14.大会


 さんざめくメインプールの方とは対照的に、千春のいる運動公園内は、人通りが少なく閑散としていた。

 千春は、素足をさらしたままベンチに腰かけ、時おり鳴る新緑のさざめきに耳を澄ませていた。ベンチは、木陰と日だまりがせめぎ合っていて、その勢力は、今はちょうど半分だった。千春は日陰の部分に腰を下ろし、ベンチの上に載せた左足は日なたの領域に投げ出していた。

 しばらくして、ポケットに忍ばせていた爪切りを取り出し、爪の手入れを始める。同じ頃、木葉の息づかいに人の足音がまじり、千春は顔を上げた。


「先輩、さがしましたよー」


 やってきたのは秋穂だった。千春は小さく手を振って迎えたのち、また爪の手入れに勤しんだ。


「待機所にいないと思ったらこんなとこにいたんですか。余裕ありますねー」


 おおらかな気配の秋穂に、千春は「逆」と答え、


「余裕がなかけん落ち着けよぉと」

「爪を整えてると落ち着くんですか?」

「うん」

「へえ、なんかジンクスっぽくて、格好いいですねー」


 秋穂の声ははっきりとしていて、よく通る。千春は、先ほどまで鳴っていたはずの静けさを見つけられなくなった。


「なんしに来たと?」


 ヤスリの部分を中指の爪に当てながら、千春が訊いた。


「もうすぐアップ行けるからさがしにきたんですよー。たぶんこのあたりにいるって聞いたので」

「そう」

「まだ行かないんですか?」

「まだジンクス中」

「あ、ですね」


 佇立したまま、秋穂が相槌を打つ。

 千春は、ベンチを空けようとはしなかった。左足の爪を整え終えると、今度は右足もベンチに載せた。


「秋穂には、なかと?」

「なにがですか?」

「ジンクス」

「あー」


 と、秋穂は考えるそぶりをしたのち、


「あたし、あんまり緊張とかしないんですよー。だから、落ち着くもなにもないっていうか、落ち着いてないのがあたしっていうか」

「そう」

「あ、でも、強いて言えばですけど、千春先輩と話してる今は、めっちゃリラックスしてますよ」

「なんで?」

「先輩がそうやって丸まってると、小動物みたいで可愛いからです」


 千春は、視線だけを秋穂に向けた。

 いかにも偽りのなさそうな笑顔がそこにはあった。


「うらやましい」


 自分の足下に視線を戻し、千春は独りごちるように言った。


「私も、秋穂くらい楽観的だったらよかったけど」

「えー、なんかちょっと、あたしバカにされてないです?」

「それに、身長も」

「それは、まあ」


 わずかに、秋穂の声がしぼんだ。

 が、彼女はすぐに気を取り直すように笑い、


「あたしは、千春先輩がうらやましいですよ」

「どういうとこが?」

「夏希先輩みたいな人がそばにいることです」


 千春は返答に窮した。

 秋穂は無垢な笑顔のまま続ける。


「なんていうかこう、通じ合ってるというか、お互い無理してない感じがいいなぁっていうか」

「言っとくけど、東江君は来らっさんよ」


 釘を刺すように、千春は言った。


「『二人とも頑張って』って、言いよらしたど」

「え、でも」

「東江君の中では、私も秋穂も、大した差はなかとよ。私は別に、特別じゃなか」

「それは、千春先輩にとってもですか?」


 千春は緘口した。間の悪いことに、最後の小指を整え終えた頃だった。足部を照らしている日差しが徐々に、彼女が座っている木陰を蝕んでいく。

 そうして、ためらいがちに、千春が口を開こうとした時、


「おーい!」


 そんな呼び声が大きく響き、二人の会話は遮られた。


「二人とも、もう時間じゃないのかー?」


 男子水泳部の橋爪はしづめが、メインプールのある方から歩いてきていた。橋爪は二年生で、千春や秋穂によく話しかけてくる男子の一人だった。


「先輩、行きましょうか」


 何事もなかったように言って、秋穂が橋爪のいる方へ歩き出す。

 千春もシューズを履き、ベンチから立ち上がった。素足のまま履いたせいか妙な隙間が気になって、歩きにくかった。





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