13.紗英
一通りの家事を終えたあと、夏希は部屋着に着替え直した。読みかけの小説とアイポッドを持って居間に下り、いつものように読書に没頭した。
ゆったりとしたペースで読み進めていたが、思いのほか早く読了してしまい、本を閉じる。
時計を見上げると、時刻はまだ十時だった。未読の本はもう自室にはない。
夏希はスマホを取り出し、千春にラインを送ろうとした。
【部屋の漫画だけど|】
途中まで打ち込んだが、もう一度時刻を確認した結果、送信しないことにした。
途方に暮れかけていた頃、玄関の方から物音が聞こえた。戸が開き、誰かが廊下を歩いてくる音が連なる。
「あ、夏希君。ただいまぁ」
居間に顔を見せたのは、紗英だった。
おっとりした癒やし系の美顔とは裏腹に、モデル並みの美貌を持っている彼女は、淑女という言葉が相応しい色香を漂わせている。
「めずらしいですね、こんなまともな時間に」
夏希が座椅子から腰を上げると、紗英は「こら」と軽く咎めるように言って、
「ただいまって言われたら、おかえりなさい、でしょ?」
「連日朝帰りの人が説教ですか?」
「もー、理屈っぽいわね。夏希君、ここに来たばかりの時は、従順なワンちゃんみたいだったのに。反抗期かしら」
「その前に、従順な犬だったという前提から異議を唱えたいです」
「え、ワンちゃん可愛いのに、ダメ?」
「どんだけ犬推しなんですか」
「なんだかイライラしてる?」
「してませんでしたよ、さっきまでは」
「あ、もしかして千春と喧嘩でもした? ダメよぉ、怒ったりしたら。男は待たせるだけだけど、その分、女は待ちくたびれてるんだから」
夏希は深く溜め息をついた。紗英は論点をずらすことに長けている。
「夏希君って、若いのに溜め息が多いわよね。幸せが逃げちゃうんじゃない?」
「それくらいで逃げる幸せなんて、大した幸せじゃなかったんですよ、きっと」
「あら、ネガティブなのにポジティブなのね。それとも逆かしら。ポジティブだけどネガティブ? そういえば千春は?」
「急に話変わりましたね」
「あ、そっか、今日だったわねあの子。夏希君は、行かなくてよかったの?」
「どうして俺が」
「応援しによ」
夏希は、わずかに頬を強張らせ、
「別にそこまでは。遠いですし、それに」
「付き合ってるわけでもないから、とか?」
夏希は押し黙った。
「まあ、夏希君が体を持て余してるわけは分かったわ」
紗英は柔和に微笑むと、シアターラックの方に近寄り、流れっぱなしになっていた音楽を止めた。
「なら、私と一緒に運動でもしない?」
「はい?」
訊き返す夏希。
紗英はすぐには答えず、七分裾のカットソーを脱ぎ始める。黒いフルカップブラで包まれた大きな胸が露わになった。
「なにしてるんですか?」
と、夏希が訊くと、
「着替えようと思って」
紗英は何気ない調子で答え、フレアスカートまで下ろし始める。
「お庭でバドミントンでもしましょうよ。今日は梅雨入り前最後の快晴だろうし、きっと気持ちいいと思うわ」
「やるのは構わないんですけど、脱ぐのは部屋でやってくださいよ」
「どうせ洗濯機に入れるんだから、脱いでから上に行った方が効率的じゃない?」
「倫理的にはどうなんですか」
「私の下着なんて、見慣れてるでしょう? 毎日洗濯してくれてるんだから」
「下着姿は見慣れていないんです」
「夏希君は家族だもの。大丈夫よ、勃たれても私は気にしないから。なんなら一度くらい」
「さっさと着替えてきてください」
やや語気を強め、夏希は言った。
「ふふ、その調子だと、あの子の押しもまだまだって感じね」
子供っぽい笑みを浮かべ、紗英は廊下へ出ていった。夏希はシアターラックからアイポッドを取り外してポケットにしまい、トイレで無理やり小便を済ませた。
しばらくして、スポーティーな服装に着替えた紗英が下りてくる。スコートを穿いているあたり、随分と本格的な装いだった。
「紗英さん、スコートなんて持ってたんですね」
夏希が感心するように言うと、紗英は嬉しそうに微笑み、
「これね、前にタキさんにもらったの。タキさんって、大学の頃はテニスサークルだったんですって」
「ああ、その人と一緒にテニスする時に着る用なんですか」
