11.夜道
スマホのLEDライトを頼りに読書をしていた夏希は、足音で千春が来たことを察し、ベンチから立ち上がった。
本などを鞄にしまいながら帰り支度をしていると、千春と共に、予期せぬ女子生徒がベンチまで歩いてきていた。
リボンの色からして一年生のようだが、千春よりもかなり背が高い。また雰囲気についても、アンニュイな千春とは正反対な人懐っこさが滲み出ていた。
「あ、東江先輩ですか?」
先に話しかけてきたのは、千春ではなくその女子生徒だった。
「あたし、一年の南波秋穂って言います。千春先輩とは、水泳部で一緒で」
「ああ、どうも、東江です。西城さんとは同級生で」
簡単に挨拶しながら、夏希は千春の方を見やる。
「なんか、東江君に興味持ったみたいだったけん」
夏希の気持ちを察したのか、千春がか細い声で言った。
「話は色々聞いてますよー。下宿先が同じとか、千春先輩の命を握ってるとか」
「命?」
秋穂の言葉に、夏希が首を傾げる。
「その子の中ではそうなってるっぽい。気にせんでよかよ」
千春が釈明するように言った。
「東江先輩って、下のお名前はなんて言うんですかー?」
「え? 夏希だけど」
「じゃあ、夏希先輩ですね。千春先輩と同じ感じで」
「ああ、うん」
夏希は気圧されたように頷く。不思議と口元も緩んでいて、それは紛れもなく、秋穂の人懐っこい笑みによって引き出されたものだった。
「こんな時間まで待ってるってことは、夏希先輩も部活かなにかですかー?」
「ああ、俺は文芸部で」
「あ、文芸部なんですね。先輩、いかにも読書家っていうか、知的そうな感じしますもんねー」
「いや、別にそうでも」
「でも、文芸部もこんな遅くまでやってるんですねー。知りませんでした」
「あ、部会は六時過ぎには終わってて。俺だけここで待ってただけだよ」
「え、六時ですか?」
秋穂は思わずといった感じで、正門近くにある時計台を見上げた。時刻はすでに七時を回っている。
「千春先輩のこと、一時間も待ってたんですか?」
「まあ、いつものことだから」
「えー! めっちゃ待ってるじゃないですか! ていうか、去年もずっとこんな感じだったですか? 冬でも?」
「そうだけど」
「えー!」
ふたたび大げさに驚く秋穂。
「先輩、めっちゃいい人じゃないですかー! 忠犬なんとかみたいです」
「いや、西城さんはちゃんと帰ってきてくれるから。それに、本読んでれば、一時間くらい全然」
「そんな強がって、ほら、手だってこんなに」
突然、秋穂は夏希の手を取った。
「あれ? あんまり冷たくないですね」
「いや、今は冬じゃないし」
「あ、そうですよね。あはは、すみません」
と、秋穂が照れたように微笑んだところで、
「秋穂」
と、千春が彼女の名前を読んだ。
「私たち、そろそろ帰るから」
「あ、すみません」
ぱっと、秋穂が夏希の手を離す。
「行こう、東江君」
「あ、うん。南波さんは、一人で帰るの?」
と、夏希が訊ねると、
「東江先輩、やっぱり優しいんですね」
秋穂はにっこりと目を細める。
「大丈夫ですよ。あたしは、パパが迎えにきてくれるので」
「そっか」
「秋穂、また明日ね」
どこか足早に、千春が歩き出した。夏希も「じゃあ」とだけ秋穂に挨拶して、すぐ千春のとなりに並んだ。
正門を出てしばらくは、互いになにも話さなかった。
二人にとってはいつものことだった。千春は部活で疲れている。夏希も、話しかけられなければ、特になにか言うことはない。
しかしこの時は、夏希から声をかけてみることにした。
『ねえ』
偶然にも、彼女の声と重なった。互いに顔を見合わせる。
「なに?」
と、先に訊いたのは千春だった。
「西城さんこそ」
「東江君から言って」
「どうして」
「よかけん」
夏希は、本当に訊ねたかったことをしまい込んで、代わりの話題を模索した。
「西城さん、平気になったよね」
「平気?」
「部活のあとは、もっと疲れてる感じだったから」
「もう、一年もしよぉけん」
「そっか。もう一年か」
夏希は努めて感慨深そうな声を出す。
「東江君、そんだけ?」
「まあ、うん」
「そう」
「西城さんの方は?」
千春は、すぐには答えてくれなかった。
海岸通りに差しかかって、夜風の持つ潮気がいっそう強く感じられるようになった頃、
「秋穂って、可愛かよね」
と、芯の抜けた声で、彼女が言った。
「ああ、まあ」
夏希もまた、輪郭のはっきりしない声音になった。
「秋穂の手、ぬくかった?」
「どうだったかな。よく覚えてない」
「そう」
酷くどうでもよさそうに、千春は言った。その言葉を境に、彼らはまた息をそろえたように口を閉ざした。
頭上の街灯が、パチパチと明滅する。夜のとばりにかかった薄く長い雲が、青白い月明かりをぼんやりと滲ませていた。
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