10.水泳部


 部活終了後。

 制服に着替え終わった千春は、ロッカールームの中央にあるベンチに横たわっていた。


「千春先輩、今日も見事に死んでますね」


 そう話しかけてきたのは、下級生の南波なんば秋穂あきほだった。

 人懐っこい笑みと八重歯がトレードマークで、千春に最も懐いている後輩だった。


「せんぱーい、帰らなくて大丈夫なんですかー?」

「ううん」


 千春は必死に頭を振るが、まだ起き上がるには至れなかった。


「もう。みんな帰っちゃいましたよー」


 と、秋穂が急かしてくる。ロッカールームにはもう二人しか残っていなかった。

 千春はゆっくり目をつむり、


「あと五分」

「それ、起きられない人のフラグじゃないですかー。もー」


 秋穂は苦笑いを浮かべた。


「早く出ないと、ほら、誰でしたっけ? いつも先輩と一緒に帰ってる彼氏さん。ずっと待ってるんじゃないですかー?」

「彼氏じゃなかけど」

「えー? でも、いっつも一緒に帰ってるじゃないですか。ほかのみんなも言ってますよ、あの二人は夫婦みたいなものだって」

「別に。東江君は、ただの友達」


 ゆっくりと上体を起こす千春。


「あ、帰れそうな感じですか?」

「まだ頭がぼおっとしてる」

「えー。先輩、どんだけ本気でやってるんですかー。大会近いのは分かりますけど、そんなんじゃ夜道とか危ないですよー?」

「そのための東江君だから」

「知ってますよー。そのあたりはほかの先輩方から聞きました。下宿先が同じなんですよね?」


 そう訊きながら、秋穂は千春のとなりに腰を下ろす。


「一緒に帰ってくれる男子がいるって、結構、青春じゃないです?」

「そうかな?」

「そうですよー。しかも同じとこに住んでるなんて、かなりドキドキだと思います」

「東江君は、そんな感覚じゃなかと思う」

「じゃあ、先輩はそんな感覚だったり?」


 千春は少し、返答に窮した。


「どうだろ。考えたことない」

「へー。ほー」


 言葉を濁した千春の顔を、にんまりとした笑みでのぞき込んでくる秋穂。


「これはちょっと、くすぐりがいありそうかも」

「なに?」

「その、東江先輩って、どんな人なんですか? いつもアンニュイな先輩がそれだけ頼りにしてる人って、興味あります」

「頼りって、別に。いてくれんと私、死んでそうな気はするけど」

「ええ?」

「だって、ご飯作ってくれる人おらんし、自分で作るのめんどかし」

「あ、そゆことですか。頼りっていうか、なんか依存っぽいですね」


 秋穂は明るい口調で、何気なさそうに言った。千春はなにも言い返せなかった。


「で、東江先輩ってどんな人なんですか?」

「男」

「それは分かりますよー」

「料理はそこそこ上手、でも色々アバウト。目分量ばっか」

「あ、そゆこと言うの、夫婦っぽいかもです。でもなんか、東江先輩の方が奥さん的ポジションですね」

「私は仕事に疲れたリーマン的な?」

「ですです」


 快活に頷く秋穂。

 千春はジトリとした目を向けたが、反論はしなかった。


「千春先輩はバリバリ働いてるキャリアウーマンで、東江先輩は専業主夫、みたいな」

「ふぅん。ナウいね」

「ナウいって言葉がナウくなくないです?」

「一周回ってナウかとよ」

「そですかね」

「うん」


 千春が頷いたところで、ガチャリと、ロッカールームのドアが開かれる。


「まだ誰か残ってるの? もう閉めるから、早く帰りなさいね」


 顔を見せたのは部活顧問の女性教師だった。千春と秋穂は『はい』と返事をそろえ、荷物を手にしてロッカールームを出た。

 この体育センターからでは、正門よりも裏門の方が近く、水泳部員のほとんどが裏門から学校の敷地外へと出る。

 だが、千春は必ず正門へと向かう。夏希はいつも、正門近くのベンチか、雨の日は正門前のバス停に座って待っている。


「あ、千春先輩。さっきの話の続きなんですけどー」


 秋穂は普段、裏門から出ているはずだが、この日は千春についてきていた。


「今は夫婦っぽい先輩たちですけど」

「その前提っている?」

「どういうきっかけで、東江先輩と話すようになったんですか? なんかこう、なれそめ的なの、聞いてみたいです」

「うーん」


 と、千春は考え込み、


「きっかけはたぶん、私かな」

「おー! 千春先輩からアタックしたんですか。意外です」

「アタックじゃなかけど。もがみ荘に入ったのが去年の春休みで、その時に私、色々と死にそうで」


 千春は、夏希と初めて出会った頃を回想しながら、ゆっくりと語り始めた。



 *



 千春がもがみ荘で下宿を始めたのは、去年の三月下旬。

 ぎりぎりまだ中学生の身分だったが、水泳部の特待生として入学が決まっていた彼女は、春休みの間も高校の部活に参加していた。

 本格的な練習には加わらなかったため、身体的な辛さはそれほどなかったが、この頃の千春は、思わぬ障害に苦しめられていた。

 それは、高校から出された課題。

 国語、数学、英語、理科、社会の五科目、それぞれ約五十ページずつ収録された問題集を解くこと。

 それに加え、新聞に掲載されている社説を読んで、八百字程度の感想レポートを作成すること。

