12.早朝


 その日のもがみ荘は、始動が早かった。

 夏希は、朝五時半にベッドから起き、パジャマから外出用の服に着替えていく。黒いスキニーや薄手のパーカーを身にまとい、一階へ下りた。

 一度玄関に寄って、下駄箱から自分のスニーカーと、千春のシューズを出す。それから台所へ向かい、朝食の準備に取りかかった。

 ご飯が炊けているかの確認や味噌汁作り、ウィンナーを焼くなど、軽い調理を行った。

 それらが一通り終わった頃、千春が二階から下りてくる。


「自力で起きれたね」


 と、夏希は茶化すように言ってみたが、千春はなにも答えなかった。


「緊張して、眠れなかった?」


 夏希が続けざまに訊くと、


「別に」


 ようやく、千春は呟くように返答した。彼女の目はぱちりとしていた。


「集合、何時だっけ」


 茶碗にご飯をよそいながら、夏希が訊ねる。


「七時」


 千春が答える。

 あまりの即答ぶりに、夏希は小さく吹き出すように笑い、


「じゃあ、急がないと」

「あ、秋穂が来るけん」


 思い出したように、千春は言った。


「ここに?」

「うん」

「迎えにってこと?」

「車でもがみ荘まで来て、もがみ荘から歩いて行きたいって」

「物好きだね」


 夏希は何気なく言った。


「早く言っておいてくれれば、南波さんの分も作れたけど」

「いや、いらんど」

「そう?」

「東江君、なんかお母さんっぽい」

「俺も思った」


 それからしばらく、互いになにも話すことなく朝食を食べた。二人の淡々とした箸の音だけがかすかに響いていた。


「ごちそうさま」


 先に両手を合わせたのは千春だった。

 彼女は、味噌汁は飲み干していたが、ご飯は半分ほど残していた。

 ウィンナーも五つあったうちの三つしか食べておらず、納豆パックにも手をつけていなかった。


「もういいの?」


 と、夏希が訊くと、


「食べ過ぎだし」


 麦茶を飲みながら、千春は答えた。


「でも、もう少し食べといた方が」


 その控えめな忠告は受け入れられなかった。千春は足早に食堂から出ていった。

 彼女が残した納豆パックを手に取り、冷蔵庫にしまおうとする夏希。

 しかし賞味期限の表記が目に入り、どうやら今日までらしかった。夏希は千春が余らせたご飯と混ぜて食べた。残っていたウィンナーもすべて平らげた。

 しばらく麦茶を飲みながら一息ついていると、千春が階段を駆け上がっていく音が聞こえてきた。夏希は重たいお腹を抱えて洗面所へ向かう。

 案の定、鏡や洗面台のふちに水滴が飛び散っていた。夏希はついでに自分も歯磨きを終えたあと、水滴をタオルで丁寧に拭き上げた。それから食堂に戻り、二人分の食器をテーブルから片づけた。

 流し台で茶碗を洗っていると、ピンポンと呼び鈴が鳴った。夏希は蛇口レバーを下げて水を止め、エプロンで手を拭きながら玄関に向かった。


「あ、夏希先輩」


 戸を開けると、ジャージ姿の秋穂が立っていた。

 秋穂は夏希の姿を見るなり、「ふふっ」と口元をほころばせる。


「なにか変?」


 と、夏希が訊ねると、


「だって先輩、エプロンしてるから。なんかおかしくって」


 と、秋穂は声を押し殺すように笑った。

 道路の方では、彼女が乗ってきたと思しき車が去っていくのが見えた。


「先輩って、本当に専業主夫やってるんですね」

「いや、本業は高校生だけど」

「あ、いえいえ。こっちの話ですよー」


 夏希は首を傾げた。

 それから、秋穂に「ちょっと待ってて」と告げ、階段の方へ向かう。


「西城さーん、南波さん、来たけど」


 二階に向けて声を張ったが、返答はなかった。

 夏希がまた玄関へ戻ると、秋穂がにこにこと笑みを浮かべて、


「なんか、お母さんみたいですね」

「俺も思った」


 夏希は微苦笑を浮かべた。


「西城さん、まだみたい。お手洗いかな」

「先輩、それはちょっとデリ欠けですよ」

「でりかけ?」

「デリカシーに欠けるの略です」

「聞いたことない略し方だ」

「今あたしが作りました。あ、あたしが早く来ちゃっただけなんで、あんまり急かさなくて大丈夫ですよー」

「そっか。じゃあ上がっておく?」

「いえ、そこまでは。千春先輩もすぐ来るでしょうし」

「なら、荷物だけでも下ろしときなよ。重そうだし」

「あ、はい」


 秋穂はパンパンに膨れているエナメルバッグを下ろし、上がり框の脇に置いた。

 それから、上目遣いに夏希を見上げ、


「こういうデリカシーはあるんですね」


 と、茶目っ気たっぷりに微笑む。


「デリ欠けの対義語とかないの?」


 負けじと、夏希も皮肉るように訊ねた。


「あー、考えてなかったです。優しいとか?」

「普通だね」

「普通が一番ですよー。ていうか先輩、さっき」

「え?」

「あたしのこと、また、南波さんって言いましたよね」


 ぶーっと、秋穂はわざとらしく頬を膨らませる。


「秋穂でいいって、言ったじゃないですか。なんで呼んでくれないんですか」

「ごめん、女の人を下の名前で呼ぶのって、なんか抵抗があって」

「女の人って。あたし年下ですよ?」

「でも、女の人だから」

「もー。そんなんじゃ将来、尻に敷かれちゃいますよ?」

「いや、西城さんは、そういうタイプとは違うと思うから」

「んん? 別に千春先輩にとは言ってないですけど?」

「え?」


 二人は互いに、顔を見合わせて首を傾げた。

 しばらくして、秋穂がにやーっと頬を緩め、夏希は頭を掻きながら目を逸らした。


「秋穂、お待たせ」


 気づくと、ジャージ姿に着替えた千春が下りて来ていた。手には秋穂と同じように膨れた、部活用のエナメルバッグがあった。


「あ、千春先輩。おはようございます」

「おはよ。東江君と、なにか話してたの?」

「いえいえ、なんでもないですよー。ねえ先輩?」


 意地悪な笑みを向けてくる秋穂。夏希はなにも答えなかった。


「ふぅん」


 千春は上がり框に座り、シューズを履いて紐を結びながら、


「内緒話?」


 と、呟くように訊いた。


「いや、大したことじゃないよ」


 夏希が答える。千春は「あっそ」と、素っ気なく返した。


「ねえ、東江君。今日は」


 と、千春はなにか言いかけて、口を閉ざす。そばにいた秋穂は首をひねっていた。


「二人とも、頑張って」


 夏希はぶっきらぼうに言った。秋穂が「あ、はい」と返事をして、エナメルバッグを肩にかける。


「秋穂、行こっか」


 シューズの紐を結び終えると、千春は玄関を出ていく。秋穂は、夏希に挨拶代わりの会釈をしてから、千春のあとを追っていった。

 見送りを済ませた夏希は、玄関の戸締まりをして、あらかじめ出しておいた自分のスニーカーを下駄箱にしまう。

 台所へ戻り、なにも考えないまま蛇口レバーを上げると、どっと流れ出た水がシンクを叩いた。夏希は、そのまましばらく、熱っぽい手のひらを水にさらしていた。





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