18.アキラ


 放課後。

 夏希が図書室へ行くと、先に来ていたアキラがいつもの席に座っていた。


「やあ、夏希君」


 と、アキラが微笑を浮かべて出迎える。


「ほかの二人は一緒じゃないのかい?」

「ああ、休みです」


 そう答えながら、夏希も椅子に腰を下ろす。


「川田さんが風邪で、学校自体休んでて。大橋は、用事があるからって帰りました」

「風邪? 大丈夫だろうか」

「ラインしましたけど、そこまで酷いわけじゃないみたいです」

「そうか。しかし川田君はともかく、大橋君が休むのはめずらしいな。よほど大事な用事だったのだろうか」

「さあ、なにも言ってなかったので」


 夏希は空々しく答えた。

 それからしばらく、図書室内はかすかな雨音と冷房の音で満ちた。窓の外ではやむ気配のない雨が降りしきっている。

 夏希は鞄の中から勉強道具を取り出した。それに気づいて、アキラが読んでいた文庫本を閉じ、


「今日も勉強か?」

「たまたま、持ち合わせの本がないので」

「本なら周りにいくらでもあると思うが」


 夏希は一瞬、言葉に詰まりかけたが、


「期末も近いですし、ちょうどいいかなと」

「それはそうだが、夏希君、少し前からノートを見直してばかりいるじゃないか。どうにも単なる試験勉強とも思えないのだが」

「ああ、ノートは、西城さんのこともあるので」

「どういうことだ?」

「あの人、授業中ほとんど寝てるから、テスト対策とかまったくしないんですよ。で、大抵いつも泣きつかれるから、要点まとめとかないとこっちも教えづらいんです」

「ほう。ではそれは、西城千春のためにやっているわけか」

「いや、元は自分のためなんですけど」


 次第に、夏希の声は尻すぼみになった。

 見かねたアキラは、「そうか」と言葉を継いで、


「人に教授することで自らも学び直すという姿勢はあってもいいと思うが、しかし夏希君、君がそこまでしてあげるのは、本当に彼女のためになるのか?」

「え?」

「テスト対策を怠っているのは、西城千春の身から出た錆だろう。授業中に寝ないようにすればいいだけの話だ」

「それは、そうですけど」

「聞くところによると、下宿先での家事もほとんど君が担っているそうじゃないか。適材適所という理由もあるかもしれないが、なにかこう、私には甘やかし過ぎているようにも思う」


 手厳しく指摘してくるアキラ。夏希はわずかに目を伏せる。


「西城さんは、俺と違って、部活で疲れてたりしますから。そこはその、分担というか」

「西城千春はなにを担っているんだ?」

「それは」


 夏希は、答えられなかった。

 見かねて、アキラもふっと相好を崩し、


「いや、立ち入ったことを訊いたな。忘れてくれ」


 そう答えて、席を立つ。窓際まで歩いて、詩人のような面持ちで鉛色の空を見上げていた。


「雨、やみそうですか?」


 と、夏希が義務的に訊くと、


「そういえば、あの時も、雨が降っていたな」


 と、アキラはなにか思い出したように答えた。


「あの時?」

「夏希君たちが、初めて入部届を持ってきた時だ。よく覚えている。最初に君が来て、それから、大橋君と川田君がやってきた」

「雨なんて、降ってましたっけ」


 夏希の記憶では曇り空だった。あまりよくない天気ではあったが、傘を差して帰った覚えはなかった。


「いや、降っていたよ。雨は確かに降っていた。帰る時には上がっていたが」


 アキラは念を押すように言った。


「今日の雨は、あの日の雨と似ている。違うのは、やみそうにないということだけだ」


 夏希は「そうですか」と答え、彼女の記憶を疑うようなことはしなかった。


「夏希君には感謝している。あのまま私一人だったら、この部は存続していなかった」

「大げさですよ。大体、三人以上必要だったんですから、俺よりほかの二人の方が」

「大橋君たちは、君が誘ったんじゃないのか?」

「いや、あいつは先輩目当てだっただけで」

「やはりそうか」


 夏希はハッとなって口を塞ごうとしたが、もう遅かった。


「私も薄々、勘づいてはいた」


 アキラが優しく目を細める。


「いつからですか?」


 ためらいがちに、夏希は訊ねた。


「最初からだ。大橋君のような子は、私にとってはあまりめずらしくない。それでも、大して面白くもないこの部に入部までしてくる子はいなかったが」

「先輩は、そういうことにあまり関心がないんですか?」

「そういうこととは?」

「だから、その、好意を寄せられることとか」

「ああ、どうだろう、深く考えたことがない」


 曖昧な声で言うと、アキラは「いや、違う」と小さくかぶりを振り、


「考えないようにしている、が正しいかもしれない。夏希君と同じだな」

「俺がそうだなんて、言ったことありましたっけ」

「見ていれば分かる。類は友を呼ぶものだろう」

「それで先輩は、大橋のこと」


 夏希は、自分に向きかけた話の矛先をずらそうとする。


「君は器用だな、つくづく」


 アキラは、すべてお見通しであるかのように笑って、


「あの子は、あの子自身が思っているほど、私のことが好きではないだろう」


 ドクンと、夏希の心臓が強く脈打つ。


「どういう意味ですか?」

「夏希君だって、本当は気づいているんだろう。あの子は、君と西城千春を夫婦のようだと揶揄しているが、私からすれば、彼ら二人の方がよほどそれらしく見える」


 アキラは、空席になっている二人分の椅子をジッと見つめた。


「私の関心なんてきっと、彼らには関係のないものだろう。遅かれ早かれ、私は不要になる。踏み台になればいい方だ」

「先輩は、失恋したことがあるんですか?」

「あるさ」


 彼女はまっすぐ、夏希の両目をとらえる。


「十七年も生きていればたぶん、一度くらいは」

「曖昧なんですね」

「だからこそ、とやかく言いたくなるのかもしれないな。うらやましい限りだよ、まったく」


 アキラはまた、窓の外に視線を投げる。冷房の音がぼおっと響いて、それはわずかな間だけ、雨音を聞こえにくくした。


「明日もきっと、雨だろうね」


 雨天を嘆く彼女の視線は、しかし空には向いていなかった。アキラは小さく俯いていた。

 夏希は肯定も否定もせず、


「先輩」


 と、ぼんやりした声で彼女を呼ぶ。


「今日、大橋から、お粥の作り方を訊かれました」

「そうか」


 アキラは振り返らないまま、はにかんだような声で言った。





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