先輩のことですから」
「あっそう。でも目の色なんて、変わるわけないと思うけど。漫画じゃあるまいし」
「いや、あたしは目の奥の奥の奥まで見てるので」
「カビキラーみたい」
と、また軽くあしらったところで、ようやくスマホが震えた。
【東江君:マジか】
夏希にしてはめずらしく、本当に驚いているような返信だった。
【どうかした?】
【東江君:いや、分かった。すぐ行く】
「あ、来た」
秋穂が声を上げる。
千春も顔を上げると、裏門の前に黒いカムリが停車しているのが見えた。
「じゃあ先輩、頑張ってください」
秋穂は雨の中に身を投げ出し、車へと駆けていった。千春は「うん」と頷いて、小さく手を振った。
同じ頃、
「西城さん」
という夏希の声がした。彼は体育センターの裏手から回り込んできたようだった。
が、夏希は傘を差していなかった。ワイシャツには雨で濡れた跡がはっきりあり、髪の毛の先からいくつもの雫を滴らせていた。
「え、傘は?」
反射的に千春が訊ねる。
「盗まれた」
夏希はまず、端的に答えた。
それから、頭や服の雫を払い落としながら、
「下駄箱のとこに差してたんだけど」
「そういえば、ビニールだったっけ?」
「それ。前にコンビニで買ったやつ」
「あーね。仕方なかね」
「だから、西城さんのに入れてもらおうと思ってたんだけどね」
「ちょっと、考えが甘かったね」
「お互い様だね」
「かもね」
「かもじゃなくて、そうだよ」
「あ、負けね」
パッと、千春が指を差す。
夏希は「なにが?」と訊き返してきながらも、分かっているようにはにかんでいた。
二人は時間を忘れたように、たわいない会話を続けていた。けれど実際には、忘れてなどいなかった。雨は未だ、時を刻むように目の前で降り続いている。
時刻は午後七時を過ぎていたが、曇り空は奇妙なほど明るかった。隙間なく敷き詰められた雲は一面紫色で、裏門の脇に咲いている紫陽花の色合いとよく似ている気がした。千春は心の底から笑いたくなった。懸命にこらえ、咳払いをするだけに努めた。
「どうしたの?」
目ざとく、夏希が訊ねてくる。
千春は、また込み上げてきた笑いをこらえながら、
「雨、やまんかな」
と、何気なく答えた。
夏希は「どうかな」と空を仰ぎ、
「この雨、明日まで降ってそうな気がするよ」
「本当にそう思っとぉと?」
「どういう意味?」
「なんか、東江君の言葉じゃないみたいだったけん」
夏希が口をつぐむ。強さを増す雨音が沈黙の中を流れていく。
しばらくして、「だけど」と、千春が続け、
「明日は、晴れると思う」
そう、希望するように言った。
「そうかな?」
「そうだよ」
「でも、今すぐは、やみそうにないね」
「じゃあ、仕方なかね」
千春は、夏希の手を取った。
「え?」
と、夏希がわずかに瞳を震わせる。
「走ろ」
千春は彼の手を引き、水の溜まったアスファルトに足を踏み出した。
そのまま、裏門を飛び出し、夏希と共に雨中を駆けた。肩にかけたエナメルバッグが重く、あまり早くは走れなかった。
冷たくない雨が徐々に体を濡らしていく。髪も頬も、腕もポロシャツも雨粒で満ちた。
水たまりもいとわず踏みつけると、水しぶきがスカートの中まで飛んだ。太ももの上を水滴が流れていく。血液のように生温かく、くすぐったかった。
体中が雨に溺れた。夏希と繋いでいた左手の中だけが唯一濡れていなかった。
千春は一度も手を離さず、握り直すこともしなかった。隙間なく、自分の手で彼の手のひらを埋めていた。
走っているさなか、夏希はなにかを言っているようだった。
千春は、聞こえないふりをした。
幸い、雨粒は耳朶の先まで都合よく滴っている。アスファルトが鳴らす雨音も更に強まっていた。
海岸通りに差しかかる。この頃になると、ローファーの中までぐっしょりと水没していて、浅瀬を進んでいるような感触だった。
千春はもう、走っているとは言えないほど速度を落としていた。沖に降り注ぐ雨が汐煙のようにきめ細かく見えた。打ち寄せる波に侵されかけている浜辺には、やはり誰の姿もなく、左手にある夏希の体温がいっそう貴重に感じられた。
夢中で帰路を駆け抜け、千春たちは遂に雨の牢獄を抜けた。鍵を開けてもがみ荘の中になだれ込み、玄関で立ち止まった。
「なんとかなったね」
握っていた手を離し、千春は言った。
夏希は息を切らしていた。膝に手をつき、うなだれるように下を向いている。それでも、二人の体から落ちる水滴の量はあまり変わらなかった。
「なんとかは、なってなくない?」
夏希が不満そうに訊いてくる。まだ呼気が荒かった。
二人は上がり框にのぼれず、途方に暮れたように土間床に立ち尽くした。足もとの三和土に水たまりができ始めていた。
千春はエナメルバッグを開き、部活で使っているセームタオルを取り出す。
「え、ずるい」
夏希がうらやむように言った。
千春は顔や髪を拭いたのち、
「使う?」
と、提案する。
「いや、でも」
夏希は目を丸くしていた。
「こうすれば、これ、すぐ乾くけん」
セームタオルを絞り直す千春。
それでも受け入れる気配のない夏希の顔に、千春は強引にタオルを当てる。
「うわっ」
「ジッとして」
腕を伸ばし、顔や髪の雫を拭っていく。
すると、夏希は「分かったから」と観念して、
「自分でするから」
「はいはい」
千春はタオルを手渡す。夏希は、どこか遠慮がちに腕などを拭き始めた。
「拭き終わったら、上がって、お風呂入れてきてくれん?」
ほどなくして、千春はそう頼んだ。
靴下を脱ごうとしていた夏希は、
「もしかして、それが狙いだった?」
と、訝しげな視線を作る。
「どうだろ」
千春は誤魔化すように答えた。
「西城さんが行けばよかったのに」
「東江君の方が慣れとぉやん」
「まあ、そうだけど」
夏希は溜め息をつくと、素足を拭いてから中へ上がっていった。千春は残されたセームタオルを絞り直し、自分の足を拭いた。
ほどなくして、夏希が玄関に帰ってくる。
「十分くらいで入れるから」
「そう」
「西城さんから入りなよ」
ごく自然に、夏希が提案してくる。
「東江君は?」
「俺はあとでいい」
「風邪引くよ」
「暑いから平気だよ」
「夏風邪は関係なかよ。ほら、利乃とか」
「そうだけど」
「体も、気持ち悪かど?」
「それは、西城さんだって」
「濡れるのは、慣れとるけん」
夏希は頭を掻いて、
「で、どうするの」
「だけん、先に入ってよかて」
「でも」
「私は、さっきも温水でシャワー浴びとぉけん。大丈夫」
気丈に答える千春。
夏希は少しうなった末、
「じゃあ、お先に」
と、渋い面持ちで了承し、廊下を歩いていった。
千春はあらかた体を拭き終わったあと、スクールバッグの中からスマホを取り出す。
画面を点けると、利乃からメッセージが届いていて、すぐにラインを開いた。
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