16.夕方
千春がもがみ荘に帰ってきたのは、午後六時頃だった。ガラガラと戸が開いた音がして、夏希は廊下に出た。
「おかえり」
玄関に向けて声を張ったが、千春からの返事はなかった。彼女は緩慢な動作で靴を脱ぐと、夏希を一瞥することもなく二階へ上がろうとしていた。
「南波さんは、一緒じゃなかったの?」
階段まで向かい、夏希は訊ねた。
千春は足を止め、振り返ることなく、
「一人で」
と、か細い声を震わせる。
それから先の言葉は聞き取れず、夏希が訊き返す前に千春は二階へ上がっていった。
夏希は追いかけなかった。放置されたままの千春のシューズを片づけてから台所へ戻った。テーブルに置いていたスマホを手にし、ラインを開く。
【夕飯、早めに作ったから、あと十分くらいでできるよ】
そう千春にメッセージを送ると、思いのほか、早く既読がついた。
しかし返信までにはやや間があり、
【西城さん:今日はいらない】
ぽつんと、そんな言葉だけが返ってくる。
夏希はやや逡巡したが、ほどなくして返信を打ち込んだ。
【え、死ぬよ?】
【西城さん:は、死なんし】
【食べずにどうするの】
【西城さん:寝る】
【お風呂は?】
【西城さん:入ってから寝る】
夏希は苦笑した。
それからまた、反論の余地をさがして、ふたたびキーボードをフリックする。
【分かった。でも、洗濯物だけは今下ろしてくれない? 今日は多いだろうから】
既読がついてしばらく経ったのち、彼女からのメッセージが追加される。
【西城さん:五分待って】
夏希はスマホを閉じてテーブルに置いた。それから夕食作りに戻り、千春の分だけ先に盛りつけを始める。
「持ってきたけど」
洗濯物が入れられた袋を持って、千春が台所に現れる。先ほどのラインから十分ほど経った頃だった。ジャージ姿ではなく部屋着に着替えていて、帰宅した時よりも髪がぼさっとしていた。
「ご苦労様。洗濯機の近くにでも置いといて」
「ん」
夏希と目を合わせないまま小さく頷き、千春が廊下で出ていこうとする。
しかし、食堂のテーブルに並べられていた料理を見ると、
「それ、チキン南蛮?」
と、弱々しい声で訊ねてくる。
「そうだけど」
夏希は率直に答えた。
千春はようやく、赤く腫らした目で夏希を見て、
「なんで?」
「なんでって?」
「なんで今日、チキン南蛮?」
「今日は、スペシャルに疲れてるかなと思ったから」
「は? なんそれ」
千春は訊き返しながら、わずかに口元を緩める。
「なんで英語」
「前に、西城さんが言ってたから」
「そうだっけ」
「スペシャルな日に食べるって言ってたじゃん」
「そうかも」
「でも、今日はいらないんでしょ?」
「見たらお腹減ってきた」
「ああ、そう」
夏希はわざとらしく溜め息をついた。
結局、千春は洗面所に洗濯物を持っていたあと、いつも通り食卓に着いた。夏希も自分の分を用意し、二人で『いただきます』をした。
夏希の作ったチキン南蛮は、タレやタルタルソースをお好みでかける必要がある。千春はテーブルの中央に置かれていた器からたっぷりとタレをすくい、揚げたてのチキンにかけていく。
「俺の分も残しといてね」
一応、夏希は忠告した。千春は無言で器を手渡してくる。タレは明らかに半分以上減っていた。
本格的に食べ始めると、互いに言葉を交わさなくなった。千春は黙々と箸を動かし、チキン南蛮とご飯を交互に口へ運んでいる。
「朝、秋穂となん言いよったと?」
途中、千春から唐突にそう訊かれ、夏希は首を傾げた。
「朝?」
「私が下りてくる前、なんか話しよらんかった?」
「あー」
うなってみたものの、夏希はおぼろげにしか思い出せなかった。
「よく覚えてないけど、西城さんのことだったと思う」
「ほんとに?」
「たぶん」
「そうなんだ」
千春は、わずかに目を伏せた。
「なんで?」
「ん」
夏希の疑問に対し、千春は空の茶碗を突き出してきて、
「おかわりってある?」
と、はっきりした声で訊ねてくる。
「めずらしいね」
「まあ、たまには」
「ぎりぎりで炊いたからもうないけど。俺のでもいい?」
「うん」
千春は夏希の茶碗を受け取り、自分の茶碗の上でひっくり返す。
「え、全部?」
思わず、夏希が訊ねる。
「いけんと?」
千春はあっけらかんと訊き返してくる。
まだ乾ききっていない彼女の瞳が、夏希の脳裏から否定の余地を取り上げた。
「いや、別に」
渋々、了承する夏希。千春は小さく微笑み、また快調に箸を動かし始める。
夏希はしばらく考えた末、余っていた食パンを一枚、テーブルに持ってきた。その様子を見てまた、千春がこぢんまりと笑っていた。
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