「そういえば、テニスってしたことないわね」
「え? じゃあなんでプレゼントされたんですか?」
「趣向を変える用かな」
夏希は深く詮索しないことにした。
庭の隅っこにある倉庫からラケットとシャトルを見つけ出し、二人はバドミントンを始めた。軽くラリーをするだけで、本気で打ち合うことはなかった。
紗英の言う通り、外は雲一つない快晴だった。梅雨入りも目前に迫っているはずだが、雨が降る気配はまるで感じられなかった。
それでも六月の薄暑の中、体は徐々に熱を帯びてくる。軽くシャトルを打っているだけでも、額やラケットを持つ手にじんわりと汗が滲んできて、夏希は、十分も経たないうちにパーカーを脱いだ。
「あら、本気でやるの?」
Tシャツ姿になった夏希を見て、紗英がこれ見よがしに素振りをする。
「勘弁してください。軽いラリーだけで精いっぱいです」
夏希がペンッとシャトルを打ち上げる。紗英は「私もよ」と笑って、ガットにちょこんと当てるだけで打ち返してくる。
「なんで、急にバドミントンを?」
ラリーのさなか、夏希が訊ねた。
「最近、あんまり運動してなかったの。たまにはいいかなって」
「これ、運動になるんでしょうか」
「私にはこれでも充分よ。夏希君だって、普段は本読んでばかりでしょう」
「俺は、体育の授業とかありますし。運動不足ってほどでも」
「体育かぁ。若いっていいわね」
ベンッと、紗英からの返球がわずかにぶれ、夏希は腕を伸ばして対応した。
「懐かしいわ。昔はよく、体操服に着替える私をのぞきに来た男子たちが、先生に凄く怒られててね」
「想像に難くない光景ですね。紗英さんの時って、もしかしてブルマーだったとか?」
「そんな昔じゃないわよ。もうハーフパンツだったわ」
「あ、そうですか」
「ブルマーはむしろ、今の方が穿くわね。もうあんまり似合わないと思うんだけど」
夏希は深く詮索しないことにした。
「紗英さんって、なんで結婚とかしないんですか?」
話頭を転じるため、夏希は何気なく訊ねた。
紗英は返球しながら「うーん」とうなり、
「なんでしないと思う?」
と、逆に問いただしてくる。
夏希もしばらく考え込んだあと、
「西城さんは、怖いからじゃないかって言ってましたけど」
「千春が?」
気が逸れたのか、紗英のラケットが空振り、シャトルが地に落ちる。
紗英は「ごめんなさい」と、ふたたびシャトルを打ち上げた。
「あの子って、たまにそういうとこ、あるのよね」
「そういうとこ?」
「他人の境遇を、自分のことに置き換えて考えようとするところ。本当はきっと、あの子自身が怖がってるのよ」
「なにをですか」
「変わることを。でも、私は逆ね。怖さがまるでないの。それとも諦めきれないだけかしら? どっちにしてもあんまりよくないんだけど」
自虐するように言ったあと、紗英は突然、
「あ」
と、なにか思い出したように高い声を上げた。
「どうかしたんですか?」
「このスコート、タキさんじゃなくて、ユキ君だったかも。どっちだったかしら」
「知りませんよ」
夏希は呆れながら、紗英が打ってきたシャトルを返球する。
高いロブで打ち上がったシャトル、しかし唐突な強風に煽られ、雨樋の上に落ちた。
「あ、すいません」
「ううん。倉庫にハシゴがあると思うから、夏希君、取ってきて」
指示を受け、夏希は倉庫から運んできたハシゴを屋根に立てかける。
「下、支えておいてくれませんか?」
そう訊ねながら紗英を見た夏希だったが、
「もしもし、紗英です。うん、大丈夫よ」
彼女はかかってきた電話に出ていた。
あまり長くない通話を終えたのち、紗英は「ごめんなさい」と夏希に微笑みかけ、
「私、用事ができちゃった。先にシャワー浴びるわね」
「え、じゃあシャトルは」
「危ないから、また明日でいいわよ」
手短に言って、家屋の中に戻っていく紗英。
夏希は、しばらく雨樋を見上げていた。蒸し暑さからか、わずかに羽を見せているシャトルがぼやけ始める。夏希は軽く頭を振ったのち、立てかけたハシゴや、二人分のラケットを倉庫に片づけた。
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