 それら二つの課題を前にし、千春は自室の椅子に座ってうなだれていた。


「ワーク、分厚過ぎ。そも社説ってなん?」


 それが彼女の、率直な所感だった。

 これらの課題は、二月の初めには高校から郵送されてきたものだった。その頃から少しずつでもこなしていれば、今頃はとっくに終わっていたかもしれない。

 が、千春は今日になるまで一切手をつけていなかった。

 課題は入学式の日に提出と言われている。入学式まではもう二週間切っていた。さすがにそろそろ、終わらせなくてはならない。


 心地よい昼下がり、千春はついに机に向かい、課題に取り組み始めた。

 しかしやはりダメだった。一時間後、彼女は机の上で、ハッと目を覚ました。

 ほとんど書き込まれていない問題集を目の当たりにして、自分が寝落ちしていたことに気づかされた。

 問題集の内容はすべて中学のおさらいに過ぎなかったが、千春にはまったく理解できなかった。ウェンズデイの綴りすらど忘れしていた。


「くそが」


 スマホで調べる気も起きず、千春は自室を出て一階へ下りた。

 台所に向かう途中、居間からゆったりとした音楽が聞こえてくる。

 中をのぞいてみると、夏希が座椅子に腰を下ろし、本を読んでいた。音楽は、テレビの下のシアターラックから流れている。

 夏希の方は、千春が見ていることに気づいている様子だったが、特に気にすることなく読書を続けていた。

 千春は台所で麦茶を飲んだあと、居間に立ち寄った。それから恐る恐る、夏希のそばまで歩み寄る。

 これには夏希も顔を上げ、


「どうかしたんですか?」


 と、不思議そうに訊いてくる。

 千春は、言葉がすぐに出なかった。ひとまず「えっと」と、輪郭がぼんやりした声で言って、


「ウェンズデイの綴りって、どうだっけ」


 そう訊ねていた。

 これには夏希も唖然としていたが、しばらくして、


「ウェドネスデイ?」

「あ、それだ」


 千春はようやく思い出した。

 夏希はわずかに首を傾げ、


「もしかして西城さん、まだ課題やってたりとか?」

「うん」


 素直に頷く千春。

 まだ、と言ってくるあたり、夏希はすでに終えているのだろう。


「その、写させてくれん? ません? ワークの方」


 意を決し、千春が切り出してみる。

 夏希は小さく苦笑し、


「いや、それはちょっと」


 と、言葉を濁す。

 千春はそれから、わずかな時間だが立ち尽くしていた。透明な沈黙の中では、シアターラックから流れるインストゥルメンタルだけがやけに明るく響いた。


「うん、ごめん」


 千春は踵を返し、廊下に出ようとする。

 その時、


「待って」


 夏希は腰を上げ、彼女を呼び止めた。


「分からないとこがあるなら、教えるくらいはできると思う」

「は?」

「今、どれくらい終わってるの?」

「一ページも」


 尻切れ気味に答える千春。

 夏希は「そっか」と頭を掻いたが、


「入学式まではまだ日にちあるし、たぶん大丈夫だと思う」


 と、穏やかな口調で言った。

 それから入学式までの二週間弱、夏希は千春に課題を付き合ってくれた。

 問題集は一日にやる目安を決めて取り組み、寝落ちしそうになれば叩き起こしてもらいながら、なんとか八割程度の問題を埋めることができた。これで提出しても咎められないくらいには解けたと言ってよかった。

 社説のレポートは、夏希が実際に書いたレポートを見ながら、構成だけを参考にして書ききった。八百字程度だったため、段落ごとに分けて文章を考えていけば、それほど時間はかからなかった。

 こうして千春は、春休み最大の障害を乗り越え、無事に入学式の日を迎えることができたのだった。



 *



「なるほどー。それが先輩方の初めてだったんですね」


 正門までの道を歩きながら、秋穂が大げさな具合に相槌を打つ。

 それに対し、千春はあくまで淡々と語っていた。


「うん、まあ、初めてちゃんと会話したというか」

「初めて東江先輩に頼った瞬間ってわけですよね」

「まあ、そうかも」

「それからずるずると、頼りきりになって今の関係なんですね」

「言われてみると、そうかも」


 千春はぼんやりと答えた。歩くさなかにローファーで小石を踏んでしまい、ふらつきそうになった。


「でも、東江先輩って優しいんですね。同じ屋根の下にいるとは言え、大して仲良くない女の子の課題をつきっきりで見るなんて」

「そうかな?」

「そうですよー」

「本当に優しかったら、写させてくれればよかとに」

「そうですけどー、でもやっぱり、優しいと思いますよー。もしかして東江先輩の方は、千春先輩のこと、好きだったりして」


 小憎たらしい笑みを向けてくる秋穂。

 千春は表情を変えず、


「どうだろ」


 と、ぶっきらぼうに答えた。

 秋穂はまた、にんまりと微笑む。


「否定とかはしないんですね」


 千春はなにも言わなかった。少しだけ足取りが重くなって、秋穂との歩調がずれ始めた。

 気づけば、すでに正門の近くまで来ていて、いつものベンチに、夏希の後ろ姿を見つけた。





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